第16話

「なに、してるんですか?」


 扉を開けてまず目に入ったのは土下座している英治だった。扉を開けるまでは『まず謝ろう。それから自分の考えを伝えて』なんていろいろと考えていたのに……想定外の光景を前にして動揺がそのまま言葉に出てしまった。


 華恋の声に反応し、英治が頭をさらに下げる。慌てて華恋が止めようとしたが英治は遮った。


「すみませんでした」


 ――――裕子さん、いったい何を森さんに言ったの?!

 困惑しつつも華恋はしゃがみこみ英治の肩に手を置いた。英治の身体がビクッと揺れる。


「森さん、頭を上げてください」


 一瞬ためらう気配がしたが、英治は恐る恐るといった感じでゆっくりと頭を上げた。さらりと髪の毛が左右にわかれ、普段は隠れて見えない瞳が現れる。今日は眼鏡をかけていなかったらしい。目と目があう。


 華恋はホッと息を吐いた。じっと英治を見つめる。八の字に下がった眉があいまって……

 ――――まるで叱られた犬!

 年上の男性に対してこんなことを思うのは失礼かもしれないが……というかこんな時に思うことでは無いが……思わずにはいられない。可愛いっ!

 声に出さなかった自分を褒めたい。空気を読まず、緩みそうになる頬を叱咤して華恋は口を開いた。


「話を、しませんか? きちんと。私達に必要なのは理解できるまで話し合うことだと思うんです。今の私は何について森さんが謝っているのかもわからないし……私も森さんに謝りたいことがあるんです」

「渡辺さんが俺に謝りたいこと? っあ、とりあえず、上がってください」

「はい」


 英治の家にお邪魔するのはいつぶりだろうか。随分久しぶりな気がする。

 リビングの椅子に二人とも座って向き合う。先に英治が口を開いた。


「さっき、俺が渡辺さんに謝ったのは……俺の身勝手な気持ちで渡辺さんを振り回して傷つけたから」


 なんのことを言っているのかわからなかった華恋は首を捻る。

 すると、英治が苦虫を嚙み潰したような顔で説明してくれた。

「俺、渡辺さんの口から「好き」って聞いてからずっと付き合っている気でいたんだ。でも、この前の会話で俺の一方的な思い込みだったと気づいた。勝手にショックを受けて、渡辺さんを避けた。渡辺さんが何か言いたそうにしているのに気づいていたのに……怖くて逃げだしたんだ。……そんな俺の行動が渡辺さんを傷つけた、ってさっき姉さんから聞いた。本当に、ごめん」


 大きな体を縮こまらせて謝る英治を見て、華恋は何とも言えない気持ちになった。


「確かに……森さんから避けられたのはすごく傷ついた」


 華恋の一言に英治は顔をこわばらせさらに頭を下げようとする。


「でも! 元々の原因は私ですから!」


 え?と顔を上げる英治。華恋は英治の目をまっすぐに見つめて告げた。

「私、今まで一度もお付き合いをしたことがないんです! というか誰かを好きになること自体森さんが初めて。だ、だから……好きって気持ちが通じ合っても、その……キ、キスをしても、それで付き合っているっていうことになるのか正直わからなくて……もし、私の勘違いだったらどうしようとか、森さんはどういうつもりなのかなとか、いろいろ考えちゃって……そのくせ変なプライドが邪魔してなかなか確認することもできなくて……」


 顔が熱い。視線を逸らしてしまいたい。でも、まだダメだ。逃げてはダメだ。

 今まで自分をさらけ出すことは恥ずかしくて、めんどうくさいものだと思っていた。でも、今は違う。


「私の方こそすみませんでした」


 華恋が頭を下げると今度は英治が動揺した。


「え、いや、それは謝ることじゃあ」

「今後は変なプライドは捨てます!」


 勢いよく顔を上げる華恋。驚いたのか英治が固まる。華恋は頬を真っ赤に染め、英治をじっと見つめた。


「な、なので、私とお付き合いしてください!」


 華恋は言い切ると口を閉じた。英治は固まったまま、微動だにしない。

 ――――今更だったかな。それとも、恋愛初心者を相手にするのは面倒と思われた?

