4ー7 モスクワ・2025年(現在)

 ソ連時代の権力者たちは、モスクワ近郊のウゾフォ村の国有ダーチャ――別荘でプライベートな時間を過ごした。歴史を動かす決断の多くは、そこでの秘密会議で決定されてきた。それは21世紀のロシアでも変わらず、旧共産党書記長の別荘が大統領専用の事務所に改装されていた。そして剛腕と名高い大統領は、歴代の皇帝と同様にそこで国の舵取りを行なおうとしていた――。


          *


 SVR長官が首相の別荘を訪れたのは、夜明け前だった。専属運転手を使わずに、1人でベンツを運転することなど久しくなかったことだ。『必ず1人で来い。誰にも行動を悟らせるな』と、大統領から直々に厳命されたためだ。数々の警備装置を抜けて別荘内に入った長官に、大統領は厳しい表情で命じた。

「クリーンルームへ入る」

 二重スパイが跋扈したソ連時代は、書記長の別荘といえども秘密の会談が自由に行なえる場所ではなかった。各所に盗聴器が仕掛けられていることは公然の秘密で、分からないのはどの装置が誰に使われているか、だった。敵対国のみならず、内部にも敵は多い。KGBとGRUの反目、政府各機関の縄張り争い、政治局員同士の足の引っ張り合いは、情報の流れをグロテスクなまでに複雑にした。仕方なく作られたのが、小さな〝クリーンルーム〟だ。

 防音材と厚い鋼板で覆われた部屋は物置にさえ狭すぎたが、扉をロックすればいかなる方法でも盗聴はできない。少なくとも、それを設計して極秘の工事を行なった技術者たちは、そう言い張った。大統領はその〝密室〟をハイテクで強化した。特殊塗料を隙間なく塗った壁は、無線LANはもちろん一切の電波を遮断する。建設当時の鋼板の壁はさらに分厚いチタン合金で囲まれ、劣化ウラン弾をも退ける強度を持つ。熱探知も完璧に防ぎ、扉を閉じれば中の会話を知る術はない。用いられた技術の多くは、日本製だった。

 クリーンルームに入ると、大統領は小さなテーブルに置いた電池式のランタンを点けた。潜水艦のドアにも似た扉を閉めてロックを降ろせば、空気の出入りも断たれる。中には電線も引かれていない。使用が長引く場合に備えて、酸素ボンベまで用意されていた。

 SVR長官は大統領と挨拶を交わしたきり、黙っていた。不機嫌な顔色を気遣ったのだ。地位を守りたいがための、処世術だ。

 長官は背が低く肥満体で、しかも50歳を過ぎてもひ弱さを感じさせる童顔だ。ロシア人が望む指導者の姿とはかけ離れている。ロシアにおける威圧的な風貌は、アメリカでのテレビ写りに匹敵するほど、政治家の将来を左右する。髭面か禿頭で、マッチョ――それが、ソ連時代から変わることのない国民の〝要求〟なのだ。

 長官は政治の世界に入ってすぐに、カリスマ性とは縁がないことを悟った。どんなに小さな集まりであれ、投票では常に口が達者なだけのタフガイに敗れた。一方で、知性だけでは人の気持ちを動かせないという劣等感が、彼を陰謀の達人へと鍛え上げた。そして、政治家としては足枷だった軟弱な容姿を、諜報の世界で最強の武器に変えた。時代はソ連からロシアへ、さらにグローバリストの草刈場からスラブ主義の中心へと目まぐるしく移り変わった。その中で彼は己れの生きる道を発見し、トップに登りつめたのだ。SVR長官の座は、彼にとっては大統領さえしのぐ、この世で最高の地位だった。彼が望むのは、ようやく手に入れた〝理想の権力〟が盤石であることだけだ。黒子の世界は、表の政治があってこそ成り立つ。

 大統領がうめき声をもらす。

「まったく、何が起きているのやら……。ブザンソン襲撃直後は、オリガルヒどもとネオナチが組んだのかと警戒していたが……」

「まさか、アイヌとの条約などとは……」

「それを探り出すのが君の役割ではなかったのか?」

「ですが……いえ、力不足を認めないわけにはいきません。傭兵が集結している情報を掴んで暗殺を疑っていましたが、核心を暴けないどころか、噂話以外にはなんの策謀も察知できませんでした。ネオナチどもの暗躍を封じるために先制攻撃を仕掛けたはずでしたが、モサドの策に翻弄されていたようです。せめてノムラの処分さえ成功していれば、ここまで事態は悪化しなかったかと――」

 大統領は長官を非難しなかった。

「力不足は私も同様だ。降って湧いたような黄金伝説の裏には何かがあるとは感じていたが、まさかこれほど厄介な問題が持ち上がるとはな。KGB出身の強面大統領の名が泣く……。で、千島売却条約の真偽は確かめられたのか……?」

