4ー6 最上徳内・1785年(マイナス240年)

 江戸幕府が千島買収の打診を受けてから6年後――。田沼意次は困難を極めた朝廷との交渉をまとめ上げ、条約締結の詰めに入っていた。将軍と天皇の署名が入った文書を携えた探検隊は、任務を完遂する寸前にある。目的地に到着した今では、苦難の道のりも懐かしい思い出となっていた。国後島を包んだ厚い霧が晴れようとしている。海の彼方に、知床の山並みがシルエットを見せ始めた。

 商人の目が届かない浜辺に立った最上徳内は、一人つぶやいた。

「これでようやく、ションコたちも海を渡れるな……」

 後に日本屈指の北方探検家へと成長する徳内は、この時、探検隊のサブリーダーである青島俊蔵の部下となっていた。元々は商人だった徳内は、行商に赴いた蝦夷地に魅せられ、探検家を目指した。江戸の本多利明に師事して測量、航海術、天文学を身につけた徳内は、今回の探検隊に本多の代理として加わったのだ。その才気と行動力はリーダーから高く評価されている。

 障害続きだった長い旅が、大団円を迎えようとしていた。探検隊の一行にアイヌの指導者たちが合流する時、幕府と朝廷が手を握った壮大な〝土地取り引き〟が完成するのだ。


         *


 計画の当初、蝦夷地探検隊は江戸から海路を用いて松前に渡る予定だった。だが、商人と組んで収奪を欲しいままにしている松前藩は、アイヌの現状が幕府の目に触れることを嫌う。杜撰な領地運営を理由に、利権を奪われかねないからだ。したがって探検隊は藩や商人の妨害を避けなければならず、藩との接触は最小限に止める方針でいた。千島売却計画が悟られれば、探検隊が謀殺される危険すらあった。だが、探険のために作られた二隻の新造船――神通丸と五社丸の完成は大幅に遅れ、予定が狂った。やむをえず陸路で青森に向かった徳内たちを迎えたのは、大飢饉に倒れた農民の死骸の山と腐臭だった。ようやく蝦夷地に渡った探検隊は松前で御用船の周航を待ったが、到着はさらに遅れるという報告に落胆を強いられた。

 蝦夷地の冬の厳しさを考えると時間は浪費できない。4月末、松前藩は一行に対して国後方面へ向かう船を用立てた。探検隊の真の目的を探り出すために、便宜を図るという名目で彼らを監視していたのだ。援助を拒否すれば彼らの疑いを強めさせ、日程的にも計画が破綻しかねない。探検隊は松前藩の提案を受け入れる他はなく、同時に間諜たちの目を欺く偽装に労力を割くことを強いられた。

 徳内たちは国後へ向かう途上、太平洋岸各地の交易所に上陸し、アイヌの暮らしぶりや土地の様子、交易の現状を調査していった。交易実態の調査が目的だと信じ込ませるためだ。だが、藩がよこした案内人たちはあからさまに探検隊を妨害し、日程を遅らせようと工作した。通訳を介したアイヌとの会話は噛み合わず、混乱が続く。探検隊が蝦夷本島の東端、シベツにたどりついて国後島を目前にした時は、7月も半ばに達していた。だが、そこで合流した町人姿の男が難問を一挙に解決してしまった。世間を斜に眺めているような不遜な男は、『伊達屋酔狂』と名乗った。むろん、本名のはずはない。しかし酔狂は、徳内に問われても素性を明かさなかった。伊達屋酔狂はすでに老人と呼ばれる年令に達していると思われるのに、物腰や言葉使いは若々しく、最新の知識や技術に精通して機転が利いた。幕府の使節団に対する馴々しさも、理解を越えていた。

 徳内は髭を生やし放題にしたむさくるしい姿の酔狂が好きになれなかったが、隊を率いる普請役の山口鉄五郎は全幅の信頼を置いていた。彼らは旧知の間柄のようだった。実際に酔狂は、山口の期待を裏切らない才気を発揮した。アイヌ語に堪能な酔狂は、『くたばっちまえ!』の一言で藩の案内人たちを追い返した。

