第5話 逃避行の終わり
「………付き合ってくれてありがとう。もう空も明るくなってきたし、私はそろそろ宿を出ようと思うわ」
「どこへ行くの?」
「自分の家へ帰るの。宿代と、シャツの代償を支払うから貴方の家の住所を教えてくれない?後払いになってしまってごめんなさい、必ず送るから」
ネイトは白いリネンの下から顔だけ出して、じっとマリーを見つめる。
マリーはベッドから立ち上がって部屋の入り口にある大きな姿見の前に立った。青白い顔に濃い隈が出来ている。夜通し起きていたから、仕方がない。
鏡越しにネイトが窓の方へ歩いて行くのが見えた。干していたシャツを手に取って、乾き具合を確かめるとリネンを脱ぎ捨てて着替え始める。その背中にいくつかの傷が刻まれているのを見て、マリーは慌てて目を背けた。
「つまらない話を聞いてくれて嬉しかったわ。貴方にとってはとんだ時間泥棒だったでしょう?」
「そうでも無いよ。興味深い話だった」
「家はこの辺りなの?きっともう出会うことは無いけれど、どうかみんなにも宜しく伝えて」
マリーはシンシアや酒場の女たちのことを思いながら、そう告げた。
わいわいと騒いで酒を交わした一晩は、本当に魔法のような時間だった。誰にも邪魔されず、何にも気を遣わなくて良い自由な時間。ほんの一瞬でも、マリーにとっては心の底から楽しむことが出来た。
この宿を去ったら、きっと二度とあんな夜を過ごすことは出来ない。勝手に逃げ出したハワード男爵家の嫁を、夫と義母は絶対に許さないだろうから。
今まで以上に厳戒な監視が付くに違いない。
「ネイト、貴方がどうして女の子たちに人気があるのか分かったわ」
シャツを着た男は不思議そうに首を傾げる。
マリーは青い瞳を見つめて微笑んだ。
「話を聞くのが上手だもの。貴方が聞いてくれたから、私の心のしこりも少しマシになったし、今日からまた頑張れそうな気がする」
「それで……君はどこへ戻るんだ?」
「ハワード男爵家よ」
その言葉を聞いた瞬間、ネイトの表情がわずかに変わった。
そりゃあそうだろう。ハワード男爵はこの辺りでは知らない人は居ない名家なのだから。王都から離れた港町では、上位貴族の数が少なく、男爵という身分ですら平民たちからしたら羨望の的となっていた。
そんな男爵家の嫁が脱走したなんて知ったら、昨日店に集まった人たちも目を丸くするはずだ。「何が不満なのか」と問い詰めてマリーを尋問するかもしれない。
「………驚いたな。君はマイセン小男爵の妻か」
「ええ。マイセン・ハワードに見初められたラッキーな女とは私のことよ。彼の妻が平凡でガッカリした?」
「いいや……」
ネイトは何かを考えるように顎に手を当てる。
その後ろに見える時計は六時半を知らせていた。
マイセンが寝ていたらもう起床する時間だし、義母が食堂で料理長に朝ごはんの支度を命じる頃だろう。マイセンに出来立てのオムレツを提供するために、義母は毎朝自分の足で食堂まで出向いて、愛息子の起床を知らせる。
その隣でマリーが寝ていても、颯爽と部屋に入って来てカーテンを開けて去って行く義母のことが、どうしても好きにはなれなかった。
だけども。
こうしてハワード男爵家を出たところで、結局マリーにはあの場所しかない。
男爵家との離縁を望むなんて平民の出であるマリーに出来るはずはなく、離縁したらもう一生、田舎の両親は彼女を迎え入れてくれないだろう。
「マリー」
自嘲気味に笑みを溢すマリーにネイトが声を掛ける。
「なに?」
「君はそうやって逃げて来たのか?」
「………え?」
言われた言葉に思わず身体ごと振り返った。
窓のそばの立ったネイトがマリーを見つめている。
「俺は君のことを知らないけど、昨日酒場に居た君はとても楽しそうに見えたよ。くだらない話を人と交わして、調子良く笑う顔が素敵だと思った」
「……そう?ありがとう、」
「話を聞く限りじゃ、かなり無理をしているみたいだけど。夜逃げまでして結局のこのこ帰るなら、君は今までだって自分の意思で選んで来たわけではないんだろうな」
マリーは口を噤んだ。
ネイトの言うことは正しく、マリーは確かに自分でここまで来たわけではない。マイセンに婚約を申し込まれ、周囲の声に耳を傾けてそれを受けた。
マイセンの一方通行気味な愛を煩わしく思いながら拒否はせず、求められるがままに応じた。義母のチクリとした嫌味も笑顔で聞いて「すみません」と謝る。
だって、そうするしかなかった。
自分の意思なんて求められていなかったから。
「ネイト……前言撤回するわ。お節介で嫌な人ね」
「べつにどんな評価でも良いよ。自分を偽る嘘吐きよりマシだ」
そう言ってネイトは大きく伸びをしてこちらへ歩いて来る。呆然と立ち尽くすマリーの前で身を屈めると、ふいに伸びて来た手が顎を持ち上げた。
息を吐く間もなく唇が重なる。
それは本当に一瞬の出来事だった。
驚いたマリーは右手を振り上げる。
パチンッと乾いた音がして、手のひらが皮膚を打つ確かな痛みが身体を走り抜けた。ネイトはふらりと後ろへ下がってマリーを解放する。
「ずっとそのまま、死人みたいに生きて行けば良い。自分の境遇を憂いて、お城の中で王子様が迎えに来るのを待ってれば良いさ」
「貴方に何が分かるの……!」
「分かるよ。でも俺なら短い逃避行で満足はしない」
皮肉るように笑うと、ネイトはソファの背もたれに掛けていたジャケットを手に取って部屋を出て行ってしまった。
マリーは一人で立ち尽くす。
言われた言葉がゆっくりと身体を重くするのが分かった。
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