4ー4 田沼意次・1779年(マイナス246年)

 フランス革命がヨーロッパを揺るがした1789年から遡ること、10年――。江戸幕府の中枢では、封建制度を揺るがす大変動が起きていた。事は、1772年に田沼意次が正式老中となったことに始まる。意次が頭角を現し始めた当時、幕府の財政は巨額の借金を抱え、事実上破綻していた。その場かぎりの増収策や倹約令では借金が増えるだけの悪循環に陥っていたのだ。意次がまず取り組まなければならなかったのは、国の財政の立て直しという、難問中の難問だった。国の破産は、幕藩体制が機能を失ったことを実証している。にもかかわらず、複雑で高度化した官僚制度は、時代の変化を認めなかった。既得権益に固執する官僚は改革に抵抗し、幕府が身を削ることなど望むべくもない。そうして構造改革を引きのばしてきたことが、幕府を瀕死の重傷へと追い込んでいた。

 だが、わずか600石の小身旗本として生を受けた意次は、失うものが小さい。後に将軍となる徳川家重の小姓となったことも、偶然の結果でしかない。しかしその偶然こそが、意次に官僚政治を切り裂く力を与えた。しかも意次には、現実を見極める知性と政治家にふさわしい理念、そして困難に立ち向かう胆力が備わっていた。

 時代は田沼意次を選び、試したのだ。

 政治の表舞台に登場した意次は真っ先に、米生産に頼ったそれまでの経済システムに見切りをつけ、重商主義的経済政策を導入した。農村で生産される穀物以外の特産物にも目をつけ、株仲間を公認した。株仲間商人は特定の商品に関する独占権を保障される代償に、税や政治献金を幕府に収めることとなる。さらに意次は全国規模の商業活動を活性化するため、通貨改革を断行した。その時代、関東では金が、関西では銀が主な通貨として流通していた。東西間の物流には、金銀の重さを計って両替をするという手間が必要だった。意次はこの無駄を省くために、通貨の重さに関係なく『金一両が五匆銀十二枚と等価になる』と定めた。重量が価値を決める秤量通貨制度から、貨幣の価値を固定する表位通貨制度へ移行したのだ。意次は政策の中心に、常に商業の勃興を据えていた。

 当然、金銀の相場変動で利益を貪っていた両替商――現代の銀行にも相等する彼らは反発した。彼らは公にできない〝利益〟を分け合っていた幕府内の勢力と結託し、裏工作や妨害を行なうこととなる。意次は、改革を進めるほど敵を増やす宿命にあった。それでも、信念を崩そうとはしなかった。常に穏やかで強い笑みを浮かべながら、彼の目は広く世界を、遠く未来を見つめ続けた。そして今、時代はまた意次を軸にして、大きく歯車を回そうとしていた。


         *


 所は田沼邸の奥座敷――。

 豪胆の名をほしいままにしていた意次が、驚きの声を上げた。

「アイヌ人が千島を買い取りたいだと⁉」

 日も昇りきらない早朝に意次と相対するのは、幕府財政を取り仕切る勘定奉行・松本秀持だった。勘定奉行は現代の財務大臣の権限をはるかに越え、民政なども取り仕切るポストで、極めて重要な地位だ。その松本の情報は信じがたいものだった

「代金として、大量の砂金を用意しているそうです」

「砂金、とな……。で、どれほどの量を?」

「交易船にして100隻分は下らないとのこと」

 意次は千島の代償の大きさに肝をつぶし、言葉を失った。

 松本が話を続ける。

「事の起こりはこうでした。蝦夷地北方の島々で一手に交易を請け負っている飛騨屋久兵衛という商人が、『航行の妨害を受けた』と訴え出た件は、お聞きおよびでございましょう。久兵衛に訴えられた松前藩の勘定奉行、湊源左衛門に内々に問いただしましたところ、騒動の裏にロシアの動きが絡んでいることを明かされました」

「ロシアが蝦夷地に入り込んでいるのか⁉」

「はい。飛騨屋との紛争が起きる1ヵ月ほど前、厚岸という港にロシア人が訪れて交易を申し出ていたのです。そればかりか、ロシア人らは1年前にも蝦夷地を訪れており、松前藩から『幕府との協議が必要だから翌年にまた来い』と追い返されていたのです」

「その約束を信じ、松前の返答を受け取りにきたわけか……」

 松本はニヤリと唇を歪めた。

「ですが、それも表向きのこと。藩の上層部では口裏が合わされておりますが、もっと根深いロシアの策動が隠されていたのです。源左衛門の申すところでは、厚岸に現われたロシア人の目的は、日本がアイヌとの交渉の応じるように圧力をかけることだというのです。『アイヌに千島を売れ』と、国を挙げて迫ってきたのです」

