私の隙間を埋めるのは
れん
第1話 瑠香視点
静かな空間に、遠くの方から子どもの笑い声が流れ込んでくる
少し開いた窓からは、春の柔らかい光と風が差し込んできて、それなりに気持ちがいい
私は今そんな空間の中で、静かに本のページをめくっていた
毎週土曜日と日曜日は大体図書館に来る。中学生の時から変わらない習慣
いつもの席に座って、持ってきた本を読んだり、時々スマホをいじったり、高校で配られたばかりの単語帳を読んだりしながら過ごす
そうやって長い1日を何とか過ごすのが、ずっと変わらない私の土日
高校に入学してもうすぐ一か月が経つけれど、中学の時と土日の過ごし方は変わらない
高校生になればもっと劇的に何かが変わるような気がしていたけど、入りたい部活も見つからなかったし、何もしなかった。そうなると何も変わり様がない
「んんー」
ここに来て何時間くらい経っただろう
きっとそこまで時間は経っていない。私が潰さないといけない時間はまだまだたくさんあるけど、ずっと座っていると体のあちこちが痛くなってくる。お尻とか、腰とか肩とか
その痛みを解消するために伸びをしたりするけど、それでも私の体は軽くならない。仕方がないから席を立って、荷物を席に置いたまま散歩に出かける
不用心かもしれないけど、荷物を置いておかないと私の席はあっという間になくなってしまうから
私の土日の過ごし方は高校生になってからもほとんど変わらないけど、私の周りの環境は少し変わった
そのひとつは、高校の同じクラスになった女の子が、私と同じように図書館に通っているということ。私と同じように、朝から夕方までここにいる
その子は私とはタイプの違うグループに所属している、まだ話したことのない女の子だった。髪を茶色く染めて、私よりもおしゃれな服装をしている。うっすらと化粧もしていると思う。化粧もしてなくて、Tシャツにジーパンという格好をした私とは大違いだ
確か名前は、上井えむさん
その少し派手な見た目を見ると、私と同じような土日を過ごしていることが意外だと思う。勝手に遊んでいそうな印象を持っていたけど、そうじゃないみたいだ
こうやって席を立って出口に歩いて行くと、何となく上井さんのことが目に入って、勝手に気まずく思う
今はファッション雑誌を読んでいるみたいだ。遠目からでも、おしゃれな格好をした女の子が写るきらきらした表紙が見える
私はそういうのをほとんど読んだことがない。入学から1ケ月が経とうとしている今も一回も話したことはないけど、話しが合わなそうだと思う
横目でちらちらと上井さんのことを見ながら通り過ぎて図書館から出ると、ほっと息を吐く
何となく、こういう時緊張してしまう
図書館から出て、近くにあるコンビニに行くけど、何も買わずに出てくる。本当はお菓子とか買いたいけど、そういうことにお小遣いを使うのはもったいない。お小遣いは限られている。本とかグッズとか、欲しいものはたくさんある
あんまり遠くに行く気にもなれない。なんとなく信号を渡るのが憂鬱で、信号のこっち側にある店はコンビニくらいしかないから、そんな意味のない散歩を終えるとすぐに図書館に戻る
私が出て行ったときには雑誌を読んでいた上井さんは、今はスマホをいじっている
それを横目に見ながら、私は自分の席に戻る。さっきまで読んでいた本を読む気にもなれなくて、気分転換に英語の単語帳を眺める
でもそんなにやる気がある訳でもなくて、5分か10分くらいそれをすると、また本を読んで、飽きたらスマホをいじってを繰り返す
お昼になったらご飯を食べに出かけて、それが終わったらまた戻ってきて時間を潰す。そうすると、何とか夕方の5時になる
そのくらいになると、そろそろ帰ろうという気持ちになる
あまり遅くなると、お父さんの機嫌が悪くなってしまうかもしれない
荷物を鞄に詰めて席を立つと、上井さんはもう帰ったみたいだった
私の方が先に帰ることもあれば、上井さんが先に帰ることもあるけど、大体いつも私と同じような時間にここを出ていると思う
出口まで歩きながら、何となくさっきまで上井さんが居たであろう席を見る。するとそこに財布が落ちているのが見えた
これ、上井さんの財布かな?
