2ー4 レーニン・1919年(マイナス106年)

 モスクワは眠れなかった。2年前にレーニンが主導した革命はロマノフ王朝を倒したが、帝政崩壊後の混乱は国土のあちこちに噴出している。それを押さえこんで祖国の進路を定めるために、革命政権主導部は一刻も早くコミンテルン――第三インターナショナルを創設しなければならず、その詰めに忙殺されていたのだ。眠っている暇などない。ダビッド・モイベレールがレーニンに呼びつけられたのは〝革命の季節〟の、ある一夜だった。

 クレムリン宮殿の旧元老院の2階に置かれた執務室││。パリ・セクフィール家の代理人であるダビッドは、レーニンと向かい合っていた。用件を聞かされたダビッドは、腹立ちを隠せない。

「あなたが革命維持の資金を必要としていることは、誰もが知っています。希望には応えているはずですが?」

 レーニンは、彼を見つめたまま薄笑いさえ浮かべている。

「不足なのだ」

「強欲は身を滅ぼします」

「邪険にするな。君たち金貸しと世間話をしたいわけではない」

「では、見返りに何をお考えなのですか?」

「ソビエト連邦共和国内のユダヤ人に、国外へ出る権利を与える」

 ダビッドはふんと鼻を鳴らした。

「商取引だというから、足を運んできたのです。ダイヤモンドもなし、石油もなし、小麦もなし……。それでもあなたは、ご自分に国家元首の資格があるとお思いなのですか?」

「我が国の内情は知っているはずだ。出せる資源は出し切った。これ以上、人民の財産には手をつけられない」

 ダビッドはこれ見よがしに溜め息をついた。

「よく存じ上げております。ただ、訂正させていただきましょう。あなたが『我が国』と呼ぶこの地は、国の体をなしていない」

「だからこそ、セクフィールの力が必要なのだ。ユダヤの金が、な。その金によって、ロシアのユダヤ人が救われるのだぞ」

「許可などなくても、我々は必要な時に同胞を救い出します」

 執務室には、睨み合う2人がいるだけだった。コミンテルン創設の地歩を固めて自信にあふれるレーニンは、罵られても引かない。

「ならば、今がその時だ。人民は飢え、理性を失っている。革命の理想が辛うじて暴走を食い止めている。我々指導部がわずかでも失策を犯せば、人民は真っ先にユダヤ人に襲いかかるだろう。ユダヤ商人の豪勢な暮らしは、常に人民を苛立たせているからな。私は、セクフィール家にポグロムを防ぐ機会を与えたいだけだ。あなた方が同胞を見捨てたと知ったら、世界はどう思うだろうな?」

 ポグロム――それは掠奪、虐殺、破壊行為を意味するロシア語だった。この時代では、ユダヤ人に対する集団的な暴力を示している。1881年にはウクライナ、1903年にはモルダビアで大規模なユダヤ人弾圧が引き起こされていた。1917年の革命にともなう内戦時には、はるかに上回る規模で虐殺の嵐が吹き荒れた。ポグロムは発生するたびにユダヤ人に民族独立への願いを高めさせたが、それが恐怖の対象であることはいつの時も変わりない。

「やるがいい。今、世界はロシアに目を凝らしている。あなたがユダヤ人を弾圧するなら、世界は〝革命〟とやらの正体を知る。『腐った頭は叩きつぶせ』と叫ぶ。民族の自立を唱えながら、金のために虐殺を続ける赤軍こそ許されん。その時は我々の資金が動く。金額に上限はない。全ては赤軍粉砕に注ぎ込まれる。あなたは、文字通り粉砕される。ロシアを守りたいのなら、分をわきまえろ」

 ダビッドは、席を立とうとテーブルの帽子に手をかけた。

 レーニンは静かに言った。しかし口調の穏やかさに反して、その言葉には鬼気せまる強固な意志が宿っている。

「私が問題にしているのは、ユダヤ人だ」

 ダビッドの動きが止まった。

「何?」

「世界に散ったユダヤ人は、ロシアの同胞を見捨てた財閥を許さない。あなたがこのまま出ていけば、明日にはその事実が世界のユダヤ人に知らされる。そして翌日、仲間たちの悲鳴を聞く。無数のユダヤ人の、年老いた男や若い女、そして子供たちの悲鳴を、だ」

 ダビッドはその気迫に押されるように再び腰をおろしたが、レーニンが内心で安堵のため息をもらしたことには気づかなかった。

「第二のユダヤ・プロトコルをでっち上げる気か⁉」

「今度語られるのは、真実だ」

 ユダヤ・プロトコル――。『シオン長老の議定書』とも呼ばれる文書は、ロシアでの反ユダヤ勢力を勢いづかせた偽造書類だ。1903年、セルゲイ・ニールスというロシアの修道僧が記したもので、シオンの長老といわれるユダヤ人たちがキリスト教世界を支配するための陰謀を企んでいるという内容だった。全くの捏造であるにもかかわらず、ロシアでは国内の不満から目をそらすためのプロバガンダに利用され、ユダヤ人たちに実害をもたらしていた。

 レーニンは生涯初めての恐怖を味わっていた。セクフィールを脅迫する――それは、試みた者がことごとく破れてきた大博打だ。しかもレーニンのカードは紙屑同然で、頼れるものは演技力しかない。それでも、内外の敵と戦いながら革命を貫くには、巨額の資金が必要だ。資金調達は指導者の責務なのだ。