 意次の表情が曇った。

「アイヌがロシアと手を結んでいるのか?」

「それが、全く逆なのです。『ロシアはすでにアイヌに千島を売ってしまったらしい』というのが、源左衛門の見立てでして――」

 意次はまたしても意図せぬ声を上げた。

「なんだと⁉」

「私も、最初は信じられませんでした」

「領土拡大のために戦を繰り返すロシアが、なぜ売り払う?」

「松本の考えはこうでした。『ロシアの中心はあくまでも西方であり、辺境の島々などに神経は使いたくないのが本音。だから大量の黄金と引き替えに千島を売ったのだ。しかしながら、日本がアイヌの土地を占拠して自国に肉薄することは防がなければならない。そのために、我が国にも同様に千島を売らせたい』――と。さすれば日本とロシアの間には温和なアイヌの国が築かれ、緩衝地帯となります。さらにロシアは、アイヌを仲立ちにして通商路を開く事を願ってもいる様子。日本各地の港でのロシア船への協力も求めてきたと申します。千島売り渡しの代金としてアイヌから得た黄金を海路で運ぼうと企てている、というのが源左衛門の結論です」

 田沼意次は長崎奉行の久世広民を介し、オランダ商館長チチングからヨーロッパの政治情勢を聞き出していた。拡大を続けるロシアが、日本に接近しつつあることも知っている。そしてロシアの意図も、理解できた。金が欲しいのだ。幕府と同じように……。

「松前藩がロシアの要求を隠したいのは分かる。藩の勝手で島を売ることはできんし、仮に売ってしまえば恒久的な収入源を失いかねん。ロシアへの防備を口実に幕府が乗り出せば、蝦夷地を取り上げられる恐れもある。だが勘定奉行ともあろう源左衛門が、藩の不利になりかねない真相を明かしたのは、なぜだ?」

「当人とひざを交えて腹を割った話をして、腑に落ちました。あの男は、蝦夷地に惚れ込んでいるのです。『広大な原野を切り開いて日本の将来に役立てられるなら、藩から領地を奪われても構わない』とまで言いました。今の蝦夷地は、悪徳商人と山師が跋扈する無法地帯。有り余る資源が放置されています。言葉も風俗も異なるアイヌがおりますから、藩の支配も行き届きません。源左衛門には、それがもどかしくてならないのです」

「清廉潔白な奇特者だ、と?」

「野心家、と呼ぶべきでしょう。藩の当主を飛び越して幕府と結びつき、己れがその権益を奪う――それが目的でありましょう。しかし、蝦夷地の可能性に心酔していることも事実。同調する有力者も多いといいます。源左衛門らはゆくゆくはアイヌを蝦夷地から取り除き、日本人を移住させたいと申しております。さすれば、かの地は思うがままに切り開け、ロシアへの警備も万全となりましょう」

 意次がわずかに身を乗り出した。

「移住、か……。壮大だな」

「そのために片づけなければならない問題は、アイヌ人を取りまとめることと、どこに住まわせるかという点でした。そんな折りに、国後島のアイヌから秘かに『千島を買い取りたい』との申し入れを受けたのです。彼らは、『国後に蝦夷地のアイヌを集めて国を興したいので、幕府へ直接取り次いでもらいたい』と言ったそうです」

「松前藩の頭越しに、ということか?」

「藩と商人は一体。彼らの妨害を恐れたのでしょう。源左衛門の欲をくすぐれば、味方に取り込めると踏んだようです」

「まるで世慣れた商人のやり口だな」

「侮れぬ民です。ともかく、源左衛門を悩ませていた問題の解決を、アイヌ自身が引き受けたのです。源左衛門は藩に背くことを決意し、交渉の仲介役を引き受けました。ところが飛騨屋は下人から『何らかの企てがある』という噂を聞き、源左衛門がアイヌと手を組んで幕府への接触を目論んでいると知りました。案の定、利権を守るための妨害工作が始まりました。飛騨屋にとって蝦夷地は宝の山。決して手放せません。彼らは松前藩内の保守派と手を組み、源左衛門の配下の者を謀殺していきました。武士も商人も区別がない土地柄、手荒な行いも罷り通っておるようです。源左衛門は反対勢力の包囲を破るために、アイヌにかくまわれながら飛騨屋の交易船を襲いました。目的は、公儀の目を引きつけること。もはや手段を選んではいられなかったのです。交易船は次々と消息を絶ち、その噂は江戸にも広がりました。船の乗り手を集められなくなった飛騨屋は、公儀に訴え出るしかありませんでした。源左衛門は、ようやく我々の庇護の下に大手を振って姿を現すことができたわけです」

