ー34ー
握りしめた手の甲に、そっと暖かな手が重ねられた。
「ごめんね」
その手は微かに震えながらも、冷たく硬い拳を包み込む。
「でもね。だから、だから今、言いたいの。木蓮は本当に私にとって大切な家族で、大好きなんだ」
「俺も、ヒバナのこと大好きだよ。ヒバナが俺を忘れても、それは変わらないから」
ヒバナの熱に解された拳をゆっくりと開き、木蓮はそのまま彼女の手を握り返した。
「うん。ごめんね。ごめんね……っ」
謝り続けるヒバナの両眼から、ポロポロと大粒の雫が絶え間なく転がり落ちていく。
「あれ、駄目だな。……笑おうと、ちゃんと笑おうと思ったの。最後だから、笑わなきゃって。もっくんの前なんだから、ちゃんとしたいのに。駄目だな、私やっぱり……ごめん、ごめん、ごめん…………っ」
ヒバナは木蓮の首へ片腕を回すと、そのまま自身の胸元に引き寄せぎゅっと抱きしめた。
首筋に暖かな水が幾筋も落ちる。
木蓮も応えるようにヒバナの体にそっと腕を回した。
「最後なんだから、我慢なんてしないでいいんだよ」
その言葉にいっそう強く抱きしめられる。
「ごめん。……ミズキの前ではさ、心配させたくないし、ちゃんとしたいし、あの子に嫌われたくないから。絶対に泣かないようにって、少し頑張ってたんだ。……でも、駄目だね」
フフ、と少し自嘲を含んだ笑いが頭上で震える。
木蓮はゆるゆると首を横に振った。
「ミズキも俺も、ヒバナを嫌うことなんて絶対ないから。そんな心配、しないでいいんだよ」
「うん、そうだね」
微かに頷いた後、ヒバナは一度その腕を緩めると木蓮と目線を合わせる。
「あのね。……もっくんへの “好き” と、ミズキの “好き” はちょっと違うんだ」
涙に濡れた琥珀の瞳が、真っ直ぐに白銀の瞳を見つめる。
「上手く言葉にできないから、難しいかもしれないけど。……ミズキにはこんな泣き顔見せられないし、こんな声で話せないんだ」
無理矢理に笑みを浮かべるヒバナの瞳からまた一筋、新たな雫が伝う。
「……だから、だから。今だけだよ。今だけは泣いていいかな」
「うん、いいよ」
「ありがとう」
こくりと頷いた木蓮の頭を再び胸元に抱きしめて、ヒバナは再び小さく肩を揺らし始めた。
ヒバナの心臓が奏でる拍動と、唇から漏れる嗚咽。
そして、当たり前に傍にあったはずの体温。
木蓮はただ静かに目を閉じて、それらを感じていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
抱きしめられていた腕が緩み、ぬくもりが離れていく。
ヒバナは手で目元をしきりに拭いながら、木蓮に笑いかける。
「ごめん。わざわざ呼び出しておいて、いきなり泣き出すとか本当、駄目だよね」
「そんなことないって。駄目なことなんて何もないから、俺たちに気を遣ったりしないで」
「そう言ってもらえると嬉しいな、本当に。……本当にもっくんは私達にとって、私には出来すぎた子だよ」
そう言うと、ヒバナは愛おしそうに木蓮の頭をポンポンと撫でた。
「ねえもっくん。わがままをひとつ聞いてくれる?」
「うん。何?」
「私がいなくなったあとも、ミズキのことを守ってあげて。もっくんならミズキのこと、任せられるから」
その言葉に木蓮は僅かに目を見開くと、首を強くふるふると振った。
「いなくなったり、しないでよ。ヒバナは絶対に俺たちで助けるからさ。……だから、そんないなくなったときの話なんて、約束できない」
「これは約束じゃないよ。私のわがまま。だから」
そう言うと、ヒバナは木蓮の腰に手を回すと、そのままもたれかかった。
いつもとは逆の態勢で、ヒバナは願いを口にする。
「お願い。どうか、どうかあの子を独りにさせないで。私はさ、ふたりに出会えて幸せだったから。多分きっと、神様がここまでだよって教えてくれただけだから」
回された腕に力が籠もる。
「だから、私はたくさん人を護れたし、ふたりのことも何回も護ったから。もうふたりは私がいなくても大丈夫。……だから、だからお願い。ミズキを、私の分まで護ってあげて」
真っ直ぐに見上げるヒバナの瞳を見返すことはできず、木蓮は目を逸らした。
「……ずるいよ、そんなの」
「え、ずるい?」
首を傾げるヒバナに、俯いたまま木蓮は唇を尖らせる。
「ずるいよ」
「恋する女の子はずるいのだ。わかった?」
コツンと、ヒバナは自らの額を木蓮の肩に寄せると、ちょっと冗談めかして笑いかける。
「そっかあ」
はあ、と一度大きな息をつくと、木蓮は真っ直ぐにヒバナに向き直った。
「……ね、ヒバナ」
「なに?」
「明日の朝、もう一度初めましてをしたら、その後また友達になってくれる?」
「もちろん。何度だって、何度だってもっくんとは友達になるよ。何度初めましてをしても、絶対に絶対に、あなたのことを大好きになる」
「ありがとう」
無意識に自らの胸元に手をやった木蓮は、大切な宝物――かつてヒバナから送られたモクレンの花のペンダントを、既にヒバナに預けていたことを思い出す。
「この事を明日のヒバナが覚えているかわからないけれど。……ペンダント、また俺にくれたら嬉しいな。それが、ふたりの思い出だから」
「うん。わかった。絶対に忘れないでおく」
「うん。約束」
そう言って、木蓮は小指を差し出した。
ヒバナはその小指に自らの小指を絡める。
「俺も絶対、ミズキのことひとりにしないから。約束ね」
「うん。約束。ありがとう」
絡める指に力を込める。
「今までありがとう。本当に本当にヒバナのこと、大好きだった。これからもずっと好きだけど、でも俺を知ってるヒバナは、今日で最後だから。ほんとにありがと」
「ううん。こちらこそありがとう。……大好きだよ、木蓮」
その言葉と共にヒバナの顔が近づいてくる。
頬に暖かく柔らかな感触が触れた。
焦点が合わないほど傍にあったヒバナの顔が離れ、自分の方を見ながら少し悪戯っぽく笑うのを目にして、木蓮はようやく頬に触れた感触の正体に気づいた。
驚いたように目を見開いて、そっと熱の残る頬に触れる。
そのまま少し躊躇った後、木蓮もヒバナの頬に唇を寄せた。
「キスなんて、初めてしたよ」
顔を離し、ヒバナと再び目線が合うと、急に照れくささが湧き上がってくる。
「もう、そういうこと真面目な顔で言うのはちょっとずるいよ」
少し頬を紅くして宙に泳いだヒバナの目線が、壁の掛け時計で止まった。
「……そろそろ消灯時間だね」
「そっか。……うん、それじゃ」
ゆっくりと、ベッドから腰を上げる。
手を振ろうと持ち上げかけた手が、ヒバナの両手で包まれた。
「また、明日」
まだ少し濡れた瞳が、真っ直ぐに見上げてくる。
木蓮も、真っ直ぐにヒバナの目を見つめた。
「うん。また……明日ね」
ぬくもりが、遠ざかる。
静かに閉めた扉の後ろで、微かなすすり泣きの声が聞こえていた。
扉を再び開けることはできず、さりとて暗闇に歩を進めることもできず。
漏れ聞こえる嗚咽を聞きながら、木蓮は扉を背にいつまでも立ち尽くしていた。
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