のまれた男

佐藤柊

第1話 のまれた男

 男は兄に連れられて、とあるオフィスに来ていた。狭い部屋に事務用机が2つと小さなロッカー、それと小さな応接セットに小さな窓。何とも殺風景で粗末な部屋だと男は思った。しかも小さな応接セットに兄と2人で並んで座らせられている。

 しばらくすると別の男が入って来た。頭にタオルを巻き、ヒゲを蓄え、Tシャツ、短パン、サンダル姿の中年男性である。男の兄がすぐさま立ち上がった。

「悪ぃな、忙しいのに」

男は兄の様子を見て慌てて立ち上がった。

「おう。待たせて悪かったな。そっちがお前の弟?」

兄とヒゲの男は親しそうだった。男は兄とそのヒゲ男の顔を交互に見ていた。

「うん。弟のツトムだ。ほら挨拶しろ!」

「あ、はい。弟のツトムです」

兄にあおられて慌てて名乗ったはいいが、何が何だか分からない。

 ヒゲの男は正面の小さなソファにドンと腰掛けると、タバコに火をつけ話しだした。

「いつから来んの?こっちはいつでもいいよ。とりあえずバイトって感じでいい?」

「お前どうする?あしたからでいいか?」

突然の事に男は慌てた。

「えっ?オレここで働くことになるの?」

「なに?本人に言ってなかったの?」

ヒゲ男は驚きながらもニヤニヤしている。

「そうなんだよ。コイツ逃げるんじゃないかと思って。こんな奴で悪いんだけど…」

男は兄にはめられたと感じた。そもそもここへは『ラーメン屋に行こう』と兄に誘われてやって来ただけなのだ。まさかラーメン屋の2階に連れてこられるとは思いもしなかった。

 男は無職だった。5人兄弟の末っ子で、両親に一番可愛がられ甘やかされて育った。いろんな職に就いては辞めての繰り返しで妻に離婚されていた。子供は元妻が引き取っている。30才になるこの男は、実家暮らしのニートになっていた。

 この日、同居している一番上の兄に連れられて来たラーメン屋は、兄の同級生だった。

「病気の事はよく分かんないから、俺なりに勉強して理解していくようにするから」

男は鬱病で通院していた。兄はそういった事情も話し、その上で雇ってくれるよう頼んでいたようだ。

 男は翌日から働くことになった。


 男は初めて入ったラーメン屋の厨房にワクワクしていた。ヒゲ男の店主は男の病気を考慮し、客と交わらない厨房の仕事をさせることにしたのだった。男は昼時の厨房の忙しさに圧倒され、緊張して突っ立っていた。

「ツトムは餃子焼いてくれ」

「は、は、はい!」

店主の声にビクッとしながら返事をし、キョロキョロしていると

「餃子焼きはこっち」

と後ろから来た女性が誘導して来た。この女性は店主の妻だった。男は店主の妻に焼き方を教わった。この日から男は餃子焼き担当になった。

 

 男は1週間を過ぎると、次第に慣れて仕事も増え、表情も柔らかくなり明るくなってきた。店主は目標があった方がいいと考え、「将来独立」を口にするようになった。そして男もその気になっていた。

 ところが、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎると、男の様子が変わってきた。男はいつもダルそうで眠そうな様子で、隙あればサボろうとする。店主は「引きこもりから出て来たばかりだから疲れているんだろう」と思い、大目に見ていたが、だんだんそうも言ってられなくなってきた。第一、社会人として本人の為にならない、そう考えた店主は男と話をすることにした。

 店主は言葉を選び、話し合っているつもりだった。だが男は、”怒られた”

と感じた。

 翌日から男は来なくなった。


 店主は自分の行為が男の病気に障ったのかと気になり、男が通院しているという精神科病院を訪ねた。そして状況を説明し、自分の対応が間違っていたのか、どうするべきだったのか医師に尋ねた。

「鬱病っていうか…少し人より不安性っていう感じなんですよね…」

「えっ?鬱病じゃないんですか?」

「まぁ、ハッキリは言えないですが…」

店主は肩を落として病院から歩き出した。

「…仮病かよ…」

店主は悔しさを噛み締めた。


 そして店に戻った店主は、金庫の中にあった500万が無くなっているのに気付いた。


 男を乗せた車は高速道路を飛ばしていた。タバコを咥え、音楽をガンガンかけて浮かれて運転している男の助手席には、大きなリュックが置いてある。男は携帯を取り出し電話をかけた。