 対するセクフィールも、王手をかけられた形だった。ロシア国内でのユダヤ人迫害を再び許すことはできない事情があったのだ。大きな犠牲を払って勝ち取った、パレスチナへのユダヤ人国家建設の第一歩――『バルフォア宣言』。それは1917年に英国の外相であったアーサー・バルフォアが、ユダヤ人のパレスチナへの復帰を支持することを明言した声明だ。シオンの地、エルサレムを含むパレスチナにユダヤ人による独立国家を建設しようとするシオニズム運動が獲得した、勝利である。この宣言には、ユダヤ民族の誇りと生命、そしてセクフィール家の利権が賭けられている。だが、セクフィールが同胞を裏切れば、ユダヤ人の結束は内部から崩壊して宣言が空文化する危険が生じる。反面、ヨーロッパの権力者を恐怖のどん底に叩き込んだ共産革命に公然と手を貸せば、ユダヤ人が住める国はこの世から消滅する――。

 ダビッドには、ウクライナに多くの親類がいた。たび重なるポグロムを切り抜け、悲惨な生活に耐え、神を信じて生き延びてきた同胞だ。妻や子供たちも、ダビッドが家族を守るために身体を張っていると信じている。セクフィールの窓口でしかない父の権限がいかに小さいかなど、知るよしもない。一介の計理士にすぎない、うだつの上がらないダビッドが選ばれた理由は明快だ。幹部は革命を恐れて国外に避難した。新政権との接点になれるのは、逃れられない事情を持つ部下だけだ。彼はセクフィールから命じられている。

『金は預ける。だが脅迫には屈するな。革命も助けるな』と。

 2人は口をつぐんだままにらみ合った。にらみ合うことしかできなかった。と、扉の外で警護の兵士が怒鳴った。

『同志レーニン! バイエルン・レーテ共和国から客人です!』

 視線を外したレーニンは、素早く考えた。ドイツ・バイエルン地方で樹立された革命政権は、全世界が赤く染まる先駆けとなる可能性を秘めていた。その代表者に、革命にひれ伏す資本家の姿を見せられるなら、士気は一層燃え上がる。一方で、バイエルンでの成功はセクフィール家への圧力にもなる。

 レーニンは叫んだ。

「同志に入っていただけ!」

 ダビッドは露骨に不快な顔を見せた。

 レーニンは気にもとめていないような素振りを保ち続ける。

 扉が開くと同時に、勢いのいい太い声が飛び込んだ。

「やあ、レーニン! 珍しい土産を持ってきたぞ!」そしてダビッドの後ろ姿に気づく。「……おや、取り込み中だったか?」

 レーニンは鷹揚に笑った。

「セクフィール家の代表だ。資金援助を申し出てこられた」

 ダビッドの横に平然と座ったバイエルンの男は、テーブルにアタッシュケースを投げ出した。にやにやとダビッドの顔を覗き込む。

「ユダヤの財閥様は、革命が金儲けになると踏んだか?」

 ダビッドは彼に目も向けずに答えた。

「レーニン君の顔を立てているだけだ。ロマノフ家に貸し付けた金の一部でも返還してもらえるかと期待してね。買い被りだった」

 バイエルンの男は大げさに眉を吊り上げた。

「ま、革命に犠牲はつきものさ。特にブルジョアの犠牲は」そしてレーニンに目を戻す。「それはそうと、同志、これを見てくれ。うちの国王が城の奥にこんな絵を隠していた。最近、隠し金庫が見つかってね。一緒にくっついていた書面によると、もともとは、ロシアの所有物だったようだが――」

 バイエルンの男はアタッシュケースを開いた。レーニンが身を乗り出して中を覗き込む。あっと声を上げたのは、ダビッドだった。

 レーニンの鋭い目がダビッドに向かう。

「この絵をご存じかな?」

 ダビッドの目に、袋小路からの出口を示す光明が見えた。

「かつては、我々が所有していた絵画です」

 ダビッドはその模写を、モスクワのセクフィールが全盛だった頃に目にしたことがあった。忘れることができない特徴がある。

 レーニンはうなずいた。

「私もそう聞いている。ロシアの東方に住む民族を描いた日本の絵だそうだ。巨額の黄金を埋めた場所が隠されている、とか……」

 ダビッドは無言でアタッシュケースの中の絵を見つめた。黄金に関する話など聞いたことはなかったのだ。しかし、セクフィール家が『特別に重要な絵だ』と評価していたことは了解している。

 バイエルンの男はうなった。

「さすがレーニン、そんな秘密まで知っていたのか……」

「ロマノフ家に親しかった貴族から聞き出したのだよ。彼はこの絵の写真を年代物のイコンよりも大切に保管していて、謎を解こうと焦っていた。だが、過去1世紀、砦は発見されていない。一国を興せるほどの黄金――そんなものが実在するかどうかも眉唾ものだ」

 バイエルンの男は残念そうにつぶやいた。

「探す気はないのか?」

 レーニンは椅子に腰を戻して、うなずく。

「すでに国は興された。資金は必要だが、宝探しなどにうつつを抜かしていては革命が意味を失う。君の誠意には感謝するが、おとぎ話に理想の成否を託すつもりはない」

「まあいい、正当な持ち主に絵が返せれば満足だ」

 と、ダビッドがぽつりと言った。

「その絵なら、買い取ろう」

 2人の目がダビッドに向けられた。レーニンの腰が再び浮き上がる。ダビッドが事態を打開する道を発見したことを見抜いたのだ。

「商売、か?」

「脅迫には屈しない。革命も支援しない。だが、問題は解決する」

「よろしい。私も満足だ」

 手を差し出したレーニンは、心から笑っていた。

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