2ー6 ビスマルク・1870年(マイナス155年)
「戦争は美しい。正確に時を刻む時計のように、美しい……」
プロイセン首相オットー・ビスマルクは含み笑いを抑えられずにいた。フランスとの開戦が目前に迫ったことで、得意の絶頂にあったのだ。そもそもこの戦争はビスマルクが挑発したもので、ドイツ統一のためには欠かせない行程だった。
ビスマルクの狙いは、ナポレオン3世を〝侵略者〟の立場に追い込み、周辺各国から孤立させることにある。一方で、戦乱で祖国を荒廃させるわけにはいかない。彼が欲していたのは勝者の栄誉ではなく、政治家としての実績だ。したがってフランス軍が動き出す前から、戦火が国内に及ばないように布石を尽くしていた。対フランス情報戦略や、鉄道による物資や兵員の輸送システム、スティール製の大砲などの新兵器――それらはすでに完備されている。プロイセン軍を統括するモルトケは、手ぐすねを引いて出撃命令を待っている。戦えば、勝てる――それがビスマルクの判断だった。勝利の先にこそ、南部ドイツの併合、ドイツ統一への道が開けるのだ。
だがビスマルクは今、混乱の真っ只中にあった。開戦へ向けての最終調整に追われる彼を呼びつけたのは、セクフィールだ。しかも彼らは、天才をほしいままにする鉄血宰相に理解不能の要求を突きつけ、その含み笑いを奪い去った。ビスマルクは強い態度を取ろうと努力したが、声が上ずっていることは隠しようもない。
「冗談はやめてください! 休暇を楽しめる身ではないのです」
悲願に王手をかけた宰相にも、恐れる権力は存在する。国王の宮殿もしのぐ広大な〝家〟を構えるセクフィール家が、それだ。
欝蒼と茂る森に囲まれたその庭には、午後の穏やかな日差しがあふれていた。緑の香りを運ぶ風は午睡を誘い、小鳥たちのさえずりも物憂げだ。戦争を求める〝時代〟のとげとげしさが入り込む隙はない。過去数100年そうであったように、これから数100年もそうあり続けるだろうと思わせる、安定と調和があるだけだ。その〝自然〟は、破格の資産を投下して作り上げた人工の産物だ。だからこそ、恐怖や不安とは無縁でいられるのだった。
王宮の絵画のような風景の中にあっても、ビスマルクは気持ちを落ち着かせることができずにいた。庭の東屋で彼と向かい合う人物――エドモン・ジェームズ・セクフィールは、権力の中枢に鎮座する〝大頭脳〟だった。利害が一致している今は心強い味方だが、気を許すことができない策士だ。その交渉相手が何を望んでいるかが読み取れず、どう返答すべきかの判断もつかない。
エドモンは思いつめた眼差しで念を押した。
「ジョークはユダヤ人の血です。しかし、今は言葉通りに受け取っていただきたい」
その真剣さは疑いようもない。ビスマルクの困惑が一層深まる。
「こともあろうに『ドイツのユダヤ人を弾圧しろ』などと……?」
エドモンは2日前にパリからフランクフルトに到着し、ただちに会談を求めてきた。一族の長たちと討議を重ねた結果だという。エドモンの言葉はすなわち、セクフィール家全体の戦略なのだ。
エドモンは哀しげな表情を浮かべ、ビスマルクに頭を下げる。
「真の自由を勝ち取るためです。そこをご理解いただきたい」
ビスマルクは内心であらゆる方程式を計算し続けていたが、エドモンの申し出はどうしても定理にそぐわない。
「だが、あなたの同胞は今でもつらい立場に立たされている。ユダヤ人にとって、ドイツは住みやすい土地とはいえません。そのドイツにさえ、ロシアから大量の移民が流れ込んでいる。こんな時に私が反ユダヤ的な言動を取れば、火に油を注ぐことになりますが?」
「それこそが我々の望みです」
「だから、なぜ⁉」
エドモンはビスマルクを無視して続けた。
「しかし一方で、反ユダヤ勢力は慎重にコントロールされていなければなりません。1人1人のユダヤ人には耐えがたく、だが民族全体としては致命的な破局を招かぬように――。生まれ育った土地を追われる苦難が、我々を固く結びつけ、未来を切り開くエネルギーに変わるのです。この綱渡りには、あなたの政治力が必要です」
ビスマルクはようやくセクフィールの意図を理解した。自分が〝戦争〟を必要としたように、彼らは〝弾圧〟を必要としている。
「そこまでしなくとも……」
「悲しいことではありますが、真の祖国を創造するために避けられない関門なのです。あなたがドイツ統一に命をかけるように、セクフィールにも神から与えられた使命があります」
「シオニズムには反対なのでは?」
「公の立場と実際は違います。シオニズムはセクフィールが進めている政治活動なのです。ユダヤ人解放の長期プログラム――あ、これは決して口外なさらぬように」
ビスマルクの脳内の勢力地図が、その瞬間に大きく塗り変わる。
「ほう……。ではなぜ、あなたが先頭に立たれないのですか?」
エドモンはようやく、余裕に満ちた笑みを見せた。
「時の勢いを政策に取り込むことに長けたあなたになら、お分かりでしょう? 機が熟していないのです。私たちは成功を収めた一族であり、妬まれる立場です。多くのユダヤ人からも。たとえ我々が『イスラエルをめざせ』と号令しても、世界に散って他民族に同化した同胞を束ねることはできません。シオニズムの貫徹には2つの要素が不可欠です。他民族からの圧力と、それに反発する民族の求心力――。ユダヤ人を結集させるには、まず大地につなぎ止める根を切らなければならないのです。そして次の段階は、貧しく、情熱的な指導者が命をかけて民族を導くこと。この2つが重ね合わされなければ、パレスチナに国を築くことはできません」