「あ、ユキ?オレぇ。しばらく戻らねぇから、子供に言っといて。あ?子守り?何とかしろよ。じゃあな」

男は別れた妻にそう言って電話を切った。元妻とはまだ続いていたのである。

「金があるからギャバクラで豪遊するかー!ヒャッホー」

男はアクセルを踏み込んだ。

 

 一ヶ月もすると、男は一人で気ままに遊んで歩くのにも飽きてきた。

「つまんねーなー…」

男はズボンの後ろのポケットから携帯を取り出すと、着信が数十件になっている。それらを無視して電話をかけた。

「もしもしユキ?しばらくほとぼりが冷めるまでお前んとこおいてくれよ。金ならあるぜ、へへ」

『あんたどこにいるのよ!そのお金ラーメン屋から盗んだお金でしょ!?』

「アハハ、なんだ知ってんのか。頭きたから取ってやったんだ」

『何笑ってんのよ!あんたのせいでラーメン屋自殺したわよ!どうすんの!』

「ハハ、そんなわけねぇだろ?いつもみたいに親や兄ちゃん払っといてくれてるよ、500万くらい」

『払えなかったのよ!あんた何にも知らないの?お母さんショックで倒れて寝たきりになったのよ。お父さんも糖尿病悪化して、あんたの兄さん、介護するために仕事辞めたって』

「えっ!?」

『貯金なんかあんたのせいでとっくに無くなってたんだって。あんたの兄さん、あたしの所に ”ツトム知らないか”って来て、全部話して行ったよ。あんたが盗んだお金、よっぽど大事なお金だったんじゃない?ヤバイよあんた』

「お、お、オレ、どうなんの?」

『知らないわよ!自分が悪いんでしょ!あんたの兄さん、警察にでも何でも訴えてくれってラーメン屋の奥さんに言ったらしいから、あんた捕まるんじゃない?あたしに連絡きたら自首するように言ってくれって言われてるから。ちゃんと言ったからね!』

「お、お、オレ、警察に捕まんの?」

『それと、今後一切あたしに電話してこないで!うちにも来ないで!あんたとは二度と関わりたくないから!じゃあね!!』

 

 男の顔が真っ青になった。その場で小さく足踏みをしながら

「どうしよ、どうしよ、どうしよ…」

とブツブツ繰り返し呟く。

 そして、男は逃げた。


 男は警察署も交番も無いような場所を目指した。都会には防犯カメラがありすぎる。高速道路を走るのも止めた。何処でカメラに収められるかわかったもんじゃない。

 男は意図して田んぼが続く知らない道を走っていた。

(この調子で何にもないような所を移動して行こう。金はあるんだ、何とかなるさ)

 男は路肩に車を停車させた。離れた所で老夫婦が農作業しているが、小さく見える程度だったので気にしなかった。

 男は車の調子を見るふりをしながら、ナンバープレートに泥を塗った。

「うっ、手が汚れた…」

男が辺りを見回すと、近くにバスケットのような籠が置いてあった。あの老夫婦の昼食だろう。男は何気なく籠に近づき、中を覗いた。ペットボトルの水がある。老夫婦はこちらを気にもせず作業を続けている。男は素早くペットボトルとおにぎりを掴み取り、車の影に隠れた。水で手を洗い流すと、車に乗り込み発車した。

 男はハンドルを握る手を交互に自分の服で拭きながら、鼻歌交じりにおにぎりを頬張った。

「青い空に白い雲。ドライブ日和だなー…梅か、シャケが良かったな」

男は能天気に逃避行を楽しんだ。


 気が付くと、過疎化の進んだような寂れた小さな町に入っていた。辺りは薄暗くなってきた。男は車をゆっくり走らせながら食べ物屋を探した。

 電灯が切れかかった古い看板のラーメン屋を見つけた。男は車を止め帽子を目深に被って降りた。

 店の中に入ると、ジメッとした感じで辛気臭く、薄暗い。客は一人で中年男性が奥でラーメンをすすっている。手ぬぐいを巻いた男性と、三角巾に割烹着姿の女性がいた。どうやら老夫婦がやっている店のようだ。