 次の瞬間そんな不安は吹き飛んだ。会社で無愛想な英治が頬を染め、嬉しそうに華恋に微笑みかけてきたから。


「俺の方こそ、よろしくお願いします」

「は、はひ」


 緊張が解け、ふにゃふにゃと身体の力が抜ける。嬉しすぎてちょっぴり目尻に涙が滲んだ。

 この後、二人からの報告を受けた裕子と健太はまるで自分達のことのように大喜びした。



 ◇



 正式にお付き合いを始めた二人。だからといって、何かが変わることはない。特に社内では。隠しているつもりはないのに、二人の関係に気づく人は誰もいない。とはいえ、自分達からわざわざ発表するのも違う。もし、聞かれた時は言おう。そう決めていた。


「華恋ちゃん、最近一段と可愛くなったよね? なんかあった?」

 ここ最近しつこさを増してきている八木。

「いえ、別に」

 英治の助言を受け、冷たく返す。それなのに、八木は相変わらずしつこい。

「そっか。じゃあ、俺の目が特別なのかな?」

 ちらりと流し目を送ってくる八木を無視して視線を逸らす。

「さぁ……」

『目が腐ってるんじゃないんですか?』と喉まで出かかったのを飲み込んだ。

 塩対応なのにも関わらず華恋に話しかけるのを止めない八木。


 ――――いっそのこと彼氏ができたって言ってしまおうかな。

 それが早いような気がしてきた。でも、せめて英治に一言言ってからの方がいい気もする。どうしようかと迷っていると、八木の後ろから英治が歩いてきているのが見えた。


「あ」


 華恋の顔がほころぶ。その変化を目の前で目にした八木はすっかり華恋に見惚れてしまっているのだが、英治しか目に入っていない華恋は気づいていない。


 英治も華恋を見つけ、声をかけようとして、彼女の前に立ち尽くしている男が八木だと気づいた。足早に近づく。そして、強引に二人の間に己の身体をねじ込んだ。


「俺の彼女にちょっかい出すのやめてもらっていいですか」

「は?」


 無理矢理間に入ってきた男を睨みつける八木。

 ――――森? こいつこんなに大きかったか? というか今なんて言った?


「誰が誰の彼女だって?」

「だから」

「私が、英治さんの、彼女です」


 そう言って華恋は己の腕を英治の腕に絡めた。英治の身体が硬直する。

 仲の良さを見せつけようとした結果、英治の腕を己の胸で挟んでいることに華恋は気づいていない。一方、英治の意識は腕に触れている柔らかいモノに持っていかれていた。運のいいことに長い前髪のおかげでバレてはいないが。


 華恋の作戦は効果抜群だったらしい。八木が険しい表情を華恋に向ける。


「そんなに俺が嫌だったの?」

「え?」

「残念だけど、俺はこんなあからさまな嘘に騙されないよ。それと、他人を巻き込むのもどうかと思う。森が本気にしたらどうするんだ」

「はぁ?」


 元々話が通じない人だとは思っていたけど、ここまでとは思っていなかった。嫌悪感と怒りでいっぱいになる。華恋は繕うのをやめた。


「意味が分かりません! 嘘ってなんですか。本気ってなんですか。私は本当のことしか言ってませんけど?! 八木さんに応えるつもりがないのも、英治さんと本気で付き合っているのも本当のことです!」


 肩で息をする華恋を慰めるように英治が華恋の手に触れた。華恋が申し訳なさそうな顔で英治を見上げる。

 英治は大丈夫という意味をこめて微笑み返した。それでも腹の虫がおさまらない華恋は、もう一度八木に釘を刺そうとして……口を閉じた。


 複数人の話し声が近づいてくる。社内恋愛が禁止されていないとはいえ、こんな場面を見られたらどんな噂が流されるかわかったものじゃない。仕事に影響が出る可能性だってある。仕方ないが今日は諦めよう。そう華恋が思い至った時、八木が口を開いた。


「俺は、諦めないから」

「え?」

「こんなやつが相手なんて納得できるわけないだろ。絶対俺の方がいい男だと認めさせてやる」


 捨て台詞を残して立ち去る八木。華恋はこめかみに手をやった。


「はあ。頭が痛い。ごめんね英治さん」

「いや。華恋が謝ることじゃない。……それより、俺達も戻ろう」

「うん」


 二人の関係を告げたのに悩みは消えるどころか増えてしまった。しかも、三人とも同じ部署。一抹の不安がよぎる。――――さすがに、公私は別よね。いい大人なんだし。大丈夫……だよね?

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