 時を同じくして、神通丸と五社丸がシベツに入港した。徳内は予想外の船の巨大さに言葉を失った。山口はそこで初めて、あらかじめ蝦夷地に派遣されていた酔狂の情報によって、御用船に大幅な設計変更を加えたことを打ち明けた。それが船の完成が遅れた原因だったのだ。新造船には、予想を超える量の黄金を運搬するために並はずれた強度が要求されたという。徳内の酔狂への関心はいやが上にも高まった。国後へ渡る船上で、徳内はしつこく酔狂の本名を問いただした。しかし本人も山口も、そして徳内の上司である青島俊蔵も、にやにや笑うばかりだった。

 国後で彼らを迎えたのは、族長のサンキチと副官のツキノエだった。一行は彼らにロシアの動向を尋ねながら、ノッカマフの酋長のションコと、アッケシの族長のイコトイの到着を待った。イコトイの先祖は、千島全島やカムチャッカまでを統率した大族長である。


         *


 数10隻に及ぶ小舟の先頭にいたのは、ションコとイコトイだった。彼らは上陸するとサンキチらと礼を交わし、酔狂ともにこやかに語り合った。酔狂は生粋のアイヌのように溶け込んでいる。山口も青島も、呆れ顔で酔狂の振る舞いを眺めていた。

 徳内は改めて山口に尋ねた。

「彼の正体、もう教えてくださってもいいんじゃないですか?」

「その時が来たら、自分で打ち明けるさ。肝をつぶすぞ」

 酔狂は族長たちを紹介し終えると、言った。

「では、さっそく2つの品物を確かめましょうか。時間を無駄にしていると、悪徳商人どもに感づかれます。まずは黄金。なかなか素晴らしい光景ですぞ。少し歩きますが、案内に従ってください。私はロシアが残していったという条約書を確かめておきます」


         *


 崖に穿たれた洞窟から這い出た一行は、揃って我を失っていた。

 山口が茫然とつぶやく。

「徳内……あの砂金がどれほどの量になるか見当がつくか……?」

 徳内は自分の腕を見た。砂金がくまなく貼りつき、ぎらぎらと輝いている。洞窟自体が黄金でできているように見えた。ろうそくの光が照らす光景は、神の体内か極楽の絵図を見るようでもあった。

「とんでもない……掘っても掘っても、底には届きませんでした。彼らの言葉通り、人の背丈より深く敷き詰められているのなら……。ともかく、あれだけの黄金が手に入るなら、今後は公儀の御経済も心配無用。一橋の悪巧みも容易く退けられるでしょう」

 青島もうなずいた。

「田沼様のお目に狂いはなかったな……」

 3人は、片言の日本語を話すアイヌの案内人に導かれ、山を下って粗末な小屋に通された。そこに4人の族長と酔狂が待っていた。

 ツキノエが流暢な日本語で言った。

「このようなむさくるしいところで、申しわけございません。役人や商人の手の者に知られると、ただ事ではすみませんので」

 探検隊の3人は、ツキノエが日本語を話せるとは思っていなかった。呆気に取られた彼らに、酔狂が笑いかける。

「私はアイヌ語を学び、彼らに日本語を教える――。それも田沼様からのご命令でした。しかし、日常の会話なら元々多くのアイヌが理解しています。このツキノエには、私の経験と知識を伝えました。このたびの条約締結の中心になったのもこの男です。アイヌの国を治める次の指導者として、有能で信頼できる人物です」

 ツキノエは言った。

「まあ、お掛けください。あいにく、酒はありませんが。言葉が分かることを隠していたご無礼をお許しください。それで、黄金にはご満足いただけましたかな?」

 山口は深くうなずいた。

「量は予想以上。で、質はどうだ?」

 山口の目は酔狂に向かう。

 酔狂は自信満々で断言した。

「私が今まで見たどの砂金より上等です。溶かせば、そのまま小判にできるでしょう。それから、もうひとつの件ですが……」酔狂は何枚かの紙を3人に見せた。角張った見慣れぬ文字がびっしりと書き込まれている。「この条約書も本物です。ロシア皇帝であるエカテリーナ女帝がアイヌ民族に千島全島に関する全ての権利を売却したことが、はっきりと書かれています。これは女帝の全権委任状で……こちらが代金の黄金の受け取り証。ロシアは、カムチャッカの南のシュムシュ島から国後の間の島々がアイヌの国になることを公式に認めたのです。アイヌの側から申し出れば交易は可能ですが、狩猟や港の利用には族長の許可が必要なことも明記されています。日本とアイヌの取り引きに不利になるような点はありません」