 男は壁に貼られているメニューを見ながら

「ラーメンと餃子」

と注文した。老夫婦は怪訝な顔をしながら動き出した。

「はいよ」

店の老婆がお冷を出してきたので、男は近くに泊まれるところがないか尋ねた。

「山、越えなきゃないよ」

老婆はぶっきらぼうに答えて厨房へ戻って行った。

《おい、餃子焼いてくれ》

男はハッとして顔を上げた。自殺したラーメン屋のヒゲ男の声がした気がした。厨房を見ると、老婆が餃子を焼いている。

(空耳…あの爺さんの声だよな…)

男は立ち上がり、入口付近に置いてある古い漫画本を手にして座り直した。心臓がバクバクしている。男は顔を隠すようにして漫画本を読み出した。

 漫画の内容は、男に捨てられた女が怨霊になって捨てた男を追い回す内容のホラー漫画だった。

「はい、おまちどうさま」

出来たラーメンをゴトンと雑にテーブルに置いて老婆は厨房へ戻って行った。男は漫画本を読みながら箸を割り、食べようとラーメンに目をやった。と、その瞬間、

「うわぁぁぁ!!」

男は驚きと恐怖で勢いよく立ち上がった。

 毒々しい血の色のスープに人の髪の毛、その上にくり抜かれた目玉とバラバラになった指が複数散らばっている!おぞましいラーメンが目に飛び込んできて、男は恐怖で後ろ向きになってしゃがみこんだ。

 真っ青になって震えている男の前に、店の老婆が餃子を片手に立っていた。

「見えちまったかい?」

老婆の不気味な問いかけに、男は

「ヒィッ!」

と声を上げた。

「悪いねぇ、なにせ古い店だもんで、出るんだよ。ゴキブリ」

老婆は臆することなくテーブルに餃子を置いた。

「ゴ、ゴ、ゴキ?…ちがっ…」

男は慌てて立ち上がり、テーブルを振り返った。

テーブルには普通のしょうゆラーメンと餃子があるだけだった。

「もういないよ」

老婆はぶっきらぼうにそう言うと、厨房へ戻って行った。

 男はまじまじとラーメンを見た。どう見ても何の変哲もないラーメンである。

(ずっと運転してて疲れてるのかな…)

男は恐る恐る椅子に腰掛けた。    


 店を出た男は、老婆が言っていた山を越えようと車を走らせた。

 食事はおぞましい光景が頭にちらついて食が全然進まなかった。

(あんなにはっきり見えたのに、見間違いなんてあるのか?)

男はまだドキドキしている。そして自分の手が震えているのに気付いた。

「きっとユキから聞いたことが頭にあって精神にきてるんだ。うん、それにオレは運転しっぱなしだ。疲れが溜まってるんだな、うん。それにあんな所でホラー漫画なんか読んだから、目がちょっと影響されたんだ。うん、きっとそうだ」

男は何かと理由を付けて納得しようとした。

「うん、何でもない。大丈夫だ。オレは大丈夫」

 自分は疲れていると解釈した男は、峠の道路の所々に設けられているチェーンの脱着スペースに車を寄せた。そしてエンジンを止め、リュックから薬と水を取り出した。

「嘘ついてもらった薬がこんな所で役に立つとはな」

男はそう言いながら、一口残っていた農作業の老人から盗んだ水で精神安定剤を飲んだ。

 男の脈が次第に落ち着いてくると、だんだん眠くなってきた。男はシートを倒し、横になった。


 男がスヤスヤ寝ていると、後ろから車のライトで照らされ、目が覚めた。男は知らないフリをしてそのまま寝ようとすると、後ろの車はさらにクラクションを鳴らし、パッシングしてきた。

「なんだよ、もう!」

男はイライラして後ろを見た。黒のワンボックスの車。その中にガラの悪そうな複数の男達の姿があった。

「ヤンキーか?半グレか?マジかよ」

男は急いでシートを起こし、車のエンジンをかけ、チェーンの脱着スペースから発進した。

 ワンボックスの車は、男が車道に出ても後を追ってきた。そしてパッシングをしながらあおり運転を仕掛けてくる。

「マジかよ。場所譲っただろ!」

男はアクセルを踏み込んで、逃げた。

 男は追ってくるワンボックスに気を取られながら運転を続けた。ハンドルを握りながら、チラチラとルームミラーで後続車を確信する。峠は右へ左へとカーブの連続だ。男は増していく緊張感で脈が早くなっていくのを感じていた。暗い山中、ヘッドライトの灯りに照らされた木々が嫌に不気味で、何かが出そうで恐ろしかった。


ドンッ!ドンッ!ドンドンドン!


