第10話

 高級感が漂うマンションの最上階。そこに二人は住んでいるらしい。

 いろんな意味でドキドキしながら華恋はインターホンを押した。


 数秒後、インターホン越しに聞こえてきたのはここ最近になってようやく聞きなれた声だ。

 入口の扉が開く。華恋はいそいそと中へ足を踏み入れた。


 視線を床に落としたままエレベーターの中へと一目散に駆け込む。ありがたいことに、途中誰とも出くわすことはなかった。


 最上階につき、もう一度部屋のインターホンを鳴らした。ほどなくして、中にいる住人が鍵を開けた音が聞こえてきた。

 扉がゆっくりと開く。その瞬間、華恋は勢いよく頭を下げ、両手を前につきだした。


「これ。よかったら、どうぞ!」


 一瞬、戸惑ったような気配を感じる。が、すぐに両手が軽くなった。どうやら無事に受け取ってもらえたようだ。


 のろのろと顔を上げると、眩いくらいの笑顔が目に飛び込んできた。


「わぁ! これ、今人気のお店のプリン?!」


 ――――わっ! 美女の無邪気な笑顔ってすごい破壊力!

 あまりの衝撃に咄嗟に目を閉じてしまったが、すぐに我に返って目を開けた。プリンが入った箱を抱えて目を輝かせている裕子を見てホッと息を吐く。どうやら喜んでもらえたようだ。

 裕子の後ろから今度は健太が顔を覗かせた。


「とりあえず渡辺ちゃんに中に入ってもらうのが先じゃない?」

「あ、そうだった! 気が利かなくてごめんね。入って入って!」

「い、いいえ。お、お邪魔します」


 恐縮しながら、部屋の中に入る。玄関でいつまでももたもたしていたら逆に迷惑だ。

 ただ、心臓は痛いくらいに鳴っていた。

 リビングに通され、ソファーを勧められ、華恋は大人しくソファーに座った。この時、華恋の緊張感はピークに達していた。ただテーブルの上を見つめることしかできない。


 向かいのソファーに二人が腰を下ろす。


 ――――今だ!


 タイミングを見計らっていた華恋は勢いよく頭を下げた。


「すみませんでした!」


 先手必勝で謝った。二人からの返事は無い。恐る恐る華恋は顔を上げた。

 が、二人の反応は華恋が想像していたものとは違った。裕子は目を瞬かせて首を傾げていた。


「なんのこと?」


 その表情は本当になんのことかわかっていないようだ。華恋は言葉に詰まる。


 ――――もしかして……裕子さんはあのスキャンダル記事について何も知らなかった? 健太さんが隠してた? てっきり、あの件について話があるから呼び出されたと思っていたんだけど……もしかして、私やっちゃった?!


 華恋が内心焦っていると、健太の苦い声が聞こえてきた。


「いや。渡辺ちゃんが謝る必要は無いよ。巻き込んだのは俺の方なんだから……俺こそゴメンね」


 視線を向ければ、申し訳なさそうに微笑んでいる健太と目があった。

 華恋は慌てて首を横に振ろうとしたが、それよりも前に裕子が健太の頭を思い切り殴りつけた。華恋は驚いて固まる。


「そのとおりよ! 華恋ちゃんを巻き込んだあんたが悪い! もっと反省しなさい! で、華恋ちゃん」

「は、はい」

「もしかして、さっきの謝罪ってそのことだった?」


 裕子がじっと華恋の顔を覗き込む。その瞳には怒りや嫉妬の色はなく、むしろ華恋の心配をしているように見えた。


 困惑したのは華恋の方だった。今も昔も健太に対して下心を持ったことがないとはいえ、華恋が健太のファンなのもファン歴が長いのも確かだ。罪悪感が込み上げてくる。

 華恋は小さな声で「はい」としか返せなかった。


 そんな華恋の心情を知ってか知らずか裕子の声はさらに優しくなる。


「華恋ちゃんは気にしないでいいからね。むしろ……大丈夫?」

「はい」

「本当に? 何か、周りで変なことは起きてない?」


 真剣な言葉と表情。ハッとした。その言葉の裏にあるのはきっと……。

 華恋はじっと裕子の顔を見つめ返し、意を決して口を開いた。


「その言葉そっくりそのまま返します。裕子さんこそ、無理していないですか?」


 今度は裕子がたじろいだ。その反応だけで充分だった。

 裕子はしまったという顔をした後、ちらりと健太に視線を向ける。裕子は健太には気取らせたくなかったのだろうが、あいにく健太はしっかりと裕子の表情を観ていた。

 その瞳には怒りが滲んでいる。今にも舌打ちをしそうだ。


「やっぱり……何かあったんじゃん」

「で、でも、私はほら、この通り大丈夫だから心配しなくても」

「「大丈夫じゃない(ですよ)!」」


 二人の勢いに驚いた裕子は目を見開き、口を閉じた。無言の時間が過ぎていく。

 全く引く様子がない二人に、裕子は諦め、渋々もう一度口を開いた。華恋や健太に誘導されるまま今まで隠してきたことを口にする。二人の想像通り、裕子は長い間嫌がらせを受け続けていた。しかも、それは今もなお続いている。