 SVR長官は大きな思い違いに気付いた。大統領は不機嫌なのではない。心の底から困り果てていたのだ。

「クレムリンはもちろん、国中の古文書を徹底的に点検させていますが、条約に関する記録はまだ1つも発見されていません。条約に関わった者たちは、歴史から消すために記録を徹底的に抹消したのでしょう。ですが、西側がノムラの保護に全力をあげているのは事実です。こちらの協力者も数人排除されました。条約などという想定外のカードまで晒されては、対抗せざるを得ませんので。ただし、守るにも攻めるにも、時間の余裕はありません」

「霧の中で追い立てられているようだな……。今のところ機密が守られていることが救いだ。『千島アイヌ条約』が一般公開されれば、真偽はどうあれ、我が国は苦しい対処を迫られる」

「実態がつかめないので、否定するにしてもどこから攻めればいいものやら……。敵の手の内も読めずに先走ると、墓穴を掘りかねません。『原本がないから』と無視することはできますが……」

「FSBにも全力で国内情報の捜査に当たらせているが、拾えるのは噂話だけだ。サッポロの工作員たちも何も掴めていないのか?」

「ノムラを見失ったまま進展していません」

「確認するが、ノムラを狙撃したのはSVRではないのだな?」

「他の機関にも照会しましたが、我が国の者ではありません。おそらく、セクフィールが手配した欺瞞工作でしょう。我々に罪をなすりつけ、他国の情報機関を巻き込むための策略か、と」

「財閥どもが何世紀も続けてきた〝伝統芸能〟ということか」

「ただ、他にも真偽不明の情報が飛び交っています。功を焦った部下が勝手に調査を始め、トラップに掛かった者もいたようです。現場でも、混乱が広がっているようで……」

「コントロールできんのか?」

「ロシアは大国です。情報機関の数も多く、組織も入り組んでいます。足の引っ張り合いもありますから、ミスが揉み消されることもあります。なかなか全容が把握できずに難渋しています。大統領から命令を下していただければ、統制が取れるのですが――」

「それは難しい。下手に動けば、奴らに言質を取られかねん。『ロシアが非を認めた』などとリークされてはたまらん」

「その通りですが、手をこまねいているうちに齟齬が拡大しています。我が国が条約排除に動いているとも懸念されています。自衛隊は隊内のモグラ狩りまで始めました。放置していますと我々が築いてきた諜報網が壊滅させられる恐れがあります。今は北朝鮮ネットワークに目を逸らさせる手を打っているところですが……」

「ならばそれを推し進めたまえ。条約の実態が確実になるまでは、手詰まりなのだ。なんとか誤魔化し続けろ」

「了解しました。で、アメリカ大統領は連絡してきましたか?」

「それが気に入らんのだよ。意図して無視しているのかもしれない。SNSにも脅し文句は書き込まれない。沈黙しているのは、確信が持てないからだとも取れるが……。ファイブアイズを総動員しているというのに、情報が漏れてこないのも不気味だ。で、クナシリ襲撃の顛末は解明できたのか?」

「傭兵は依然消息不明です。大爆発の痕跡調査も継続中ですが、爆発時に死亡した可能性も高いようです。条約書がそこで発掘されたことはほぼ間違いないでしょう。まだ追加情報はありません」

「傭兵が自ら爆破した線が濃くなったな。我々に条約を否定する手がかりを与えない気だ。文書が消滅したというのは、おそらくフェイクだ。我々が『条約の原本があるなら認める』などと言おうものなら、ニヤニヤ笑いながら出してくる。陰湿なセクフィールどもが考えそうな手だ。条約書は現存するという前提で対処しろ」

「では、自衛隊やファイブアイズも騙されていると?」

「『敵を騙すなら、味方から』だ。それなら情報不足にも合点がいく。だがアメリカ大統領はそれを知って、自信満々で引き延ばしを楽しんでいるのかもしれん。とんだサディストだ」

「しかし、クナシリは我が領土です。他国には渡せません」

「それは当然だ……だが、これはただの条約ではない。机上の約束事なら難癖をつけて破棄もできようが、売買契約だ。しかも、アイヌは代金の支払いを終えているようだ。黙殺し続けるなら、国家的詐欺行為だと罵られる。ロシアの地位が失われかねない……」

「受け取ったはずの黄金の記録も見つかっていません!」

「見つからないから、なかったと? それが通用するなら心配はいらない。だが、条約文書が正当なものだと科学的に証明されたらどうする? 1867年、帝政ロシアはたった720万ドルでアラスカを売った。アイヌ人にも同じ方法で千島を売ったなら、認めないわけにはいかない。否定すれば、『ロシアはアラスカ売却も認めないのか』と難癖を付けられる。それを口実にアメリカが対ロシア軍備を増強すれば、我が国の経済ではもはや対抗できない。ロシアの味方は途上国ばかりだが、アメリカには日本がついている。冷戦敗北の二の舞だ」

 SVR長官が首をうなだれる。

「とりあえずは、今のまま情報収集を続けるしかないでしょう」

「私はアメリカ大統領からの電話に怯える続けるわけだな……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る