「うわぁぁぁ!!」

 

 突然、車の屋根から物凄い音がした。まるで誰かが思いっきり足で踏み鳴らすような音だ。車も振動で揺れている。

 男は視線を感じて恐る恐るルームミラーを見た。すると、男の車の後部ガラスに誰かがへばりついている。青白く浮かび上がる人の顔…

自殺したラーメン屋のヒゲ男だ!


「ぅぎゃーァァァ!!」


男は振り切ろうと、必死にアクセルをさらに踏み込んだ。すると、あちらもさらに力強く屋根を踏み鳴らした。


ドンッ!!ドドンッ!!ドドドンッ!!


「うわぁぁぁ!すいません!すいません!ゴメンナサイ!」


峠の差し掛かった急カーブ。男は急スピードのままブレーキを踏まずに力一杯ハンドルを切った。

 車は曲がりきれず大きく飛ばされ、ガードレールを越えて行く。男の視界にラーメン屋のヒゲ男が入った。ヒゲ男はガードレールの後ろに立ち、こちらが落ちていくのを眺めている。

 男を乗せた車は、崖から闇深い森の中に落ちて行った…



「ぅゎぁあああー!あ、あ」


 男は目を覚ました。

「はぁ、はぁ、はぁ…」

朝の日の光が差し込み、辺りはすっかり明るくなっていた。男は車に乗っている。どうやら無事のようだ。男は汗でじっとりしているシャツの袖で、ビッショリしている顔を拭った。手のひらも汗でぐっしょりしている。

 男は静かに車を降りた。辺りをゆっくり歩きながら、注意深く確認した。不法投棄と思われる大きなゴミが、そこかしこに捨てられている。そこは、昨夜駐車して寝ていたチェーンの脱着スペースだった。

 男はタバコに火をつけ、肺いっぱいに吸い込んだ。

「はぁ…」

(きっと寝てる時、誰かが不法投棄しに来て、その時のエンジンの音やライトの明かりがオレに変な夢を見せたんだ。そうだ、夢だったんだ、全部。オレは疲れているんだ。精神がやられている。気にして無いようで傷付いているんだ、オレの気持ちは。かわいそうなのはオレの方だ)

 男は着替えを済ませ、出発した。

「よし、今日はちゃんと飯食って、暖かい布団で寝るぞ」

男は昨夜の記憶を打ち消すように大音量で音楽をかけ、意気揚々と峠を超えた先を目指した。


 海が見えてきた。水面が太陽に照らされ、キラキラ輝いて見える。潮の香りが気持ちを和ませる。

 山道を過ぎ、集落に辿り着いた。どうやらここは小さな漁村のようだ。男は辺りをキョロキョロしながらコンビニを探した。

「コンビニも無いのか、ここは」

男は音楽の音量を下げ、店を探した。すると、小さな漁港の近くに古そうな店を見つけた。

 店の前に車を止め、中の様子を伺う。古く寂れているが、どうやら日用品と食料品、雑貨など売っているようだ。

 男は帽子を被り、店に入った。客の来店を知らせるアラームが鳴る。男が商品を眺めていると、奥から年老いた男性が現れた。

「あの、パンありますか?」

男が聞くと、老人は腰を曲げてゆっくり案内した。

「パンはここね、あとは?飲み物そこね」

「あ、あと大丈夫です。どうも…」

老人がレジの方へ戻る。男はパン売り場を眺めた。

(アンパンとジャムパンとクリームパン、豆パン、食パン…コレしかねぇのかよ)

男はジャムパンを取り、コーラを掴んで老人の前に置いた。

「あの、この辺で泊まれる所ありますか?」

「あ?ぁぁ、そっちの方に行くと民宿あるから、聞いてみるといい。大体が釣り客だ。あんたもそうかい?」

「え?えぇ、まあ…」

男は釣り銭を受け取り外へ出ようとすると、頭にタオルをねじって巻いた、体のガッチリした背の高い男が店に入って来た。地元の漁業関係者であろう。男は目を合わせないよう、うつむきながら外へ出た。そして足早に車に乗り込み、逃げるように発進させた。