見たことないけど、それは確かに上井さんが座っていた席に落ちていた
届けたほうが良いかな
たぶんさっきまで上井さんはここにいたはずで、走れば届けることが出来るかもしれない
でも違うかもしれないし、図書館に届けるのが一番無難なような気がする
でも、私が逆の立場で、帰ってから財布を無くしたことに気が付いたら、気が気じゃなくなると思う
うーん...
少し迷ってから、私はその財布を手に取って早足に図書館を出た。見つからなかったら図書館に届ければいい
図書館を出たところにあるロビーには誰もいない
ロビーを出て外に出ると、すぐに広場が広がっているけど、そこにも上井さんはいない
広場を走り抜けて、駅の方に向かってみる
すると、広場を出る階段を、上井さんが下っているのが見えた
良かった。追いついた
その背中に声をかけようとして、そう言えば私は上井さんを呼んだことがないことを思い出す
名前を呼ぶことを躊躇ってしまう。そうしているうちに、上井さんは階段を下り切って、私の視界から消えそうになる
「上井さん!」
私は慌ててその名前を呼んだ
上井さんの足が止まる。私の方を向いた後、不思議そうに首を傾げた
まあそうだよね。逆の立場なら、私だって不思議に思う
少しの気恥ずかしさを感じながらも、私は早足で上井さんに駆け寄る
「あの、これ...」
私がそう言って財布を見せると、上井さんが「あっ」と声を上げた
「私の財布だ。ありがとう」
上井さんの顔に笑顔が浮かぶ
良かった。ちゃんと上井さんの財布だったみたいだ
上井さんが私の手から財布を受け取って、カバンにしまう
そのことにホッとしていると、すぐに私たちの間に静寂が流れる
上井さんに財布を渡し終えると、話すことはない
気まずくなって、私は上井さんが歩いて行く方向とは反対の方向に行くことにする
本当はこっちから帰ると少し遠回りで、上井さんと同じ方向に進んだ方が早いんだけど、まあそれは気にしないことにする。そんなに急いで帰らないといけない訳でもないし
「じゃあ、私はこっちだから」
そう言って、私が上井さんに背中を向けて歩き出そうとすると、「ちょっと待って」と上井さんに呼び止められた
「小林さん、たぶん帰り道いつもこっちだよね。途中まで一緒に帰らない?」
上井さんに予想外の言葉を投げかけられて、再び私は上井さんと向かい合うことになって、私の中にたくさんの疑問や戸惑いが生まれる
どうして上井さんは、私にこんな誘いをしてきたんだろう
仲が良いわけでもないどころか、話したことのない私と一緒に帰ってもしょうがないと思うんだけど
どうしようかと少し迷う
今日はこっちに予定があるとか、適当な理由をつけて誘いを断ることだって出来るけど...
「うん、いいよ」
でもそんな余計な嘘を吐くことがめんどくさくて、私は一緒に帰ることにした
上井さんの隣に並んで、ゆっくりと歩き出す
「小林さんだよね。同じクラスだけど、話すの初めてだね」
「うん、そうだね」
「この図書館でよく見るけど、ここら辺に住んでるの?」
「うん。柚木中学校の近くに住んでるよ」
「へー、じゃあ結構近いかも。私大学病院の近くに住んでるんだけど」
「ああ、あそこら辺なんだ。確かに近いね。じゃあ上井さんも自転車で通学してるの?」
「そうなの。小林さんもなんだ。すっごく大変じゃない?」
「ね。坂道がきつすぎる」
話し始めると、意外と会話が続く
上井さんがどんどん話題を振ってくれるから、思ったよりも気まずい時間にならない
お互い部活には入っていないこと。上井さんは最近ここら辺に引っ越してきたのだということ。担任の話。苦手な先生の話
色々な話題が浮かんでは消えていく
話しながら賑やかな駅前を通り過ぎて、ちょっと先にある大学の前に着くと、私と上井さんの進行方向が別れた
「小林さんはここ右なんだ」
「うん。上井さんは左?」
「そう。じゃあここでお別れだね。またね」
「うん。また」
そう言って私は上井さんに背中を向けて歩き出す
少ししてから後ろを振り向くと、上井さんの遠ざかって行く背中が見えた
「ふぅ...」
大きく息を吐いてから、再び振り返って、私は家までの道を歩き出す
ほんの10分くらい一緒に話しただけだったけど、少し疲れた
初めて人と話す時はいつだって疲れるし、それが自分とタイプの違う人であればなおさらだ