 詳しい内容までは裕子は口にしようとしなかったが、えげつないことをされているのは二人とも何となく感じ取れた。

 ひととおり話が終わると、健太は立ち上がり、スマホを片手に部屋を出て行く。裕子は健太を引き留めようと立ち上がろうとしたが、その腕を華恋が引いて止めた。

 驚いた顔をする裕子の向こうで、健太が軽く頭を下げるのがわかった。華恋も無言で頷き返した。


 途方に暮れながら座りなおした裕子の手を握ったまま華恋も身を寄せる。裕子が額にもう片方の手を当て、溜息を吐く。


「あーあ……言うつもりなかったのに」

「すみません。無理矢理言わせてしまって」

「いや、華恋ちゃんは悪くないのよっ」

「でも! 私も健太さんも後悔はしていないですよ」


 真っすぐに裕子の目を見つめて言い切った華恋に、裕子は言葉を呑み込み、眉を下げて微笑んだ。


「ありがとう」

「いえ」


 華恋は一仕事終えた気分で裕子の手を離し、ふーっと息を吐く。裕子もさすがにもう健太を止めようとはしないだろう。


「そういえば」


 と裕子が零した。華恋は首を傾げる。


「英治って最近何かあった?」

「え?」


 突然の質問に今度は華恋が固まる。


「この前英治に会った時、なんか様子がおかしかったから」

「森さんが……」


 それについてはむしろ華恋の方がしりたいくらいなのだが……


「わからないですけど、でも……多分私が何かしたんだと思います」


 語尾が震える。


「華恋ちゃんが? まさか」

「だって、私、最近森さんから避けられているんです」

「英治が? 華恋ちゃんを避けてる?」


 驚いたように目を瞬かせる裕子に華恋はコクリと頷き返した。どう考えても避けられている。だって、今まではデスクが隣なのもあって、なんだかんだ毎日会話を交わしていた。それなのに、今は仕事関係以外では全く喋らない。しかも、休憩時間になると英治はどこかへと行ってしまう。


 今まで心の中で引っかかっていたことを改めて口に出したら実感してしまった。ポロポロと勝手に目から涙が零れ落ちる。

 裕子が慌てて華恋の名前を呼ぶ。タイミングよく健太が戻ってきた。


「何、裕ちゃん、渡辺ちゃんいじめたの?」

「わ、私じゃないわよ! 泣かしたのは英治よ!」

「英治が? え、どういうこと?」


 華恋が必死に涙を止めている横で小声で裕子が健太に説明する。健太は「なるほどねえ」と呟いた後、華恋の名を呼んだ。華恋が顔を上げる。


「それってあの記事がでてから?」

「そう、ですね」

「ってことは、英治が勝手に勘違いして拗らせちゃってるって感じかー……」

「私もまさかとは思っていたんですけど……本当に誤解されちゃってるんですかね。どうしよう……早く誤解を解かないと。健太さんや裕子さんにも迷惑をかけちゃうっ」


 華恋が狼狽えると、慌てて健太は違う違うと手を振った。


「さすがに俺達の仲を勘違いはしていないと思うよ。俺がいかに裕ちゃんに惚れてるかっていうのは英治もよく知っているし。そうじゃなくて、なんというか……英治は……あー……渡辺ちゃんが好きなのは俺だと勘違いしてるんじゃないかな。それで、顔を合わせるのが気まずいというか」

「え? そんなまさか……」


「そんなことあるわけない」と続けようとして言葉が消えた。ありえる……かもしれない。

 元々英治は華恋が『伊藤健太』のファンだったことを知っている人だ。もし、華恋がガチ恋勢で今も『伊藤健太』に恋をしているんだと勘違いされていたとしたら……。


 確かに、以前は華恋も自分の気持ちを恋だと勘違いしていた。でも、今は違う。それに、あの頃の自分と区切りをつける為に髪もばっさり切って……ふと裕子に目がいく。

 心臓が大きく音を立てた。


 裕子のヘアスタイルはショートだ。

『伊藤健太』の好きなタイプのロングヘアにしていた華恋。でも、『伊藤健太』の奥さんになった裕子はショートヘアだった。そして、その事実を知った後、華恋は髪を切った。


 誤解されている可能性は充分ある……そのことに今気づいた。無意識にソファーから立ち上がる。


「どうしよう。はやく、誤解、解かなきゃ」


 衝動のまま部屋から飛び出そうとする華恋を健太が呼び止めた。


「一個、渡辺ちゃんに聞いておきたいことがあるんだけど」

「はい」

「渡辺ちゃんにとって英治ってどういう存在?」

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