 男と入れ違いに店に入って来た背の高い男は、アンパンと牛乳を老人のいるレジの前に出した。

「じーさん、今の人は?」

「さぁ、釣りしに来たみてぇだが…」

「釣りねぇ…」

「なんかしたか?」

「いやぁ、車はナンバー見えねぇくらい汚れてるしよ、屋根がボコボコだったから…」

「屋根?」

「うん。車の屋根。ボコボコにへっこんでんの。峠で落石にでもあったんだろうか…」


 男は岸壁に座っていた。目の前には釣り船が5層、小さな波に揺れチャプチャプ音を立てながら停泊している。 男はさっき買ったジャムパンを頬張りコーラで胃まで流し込んだ。

「はぁ…魚臭ェなここ。明日にでも違う所行こう」

 民宿はすぐに見つかった。宿の婆さんに「一人だ」と言っても耳が遠いのか「二人か?」と何度も聞かれ辟易した。「部屋の準備ができるまで釣りでもしててくれ」と言われここへ来ていた。

「今晩はあの婆さんの料理か…」

 船頭らしき男が出航の準備をしている。そこへ民宿の方から釣り客が次々集まって来た。男はその列へ加わった。

「すいません。釣り、初めてなんですけど道具借りられますか?」

男が船頭に声をかけた。

「あぁ?初めてで船乗んのか?まぁ、道具あるからいいよ」

船頭は怪訝そうな顔をしながら

「ポイントに着いたら教えてやるよ」

と言い放ち、男に背を向け奥へ入り、船のエンジンをかけた。

 男は他の客に混じって船室に入った。皆、釣り用の格好に自前の道具を揃えている者ばかりだ。何も無い男は変に目立つのを恐れ、帽子を目深にしてうつむいた。

 船は沖へ向かう。エンジン音は大きかった。水しぶきを上げながら波を次々乗り越えて行く。波を越える度に船は大きく揺れた。

 しばらくすると、船はスピードを徐々に下ろし、止まった。

 客達が一斉に立ち上がって釣り竿を片手に次々と甲板へ出る。男もその流れに従おうとしたが、うまく体が動かない。

(気持ち悪ぃ…)

船頭が男の方へ近寄って来た。

「ハハ、船酔いか?外の空気に当たりながら休んでるといい」

男はフラフラと甲板へ出た。他の客達は既に海へ釣り糸を垂らしている。男は隅に腰掛け、その様子をただボーッと眺めた。

「なんだか曇ってきたぞ」

「ああ、雲が出てきたなぁ」

「ひと雨来るか?」

客達が口々に空模様を話し出した。男が空を見上げると、厚い雲が近くまで来ていた。

「風も出てきたなぁ」


ゴロゴロゴロ…


「雷だ。一旦上げて中入ってくれー」

船頭が声を上げた。客達は皆、残念そうに釣り糸を巻き取り、片付けて船室へ入って行く。太陽は厚い雲に覆われ辺りは暗くなり、一段と風が強まり、波が荒れてきた。男は重い腰を上げ、空の様子を見ながら最後に船室へ向かった。すると、足に何か冷たい物が当たって下を向いた。

「ひぇっ!」

見ると、足下に白と黒の縞模様のウミヘビが複数、のたうち回っている。男は恐怖でたじろいだ。ウミヘビはまるで男が船室へ入るのを妨害するかのように扉の前でクネクネ絡み合い、目が光って気味が悪い。

 雨が降ってきた。空は一層暗くなり雷が轟く。ウミヘビの縞模様のテカテカした毒々しさが、より一層恐怖感を煽った。

「うわぁぁー!」

高くなった波で船が激しく揺れ、男は甲板の先へ飛ばされた。そして横波に煽られる度に右へ左へと転がされ、体の自由がきかない。

(このままでは海に投げ飛ばされる!)