 徳内は叫んだ。

「ロシア語がそんなに分かるのですか⁉」

「驚くほどのことではない。アイヌたちも、普段からロシア人と話をしている。隣国と親しくつき合っていかなければ民族を保てないからだ。意志を正しく通じさせることは、欠かせない能力だ」

 ツキノエは哀しげにつけ加えた。

「日本人やロシア人がアイヌを対等に扱ってくれれば、こんな取り引きを申し出る必要もなかったのです。皆が神々の恵みに満足していれば、助け合って暮らすこともできた。しかし、あなた方は神々の庭を踏みにじる。食いもしない魚を取り、毛皮のためだけに獣を狩り、金を求めて大地をえぐり、命の源である森を倒す――。そして、アイヌは奴隷にされた。この世はすべて、神々が作りたもうたもの。神の前には、人も獣も森の木々も、すべてが平等です。人が人を奴隷にするなどとは、神を畏れぬ思い上がりです」

 酔狂がつぶやく。

「人は、そうやって食い合い、滅びていくのかもな……」

「もう何も言いますまい。アイヌに千島を下されば、同胞を集めて静かに暮らします。神々と共に。いつの日か、あなた方と良き隣人として分かり合える時が来ることを祈って……」

 酔狂も力なくうなずく。

「日本も、辺境でひっそり生きられたら幸せなのかもしれない。だが、もはやそれが望めぬほどに国は巨大で、人々の心根はアイヌと異なる。国の中で争いを繰り返すうちに、勝ち続けなければ滅びてしまう袋小路に迷い込んだ。この先、世界の列強と角突き合わせる時も遠くない。いまさら後戻りしたとて、彼らに食い散らされるだけ。となれば、鎖国を続けることはできないし、させてはなりません。田沼様のご決断は正しい。ロシアとの軋轢を避けるためにも、ここにはアイヌの国が必要なのです」

 徳内は、ようやく酔狂の正体に思い当った。

 外国語と地下資源に詳しく、世界を正しく見る知性を備えた男――。しかも彼は、5年前からこの地に滞在しているという……。

「もしやあなたは、平賀源内様では⁉」

 酔狂は自嘲するように笑った。

「源内は死んだよ。江戸の混沌と幕府の石頭どもに絶望し、狂い死んだ……。私はここで、生まれ変わった。ここは、いい。人が人として生きられる。冬、真っ白な雪に閉ざされていると、自分の小ささが見える。世界の広さが見える。人は、もっと利口な世界を作らなくてはならん。アイヌの知恵がそれを教えてくれる」

「獄死したのは、芝居だったのですか……」

「田沼様のお言いつけでな。私を蝦夷に送り込むことは秘密だった。だがあの時、私の中で何かが死んだ……。もはや、江戸に為すべきことは残っていなかった。私はこの広大な新天地を求めて、放浪を続けてきたような気がする……」そして源内は、懐から出した包みを山口に渡した。「ここに蝦夷地開発のあらましをまとめておきました。天然資源の調査結果や、ロシアの動向も記してあります。お目を通された上で、田沼様にお届けください。蝦夷地開発が成れば、日本が飢える心配も減ることでしょう。そして、アイヌの民をこれ以上痛めつけることのないよう、ご配慮ください。また、蝦夷地開発を円滑に行なうには、松前藩の協力が欠かせません。その点を熟考なさって、松前への対応を決定されることを望みます」

 山口はわずかに首をかしげた。

「一緒に江戸に戻られると聞いていたが?」

「蝦夷地での仕事がありますので。江戸は田沼様にお任せします」

「承知した」

「で、将軍と朝廷の委任状はどちらに?」

 山口は、ぽんと胸を叩いた。

「ちゃんとここに揃っているよ」

「では、条約締結ですね。条約書はここにございます。内容を確かめ、御署名ください」

 源内は自ら記した数枚の文書を差し出した。

 山口はその文書を受け取り、感極まったようにつぶやいた。

「これで一橋どもの思い上りも叩きつぶせるだろう。日本はようやく、硬い殻を破って世界に乗り出す時を迎えるのだ」

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