本編

◆1日目 深夜 ~Out of the Blue~

ー1ー

 都会の夜というのは、存外に静かだ。

 繁華街や歓楽街といった場所であれば、日付が変わる一時いっとき前でもネオンの派手な光や人々の喧騒で賑わいを見せているのだろうが、住宅街はすでに半ば眠りの中にある。

 空が白むと同時に降り注ぐ蝉時雨も、とっぷりと日の暮れた今は鳴りを潜めていた。


 まばらに街灯が照らす暗がりの中、朝宮あさみやミズキと宵街よいまちヒバナは家路についていた。

 夏の盛り、日中眩いばかりの太陽に熱されたアスファルトは未だにじんわりと熱を放ち続け、生暖かい風が二人の間を通り抜けていく。

 街に現れたFHファルスハーツのエージェントを撃退し、支部で戦闘の傷と疲れを癒し、報告書を作成し――そんないつもと変わらない日常。

 違う点がひとつあるとすれば、いつも自分たちと一緒に任務をこなす木蓮が、今回は別行動だったことだけだった。


「木蓮は、他のエージェント達とうまくやっているかな」

 風になびく向日葵色の髪の向こう、いつもなら月の光を反射して輝く白銀がいない。

 その違和感が言葉となってミズキの唇から零れ落ちた。

 独り言のような問いかけに、隣のヒバナは小首をかしげる。

「もっくん? うーん、もっくんだったら素直だし、周りのこと結構しっかり見てるし、多分うまくやってるんじゃないかなぁ。……あ、でもあの子、あんまり自分のこと顧みない性格だからな~。ケガしてないと良いけど」

 心配そうに眉根を寄せるヒバナに、ミズキは柔らかな笑みを返す。

「確かに。でも大丈夫さ、あの子はとっても強いから。きっと自分のことも、周りのことも守ってくれてるよ。ね、ヒバナ」

「そうだね。そこはもちろん信用してるし、信頼してる。誰よりも何よりも大切な、私たちのチームメイトだもんね」

「うん、そうさ。ボクらの “妹” であり “弟” で。とにかく、大切な子なのは間違いない」


 そう返しながら、ミズキは夜空を見上げた。

 街灯が照らす薄闇でも、頭上には疎らに星が煌めいている。

「夏の大三角って、あれだっけ」

 指を伸ばし、ミズキは真上にひときわ輝く星たちを結ぶ。

「あの明るいのがベガで、あっちがデネブかな? 流石にここじゃ天の川は見えないね」

 隣でヒバナも一緒に星々を指していく。

「子供の頃も、こんな風によく一緒にベランダから星を見たよね」

「ハハ、懐かしい。よく覚えてるね~」

「そりゃ覚えてるさ」

 星空から、自分よりやや低い目線に輝く一対の琥珀へと目を移す。

「ヒバナと一緒に過ごしてきた事、過ごしてきた時間。ボクは何ひとつ忘れないよ。……って、なんかちょっと重い感じになってるかな。そういうつもりじゃあないんだけど」

 自らが発した言葉を反芻して我に返ると、ミズキは照れ臭そうに笑った。

「そ、な、何言ってんの!? ミズキってばいっつもそんなことばっかり言って! しかもそんな風にはにかまれたら、こっちだって恥ずかしくなるじゃん!!」

 顔を真っ赤にしながら早口で返すヒバナを前に、ますます頬が緩むのを自覚した。

「ごめん。でもボクがこんな風に気の抜けた顔を見せられるのは、ヒバナと木蓮にだけだ」

「も~、またそうやって恥ずかしい事を惜しげもなく言うんだから……」

「しょうがないだろ。これがボクなんだから」

 王子様然とした優しげな、でも少し子供じみた悪戯っぽい笑みを返す。

(こんなに気を許せて、自分をさらけ出せるのは、キミ達ふたりだけなんだ)

 紅く染まった頬を膨らましているヒバナに、心の中で言葉を重ねた。


「も、もうそんな事! ……それよりも、さ。ほら、明日から私達もしばらくお休みだし、もっくんも戻ってくるんでしょ? だったらさ、またどっか行こうよ。3人でさ」

「それはいいね」

 きらきらと輝くヒバナの瞳を見つめて、心得たとばかりに目を細める。

「わかった。もうどこか当てがあるんでしょ? ヒバナ、そういう目をしてる」

「え、そう? んー、でもまだ考え中なんだ。原宿に新しくできたカフェも気になるし、渋谷の方で面白そうな展覧会もやってるし……」

 彼女は指折り数えながら行きたいところ、やりたいこと、楽しみたいことをひとつずつ上げていく。

「そんなにたくさん1日じゃ廻りきれないよ。欲張りさんだな、ヒバナは」

「えー、何言ってんの。欲張ったっていいじゃん。時間はたくさんあるんだし。もちろん明日は休みだから明日はなんかするとして、明日だけじゃなくて、明後日も明明後日も、その先もずっとずっと3人一緒にいたらいいなって思うし! ……っていうか、いるし!!」