男は船の端にぶつかった拍子に、縁に必死にしがみつき、ウミヘビを警戒しながら横波に耐えていると、ふと、海面が気になった。そっと海の中を覗くように見てみる。何やら海底からぼやけた白いものが近づいてくるようだ。男はその白いものに気を取られ、何が現れるのか待った。


ピカッ、ゴロゴロゴロ…

「ああぁぁぁー!」


なんと、海面に現れたのは自殺したヒゲ男の顔だ!青白い顔だけが海面にプカッと浮かんだ。

「ど、ど、どうせ、夢だろ!全部夢なんだろ!分かってんだよ、バーカ!」

男はヒゲ男の顔に向かって大声で叫んだ。

 ビゲ男は両目をカッと見開き、顔を起こした。すると、どんどん顔が大きくなっていく。体は無い。無いのか、海中にあるのか分からない。血走った両目をギョロッと見開き、男を凝視したまま無表情で顔が大きくなっていく。


ピカッ、ゴロゴロゴロゴロ…

「あ、あ、あ、あぁ…」


 男は恐怖におののき、ズリズリ体を引きずって船の反対側の縁に身を寄せた。

 ヒゲ男の顔はますます巨大化していく。雷でヒゲ男の顔がピカッと光る度、髪やヒゲに海水が滴り、ミミズの様な虫がそこかしこにこびり付いているのがはっきり見えた。青白い顔に目だけが赤く血走ったその様子は、とても不気味で恐ろしい。やがて顔は6メートル程大きくなると、巨大化が止まった。


「あわ、あわ、あわわわ…」


男は体がこわばって震えていた。

 ヒゲ男は男を見下ろしながら口を大きく開けた。すると口の中の舌の上に、大量の縞模様のウミヘビが入り乱れてグニャグニャしている。ヒゲ男は黄色に染まって汚れている歯をますます上下に広げ、顔を仰け反らせるように口を大きく開けていった。口はどんどん広がり、喉の奥は赤く渦を巻いている。そして雷の光りは、ヒゲ男の口の中を、まるで大きな闇の洞窟のような姿に映し出した。


「た、た、助け…助けて…助けてください…」


男はガクガク震え、泣きながら懇願した。


「お願いします…お願いします…え、え?わ、いや、うわあぁぁぁー…」


ヒゲ男は口を大きく開いたまま、男の方へ倒れていった。


バクッ…


ヒゲ男は男を口に入れた瞬間、大波に変化し、船に海水を大量に降り注いで海の中へ消えて行った…

 やがて雷は去り、雲の隙間から太陽が顔を出してきた。船頭と釣り客達は船室から飛び出し男を探したが、何処にも見つからなかった。



 狭い部屋に事務用机が2つと小さなロッカー、それと小さな応接セットに小さな窓。何とも殺風景で粗末な部屋で、男の兄は待っていた。


ガチャ…


ドアが開くと、男の兄はすぐさま立ち上がり、深々と頭を下げた。

「この度は本当に申し訳ありませんでした」

「まあ、いいから座って下さいよ」

声には優しさがあった。男の兄は小さなソファに座り直すと、相手も正面に腰掛けた。男の兄はカバンから紙袋を取り出し、その中から500万を出してテーブルの上に置いた。

「こうやって返しに来てくれたんだ。他人行儀はよそうや」

ラーメン屋のヒゲ男は微笑んだ。

「本当はあいつも連れてきて謝りたかったよ」

男の兄は悔しさを滲ませた。

「お前がお金を苦に自殺しようとしたと聞けば帰って来るかと思ったが、あそこまで逃げ続けるとは…自分の弟ながら情けないよ」

ヒゲ男も表情を落とした。

「…こんな形になるなんてオレも残念だよ。海で見つかったって?」

「ああ。釣り船で沖に出た所で急な天候不良にあって、高波にさらわれたらしい」

「そうか…水死、か…」

ヒゲ男がそう言って落胆すると、男の兄はより深刻そうに正面を向いた。

「いや、違うんだ。水死じゃないんだ」

「だって波にさらわれたんだ、溺死だろ?」

「それが、全身いたるところに蛇に噛まれた痕があって。死因は蛇の毒だった。水死じゃなかったんだ」

二人は向かい合ったまま固まった。ヒゲ男は背もたれに体を預け、口を開いた。

「見つかったのは、海だろ?」

「ああ。地元の漁師が捜索してくれて、船でしか行けない入江で見つかった」

二人は男の死因が不可思議で言葉をなくした。

「まぁ、でもこの金、手を付けずに持ってたんだな?」

「いいや、とんでもない。あのバカ200万近く使い込んでたよ。不足分はあいつの保険金で補った。すまんな」

男の兄は厳しい顔で言った。

「昔からうちの親はあいつに甘くて、あいつがしでかしたこと全部、尻拭いしてやっていた。その結果がこれだ。うちにはもう何も残ってない」

男の兄の悲痛な表情に、ヒゲ男は苦しくなった。

「親父さんとお袋さん、大丈夫か?」

「お袋は倒れてから頭おかしくなって…訳わかんなくなって、喚くばかりで施設に入ったんだ。でも、ちょうど良かったと思ってるんだ。お袋か普通だったら、あいつが死んだなんて受け入れられなかっただろう。親父は今入院してる。冷静だったよ。冷静というより、肩の荷が下りたって感じかな…」