歩きなれた道を歩いて来たはずなのに、全然知らない道を歩いて来たような、ふわふわした感覚が私の中に残っていて、今歩いている道もいつもとは少しだけ違うように感じる
疲れたけど、でも思ったよりも楽しかった。上井さんは話をするのが上手なのかもしれない。さすがは陽キャ、ってことなのかな
まあでも、こんなことこれから先はないだろうな
この時の私はそう思っていた
次の日。図書館に着くと、上井さんはもう先に図書館に着いていた
昨日のことがあって、少しは親交を深めたはずなのに、一晩経つと私の中の気まずさはいつもよりも大きくなっていた
いつもよりも上井さんのことを意識してしまう自分を抑えながら、いつもの席に向かって歩いて行く
すると、いつもは顔を上げない上井さんが顔を上げた。ちらちら上井さんを見ていた私と、見事に目が合う
うっ
気まずい。そう思う私とは反対に、上井さんはにこっと微笑むと、小さく私に手を振って来た
引きつりそうになる顔を抑えて、私も小さく手を振り返すと、いつもの席にようやく腰を下せた
ここに座っていれば、上井さんからは見えないはず
ホッと息を吐いて、いつもの様に本を取り出す
朝から少し疲れた
まだ意識は上井さんのほうを向いている
それでも無理矢理本を開いて、文字を追っていく。いつも以上に集中できない中、私はただ静かに読書を続けた
それからは何事もなく、いつもの様に時間が過ぎて行った
上井さんに一緒に帰ろうと誘われることもなかった
1人でいつもの様に家まで帰る
何もなかったのに、なんだか少し疲れた1日だった
「ただいま」
家に帰って玄関でそう言うと、リビングから「おかえり」というお父さんの声が聞こえて来た。その声はいつもよりも少しだけ低い
まずいな
何でか知らないけど、今日はいつもよりも機嫌が悪いみたいだった
こういう時は部屋にこもるに限る
リビングに寄ることなく部屋に入って、ベットに横になってスマホをいじり始める
そうやって30分くらい過ごす
ずっとこうしていたいけど、そういう訳にもいかない
今日は日曜日で、日曜日は掃除をする日と決まっている
週に一回、私がこの家の掃除を1人でやらなければならない
十分くらいダラーっとしてから、私は洗面所から掃除を始める
洗面所、トイレ、廊下、私の部屋、そういう順番で掃除をしてから、機嫌が悪い父親がいるリビングの掃除を始める
お父さんは私はリビングの掃除を始めても、何も言わずテレビから視線を離さない
そこに文句はない。できればずっとそうしていて欲しいと思う
でもそうはならない。お父さんは急に立ち上がると、キッチンに向かって行った。どうやらこれから夕飯の支度をするみたいだ
何も言わずに私の横を通り過ぎていく。体を硬くしてお父さんがキッチンに着くのを待って、それから私は掃除を再開した
リビングを掃除して、最後にお父さんの部屋の掃除を終えると、やっと掃除が終わった
「おい、瑠香」
後は掃除道具を片付けるだけ
そう思っていたとき、お父さんに名前を呼ばれた。もう怒っていることがわかる
その声は最初に掃除した洗面所から聞こえた
「はい」
そう返事をして、急いで洗面所に駆けつける
「ここ汚い」
私が洗面所に着くとすぐに、お父さんが洗面所の一画を指さしてそう言った
心臓の鼓動が激しくなっていくのがわかる
「ごめんなさい」
「やる気あんの?なかったらやらなくて良いんだよ?」
やらなくていいなんて少しも思ってないくせに、お父さんはそう言う
「あります。ごめんなさい」
俯いて謝ると、父親がそこにあった歯ブラシを手に取ったのがわかった。体を硬くしていると、それがこっちに思いっきり投げつけられた
「やる気あるやつの掃除じゃねーだろ」
それからも、お父さんの私へのダメ出しは止まらなかった
結局、夕飯が食べ終わるまでずっと、私はお父さんから説教をされ続けた
泣くことは許されない。そんなことしたら、もっと怒られることはわかってる
味のしないご飯を食べながら、お父さんの話を聞いて、謝る。それを繰り返して1時間くらいたって、ようやく私はお父さんから解放された
部屋で1人、スマホをいじりながらベットに寝っ転がる
やっと土日が終わった
そのことにホッとする
今日が終われば、今日みたいなことが起こることは来週の土日まで基本的にはないはずだから
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