鐘が鳴るまでは、どうか
萬宮
23:50
0時の鐘が鳴ってしまえば魔法は解ける、なんて、ありふれた童話のような非現実。まだ幼い女の子が好みそうな、御伽噺によくある設定。
ちょうど去年、午前0時の小さな部屋の中で、私は何もかもを失った。
それは信じ難い光景で、私はずっと悪夢だと信じ込んでいたくて。
あの日私は親も、弟も、そこにいた彼さえも、……彼にまつわる記憶でさえも失ってしまった。
親をはじめとした家族の記憶は鮮明だ。幼い頃のお遊戯会の思い出も、誕生日を祝ってくれた思い出も、あの日の赤だって記憶から抜けないで、今も私の思考回路を錆つかせている。
聞いたはずの声も、見惚れたはずの顔も、触れたはずの体温も、愛したはずの性格も、そう、何もかもを。事実、「愛していたのなら、きっとそうだったのだろう」なんていう陳腐な思い込みでしかない。本当は私は彼の声を聞いた覚えも、彼の顔に見惚れた覚えも、触れた覚えも、なにもないのだ。
むしゃくしゃして、落ち着かなくて、命日だというのにお墓参りに行くのはやめた。遠いから、明日も仕事だからなんて理由をつけて、思い出すことから逃げた。今日の仕事は何一つ手につかなかった。納期にはかなりの余裕を伴って間に合うスケジュールだったから問題ない。しかし、それすら私の自責を助長させることとなって、もう手がつけられないほどの虚しさや苛立ちを抱える羽目になる。もうどうすればいいんだ、と頭を抱えたくなって、嫌になって外に出た、その時だった。
「やあ、元気にしてる?」
10月終わりの冷たい風を伴って現れた男性。どこか懐かしく暖かいような声色で、きっと私に声をかけてきた。……いや、こんな時間に私以外が外に出ているわけもなく、二人きりの空間で、そこにいない人間に話しかけるなんてこと、ありふれた人間の大半はしないだろう。
「……元気に見えますか?」
「そう言ってる人って、大抵元気じゃないんだよな……うん、確かに見えない」
楽しそうに笑う彼にさえなんとなく苛立ちを覚える。どうかこの怖いくらい静かな夜だけは、ひっそり過ごさせてはくれないものか。
「……会えてよかったよ、翠」
「なんで、私の名前……」
不意に視界に入った時計は23時57分を指している。不意に彼の手が私の頬を掠めた。……否、掠めようとした。手を伸ばされて、触れられなかったというより、まるで空気のように透けて感触がない。
「ああ、やっぱり駄目か」
彼がそう呟いたのがわかった。「やっぱり」なんて、まるでその結果を初めからわかっていたような口ぶりなのかが、理解できなくて。
「……僕たちは、本当はこうすることも許されないんだけど。でもどうしても、会いたかった。ごめんね、怖がらせちゃったよね」
眉を下げて柔く笑う彼の顔を見ると、なんだか安心するような気持ちになるような感覚を覚える。首を振って気にしていない旨を伝えると彼はほっと旨を撫で下ろした。
「また来年、会いに来られたらいいんだけど……平日だもんね、今日。時間があまりになくてびっくりしちゃった。お仕事お疲れ様」
「え、ああ、ありがとうございます……?」
彼は少し不服そうにしたあと、「そういうことか」と呟いた。こんなに静かな環境で、近くにいる私にも聞こえるか否かの微妙なラインを彷徨うくらいの声量だった。
「……ごめん。翠にずっと辛い思いさせて」
「え、何の事を」
辛い思い、に対する心当たりがあまりにもなくて、思わず彼に尋ねようとして、遮られる。
「もう時間か、早いなぁ……」
心から寂しそうな声色の彼に、目を奪われた。
「待って、あと一言だけ。」
まるで私以外の何かに話すように、宥めるように言った後に私と向き合う彼。なぜか無性に緊張と恥じらいが入り混じったような感情が込み上げてくる。
「翠、愛してるよ。幸せになってね」
はにかむ彼の顔は、確かに見覚えがあるものだった。
遠くの商店街から、0時の鐘の音が鳴る。この街は鐘の音を合図に眠りにつく。やれハロウィンだ何だと浮かれていた人々も家に帰り出した事だろう。
目の前にいたはずの彼は、まるで何かの魔法で魅せられていた幻であったかのように消えてしまった。
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