「そうか…」

「ありがとう。本当に、迷惑かけた。すまなかった」

「もう、いいよ。これから仕事探し頑張れよ」

「ああ。前の会社から戻って来いと言われてる。そうしようと思う」

「そうか。またいつでも遊びに来いよ。行きにくいとか、思うなよ」

「うん、ありがとう。じゃあ、またな」



 男の兄はヒゲ男に会った後、入院している父親の面会に行った。父親は病室で一人、ベッドを起こし、起きていた。

「返してきたよ。お金」

「ああ、そうか」

父親はもともと痩せていたが、髪が真っ白になり、より年老いて弱々しく見えた。

「俺も退院したらお詫びに行かなくちゃ…」

男の兄はベッドの脇の椅子に腰掛けた。

「うん。その時は一緒に行くよ。あ、それと着替え持って来た」

男の兄はカバンからビニール袋に入れた着替えを渡した。

「仕事は?大丈夫か?」

父親は男の兄の顔を覗き込んだ。

「大丈夫だよ。前の会社がまた雇ってくれる」

「そうか…」

父親は安堵の表情を見せた。

「じゃあ、オレ行くから。また来るよ」

男の兄は立ち上がり病室を出ようとした。その時、

「お前はもう自分の人生を生きろ」

父親が後ろから声をかけた。その様子は穏やかに微笑んでいた。


 男の兄が病室を出ると、父親は携帯を取り出し、操作を始めた。一通り操作を終え、携帯を閉じ外を眺める。外はいい天気のようだ。心も晴々していた。

携帯が鳴った。

見ると、携帯画面には


“呪いヘルパー”


と写っている。

男の父親が出る。

『入金カクニン、シマシタ。オフリコミ、アリガトウゴザイマス』

電話の主はロボットの声のような、アニメの少女のような声だった。

「不足分は前に話した通り、私達夫婦の保険金でお願いします。指示通り受取人の変更も済んでます」

『ゴキボウノ、キゲン、ニチジハ、アリマスカ?』

「いいえありません。そちらの都合でどうぞ」

『オクサマモ、ドウイ、サレテマスカ?』

「はい。我が子の命を取ったんだ…希望なんて言えません。あの子も突然だったのだから…」

『承知シマシタ。ホカニキキタイコトハ、アリマスカ?」

「…こちらの話を少し、聞いてくださいますか?」

『…』

父親は大きく深呼吸し、正面を向きながら何処か遠くを見ているように、静かに話し出した。

「あの子は、学生の頃からよく嘘をつき、万引きしたり、女性を妊娠させたりする子でした。大人になると次々借金を繰り返し、詐欺まがいのことをするようになりました。その都度、私達夫婦はあの子の尻拭いをしてきたのです。いつかわかってくれる、いつかまともになってくれると信じて、あの子を守ってきました。でも、私達がしてきたことはあの子を守ることじゃなかった。自分達を守ってきたんです。ただ自分達に降り掛かった火の粉を振り払うためにしてきたことだったんですよ。それに気付いたんです。私達が死んだ後、私達の育て方が悪かったせいで、今度は他の子供達が苦しむ。既に長男はあの子のせいで結婚も破談になり、私達に頼られ、家に縛られている。しかもあの子はその長男の友達の金に手を付けた。ついに盗みを…。この先何をするかわからない。あの子を生み、育てた親の責任として、私達は間接的とはいえ我が子に手をかけた。後を追う覚悟はできています。… ヘルパーさん、最後に話を聞いてくれて、ありがとう…」

『連絡ニ使ッタ、コノ携帯ハ、シッカリ破壊シ、廃棄シテクダサイ。マタ、コノ事ハ、他言スルト、言ッタ人、聞イタ人、ドチラニモ災イガ訪レマス。ゴ注意クダサイ』

男の父親は微笑んだ。

「それはもう承知してます。私も妻もこの状態ですからね」

『ゴ利用アリガトウゴザイマシタ』


プツン…
















 

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