「文字通りパレスチナに移り住もうとおっしゃるのですか⁉」
エドモンはきっぱりとうなずいた。
「困難な選択です。ですが、それは我々の困難。シオニズムのシンボルとなれる人物が現われるまで、力をお貸しください。パレスチナへの渇望が充分に育てば、セクフィールも表舞台に立てます」
ビスマルクの表情は冴えなかった。
「セクフィール家の名は出すな、ですか? 歴史に裁かれる覚悟を決めろ……と?」
「あなたはすでに歴史を操る立場におられる。ドイツ統一にしても、誰もが賛成しているわけではありますまい?」
「それは私の困難――ですがね。それにしても、厳しい仕事だ……。多くのユダヤ人が命を落とすかもしれない……」
「むろん、可能な限りそのような悲劇は防いでいただきたい」そしてエドモンは、ビスマルクの目を覗き込んだ。「できますね?」
ビスマルクにも腹積りがある。エドモン・セクフィールの招待に二つ返事で応じた目的は、屋敷で提供される料理だけではない。セクフィールの意図が明らかになった今、次に成すべきは『自分をいかに高く売るか』の交渉だ。天性の政治家にとっては、魚が水を呑むように他愛ない。
「嫌われ者は胃を壊します」
「鉄の男――でも?」
「これでも、神経の針金はいくぶん細く出来上がっております」
「真に困難なのは、反ユダヤ勢力の暴走を押さえ込むことです。あなたは、ユダヤ、反ユダヤの双方から非難される。そこで提案があります。胃を痛める代わりに、頭痛の種を取り除きましょう。ナポレオン3世を倒す資金は、我々が全面的にお引き受けいたします」
「それは、ぜひともお願いしたいが……」
折り込み済みだった。セクフィールを訪れたのは、資金援助の言質を取りつけて、対フランス戦の勝利を確実にするためだ。だが〝歴史〟と戦うとなれば、損得勘定に合わない。
エドモンは交渉相手の表情を読み切って、切り札を明かした。
「心配事が残りますかな? では、これも一緒に……」
エドモンは足元からアタッシュケースを取り出し、ビスマルクの前に押し出した。
ビスマルクは無言で蓋を開いた。中には絹に描かれた人物画が何枚も収められている。ビスマルクは眉間にしわを寄せた。
「これは……?」
「『黄金の砦』の伝説はご存知かな?」
ビスマルクも噂は耳にしていたが、絵の実物を見たことはない。
「この絵は、メッテルニヒ公が所有されていると聞きましたが?」
「今は我々の財産です。ささやかなプレゼント、とお考えを」
ビスマルクの困惑は再び深まり、助けを求める目になっていた。
「謎を解け、と? 黄金には不自由しておりますが、私ごときの手に負える品物ではないでしょう。セクフィール家でも歯が立たなかったのでは? それとも、黄金はすでに手にされたのですかな?」
「我々は、伝説は作り事にすぎなかったと結論しています」
ビスマルクの忍耐も限界に近づいていた。語気が強まる。
「居間にでも飾っておけと?」
「ルートヴィヒ2世なら喜ぶか……と」
エドモンの一言が、またしてもビスマルクの頭脳のスイッチを切り替えた。鉄血宰相の目が、その名にふさわしく力強く輝く。セクフィールは、ビスマルクが抱えたもう1つの難題を的確に見抜いていたのだ。プロシアを率いるビスマルクにとって、ドイツ統一には2つの障害が控えていた。第1は、宿敵ナポレオン3世の打倒。それは、解決されたも同然だ。
残る問題は――南部ドイツの中心地、バイエルンの併合だった。しかしバイエルン王ルートヴィヒは独立を保つためにあらゆる手段を尽くし、つけ入る隙を見せない。神秘主義者とも狂人とも噂される身勝手な国王が、軟弱な外見の下に強固な意志を隠して〝侵略〟を拒み続けていた。バイエルンの変り者を篭絡するには、この伝説以上の武器はない。一国を興せるほどの黄金が掴めるとなれば、ビスマルクの提案を邪険に拒むわけにはいかない。少なくとも、交渉のテーブルには引き出せる。いったん懐に飛び込めさえすれば、あとは政治手腕の問題でしかない。
ビスマルクは心の底から笑った。
「いつものキジ料理は用意されているのでしょう? 商談の成立を祝いましょうか」
そして、2人の指導者の願いは実を結んだ。翌年の1871年にビスマルクはドイツ統一を完成し、その後20年近くに渡って政界に君臨することとなる。
エドモンたちが願った政治的シオニズム運動は、オーストリアのジャーナリストであったテオドール・ヘルツルが1896年に発行したパンフレット『ユダヤ人国家』をきっかけにして具体化していった。ヘルツルは翌年、バーゼルで第1回のシオニスト会議を開催、世界シオニスト機構を設立して総裁となった。この運動は世界各国でのユダヤ人弾圧によって勢いを強められ、1917年に『バルフォア宣言』での勝利へとつながるのであった。
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