「千島を売る計画は悟られていないのか?」

「源左衛門は、そう申しております。飛騨屋の勘ぐりと疑心暗鬼が抗争を招いたというのが実際のところでしょう」

「で、黄金の話は確かなのか?」

「源左衛門は目隠しをされて隠し砦に連れて行かれ、砂金を確認したと申しております。これが見本でございます」

 松本は懐から手のひらほどの大きさの油紙の包みを出し、意次の前で開いた。一握りの砂金が現れる。意次がかつて見た事がないほど、大粒の物が揃っている。

 意次は砂金をつまみ上げながら、つぶやいた。

「……源左衛門には黄金を横取りしようという下心はないのか?」

「黄金運搬には強靭な船団が必要で、何ヶ月もの時を要します。しかも隠し場所が分からぬ上に、アイヌが守りを固めて奪えぬでしょう。アイヌと幕府の仲を取り持って双方に深く食い込み、末永く利益を上げる方が利口だと計算したのでしょう」

 意次は事態を理解すると、ようやく笑みをもらした。

「それが飛騨屋との紛争の真相か……。で、その男は今どこだ?」

「私の手の者が、かくまっております。松前藩がよこしたと思われる刺客を、すでに3人始末いたしました。今夜にでも、田沼様にお目通りいたしたいと申しておりますが……」

「会わねばなるまい。源左衛門という男の考えも、面白い。蝦夷地を開く……か。北辺の地のこと、一代で開発が成るとも思えんが、息子の意知が志を継げば、日本が飢餓に怯えることもなくなるかもしれん。腰を据えて事情を調べろ。ただし、内密にだ。千島が日本の領地だと疑わない石頭どもには、それを売ることは大犯罪に見えるだろう。外に漏れれば、私は失脚する。それを願う者も多い」

「心得ております」

「近いうちに蝦夷地へ調査隊を送り込みたい」

 と、松本は頭を下げてつけ加えた。

「いまひとつ、お断わりしておかねばならぬ事がございます……」

 意次はかすかなため息をもらす。

「やはり出たな、『いまひとつ』が……」

「申し訳ございません」

「お主が困難なことを最後まで隠すのは承知だ。で、なんだ?」

 松本は頭を上げないままで言った。

「アイヌたちは千島売り渡しにあたって、絶対に譲れない条件をつけてまいりました。幕府の了解のみならず、『朝廷が千島をアイヌの土地だと認めた文書が必要だ』と……」

 さすがの意次にも意外な要求だった。

「幕府が信用できないというのか?」

「アイヌたちは、ロシア船が幕府の言葉で右往左往していることを知っています。黄金を渡しても、幕府が約束を守り続ける保証はないと疑っているようで……」

「確かに幕府の屋台骨は揺らいでいる。徳川が滅びないという保証もない。国の果てとはいえ、皇室の承諾なしに島々を売ることもできん。朝廷が『そんな話は聞いていない』と居直れば、幕府の約束など反古にされてしまう恐れもある……。アイヌの言い分はもっともだ。だが、なぜ我々の内情を知っている? 文字さえ持たない民なのではないか? なぜそれほど取り引きの才に長けておる?」

「交易を生業とする民でございます。文字は記さなくとも、周辺の言語を話し、それぞれの国の政情に精通している者も多いようで」

「狩猟しかできない野蛮人ではないのか……。よし、朝廷への工作は私が引き受けよう。公家どもの関心事は、常に保身のみ。その黄金で贅沢が続けられるなら、辺境の島々などに固執しないだろう」

「よろしくお願いいたします」

「おまえが気に病むことではない。探検隊の組織は任せるぞ。ただし、私への報告の他は、この件は一切記録に残さぬように」

 松本は、畳にひれ伏したまま会心の笑みをもらしていた。彼の目的は蝦夷地を松前藩から取り上げ、勘定奉行である自分の権限を拡大することにあった。その上に湊源左衛門のホラ話までが現実になれば、必然的に莫大な利権が集まる。難関を1つ、超えたのだ。

「しかと心得ました。一命を賭して取り組まさせていただきます」

 意次もまた、腹の内でにんまりと笑っていた。松本秀持の目的が私腹を肥やすことなのは、計算ずみだ。蝦夷地開拓の計画も、利益になると読んだから煮詰めてきたのだと分かっている。それでも既得権益を打ち壊す手段にできるなら、利用価値があったのだ。

 意次は、日本を変える決意を固めていた。古き因習を破壊し、若く高い志を持った者たちを解き放つ。そうすれば市中にあふれる若者たちは、この国を強くたくましく育てていく。できなければ、徳川の堅き鎧に守られながら、身動きもできずに腐り果てる。徳川など消えても構わないのだとまで覚悟していた。日本は屈強な諸外国としのぎを削り、己れを鍛え上げていかねばならない。蝦夷地の開拓はその布石にふさわしい。次にはロシアとの交易を、さらに息子の意知に跡を継がせ、いつの日か開国を……。

 松本秀持の欲深さこそが、日本の将来を救う。国を開くためには、その毒を呑まねばならない――意次は、即座に決断していた。

 そして、松本を讃えるように言った。

「無理を推してお主を勘定奉行に据えた甲斐があったぞ。日本は変わらなければならない。我々が変える」

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