「断定なんだ」

 びしっと人差し指を掲げて断言するヒバナをクスクスと笑いながら見やる。

「でもそうだね。たくさんの時間がボクらにはある。……だから」


 ごく自然な動作でヒバナの手を取った。

 革の手袋越しに、彼女の少し高めの体温がじんわりと伝わってくる。

「ボクたちは、これから先もずっと一緒だよ。ずっとずっと、キミの隣にはボクがいて。反対側の隣には、木蓮がいる。本当に、そう思ってるんだ」

 手を握られたヒバナは、ちょっと恥ずかしそうに「へへ」と笑いながら、ミズキの手をギュッと握り返した。

「こうして手を繋いでいると、なんだか昔に戻ったような気がするね。でも新しい日々が刻まれていくことに、どこかくすぐったさも覚えるような、不思議な気分だ」

 そう言いながら、スッと離そうとした指を逆に絡めとられる。

 その仕草にちょっと目を見開いて、目前の彼女を見下ろした。

「どうしたの? お姫様」

 むくれたように見上げる強い視線とぶつかり、少しドギマギとしてしまう。

「……なんで離したの」

「え、えっ? いや、どうして……って、その、深い意味はないし……」

「別にいいじゃん。誰もいないんだし」

 そう言いつつ、ヒバナは小悪魔じみた笑みを浮かべ、絡めた指にさらに力を籠める。

「それに、私はお姫様かもしれないけど、ミズキもお姫様なんだから! そーんな澄ました顔ばっかしてるとこうだぞっ!」

 言いざまに、そのままギュッと抱きしめてコショコショとわき腹をくすぐられた。

「あはは……っ、や、やめてくれよっ、ヒバナ……っ、ははっ……くすぐったいって……!」

 静かな路地に、ひとしきり楽し気な笑い声が響いた。


 笑い疲れたようにヒバナはふぅ、と息をつく。

「そうだね。……私の隣にはミズキがいるし。私たちの隣には木蓮がいる。ずっとそう在れたらいいな」

 自らの言葉に強く頷き、おもむろにヒバナはぽん、と自分の手のひらを叩いた。

「あ、そうそう、昔で思い出した。来週の花火大会どうする?」

「ああ、そうだったね」

 先ほどの悪戯っぽい笑みから一転、期待に満ちた瞳が向けられる。

 毎年この時期に開催される花火大会を、ヒバナは心待ちにしていた。

 歴史ある大きな大会で、当日は市外からの見物客も多く訪れ、露店も出て例年大層な賑わいを見せる。

 とはいえここ数年、木蓮と一緒に過ごすようになって以降は任務だったりなんだりでタイミングが合わず、ずっと参加できていなかった。


「花火……うん、花火大会。そうだな。今年こそ木蓮も誘って3人で見に行かない?」

「……ふふっ」

「……なに? 何で笑ってるの?」

 こらえきれないように吹き出した彼女を見てキョトンとした顔をする。

「いや、違う違う! もちろん行くつもりだったし。そうやってミズキから言ってくれるのも嬉しいな、って思っただけ」

「ボクだってやりたい事、したいことは言うさ。キミたちにはね」

「うん、そうだね。言って良いんだよ。したいこと、やりたいことたくさんあって、みんなでやってさ」

「……なんか、すごい見透かされてる気がする」

「ふふん、何年一緒にいたと思ってるの?」

「そうだねぇ、何年だったかな? 忘れちゃったな」

 照れ隠しにちょっと冗談めかして返すミズキの腕を、ヒバナがぎゅっと抱きしめる。

「だから、何年も何年でもやりたいことたくさんやって。それで何十年後に、あんなことがあったねって。また今日みたいにさ、笑い合えたら――」


 ――突如、右腕が不自然にがくりと引っ張られた。

 驚いて向けた視線の先、向日葵色がずるりと地面に崩れ落ちるのを、半ば無意識に抱き留める。

「ヒバナ……っ!!」

 とっさに支えた彼女の体は力なく、だらりとミズキの腕にもたれかかっている。

「どうして……怪我が治ってなかったのか……? ヒバナ、ヒバナ……っ!! 返事してよ……ヒバナ……っ」

 必死に声をかけながら、仰向けにして素早く状態を確認した。

 外傷は特に見当たらない。

 しかしながら、苦悶の表情、浅く喘ぐような息遣い、そして全く反応を返さない彼女の姿。

 只事でないことが起こっているのは明らかだった。

「苦しいんだね……ヒバナ……っ!!」

 ぐったりとした彼女を抱えつつ、震える指先で端末から救援の要請を送る。

 やがて夜の帳を引き裂くように、鋭いサイレンと赤い光が夜の静寂を引き裂いた。

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