第三章 徳妃様の瞳 13

「…………」


 長雲様は心底あきれたような顔で、私を見つめている。


「お前はだって、後宮で他に話し相手もいないんだろう?」


「まあいないといえば、いないですけど。毛毛と話せるし、ここにはおばあちゃんが作ったお人形もたくさんいるので、大丈夫です」


「俺のことも、人形だとでも思えばいい」


「そうは言っても、そうも思えませんので……。それに、お仕事やお役人様同士のお付き合いも、おありでしょう」


 段々わかってきたことだが、どうやら李家というのは宮廷貴族の中でも良い家柄のようなのだ。そして長雲様は李家の長男であり、自然な流れでいけば李家の次期当主になられるお方らしい。


 なのに必要最低限の宴会にしか出席せず、手柄をたてようという意欲も見せず、女にも遊びにも興味を示さずに死んだ目で坦々たんと仕事をこなしては姿を消すため、李家の若仙人というあだ名で呼ばれている……。


 と、数日前に食堂で女官たちがうわさばなしをしていた。長雲様は宮廷では相当な変わり者として知られている様子である。


「今の俺にとってはお前と後宮の治安を維持することが最重要任務なのだから、ここにいることはとても有意義なことなんだよ」


「そうでしょうか……。出世に影響されるのでは……」


「俺は出世には興味がない」


 長雲様は暗い顔を一層暗くする。


「そ、それはまた、なんで……」


 すると長雲様が書物を見つめたまま言った。


「俺には叔父がいたんだ」


「へ、へえ」


「とても優秀な人だった。俺が幼かった頃、叔父が俺に学問を教えてくれた。文官には上官のごきげんとりをして出世する者が多いが、叔父は違った。その能力を誰もが認めざるを得ず、文官の人事を取りまとめる吏部尚書にまで出世した」


 長雲様の霊気が珍しく乱れている。あたたかな感情と人を憎む気持ちが入り混じる。


「長雲様は、その方がお好きだったのですね」


「そうだな。俺は叔父のことをこの世で最も尊敬していた」


「はい」


「だが、叔父は毒殺されたのだ。出世したことを妬まれて」


「…………」


 長雲様の虚ろな瞳に、ほんの一瞬炎がともった。


「誰が叔父を毒殺したのかはほとんど明白だった。だがけいがいくら調べても証拠は出ず、その者は今も宮廷でそれなりの役職を得ている」


「そんな」


 権力争いのために親類を殺され、それでも宮廷の狭い人間関係の中で生きていかなければならないなんて、想像を絶するつらさだ。


「俺は生まれてこのかた、宮廷でそんなことばかり起こるのを目にし続けてきた。だから正直に言って、特段出世しようとも考えていない」


「そう、ですか」


「ああ。能力の秀でたものは、ここでは潰されてしまうのだからな……。だが、俺はお前の能力が秀でていると知っていてここに招き入れたのだ。せめてお前がここで無事に過ごすことには、責任を持ちたい」


「それはどうも……ありがとうございます」


「礼を言われるようなことではない。俺の仕事だ」


 そう答えると徐々に、長雲様から泉のように湧き出していた感情の霊気がスーッと薄まっていった。

 そしてそのまま、伝奇小説を読むことに没頭し始めてしまったようだった。


 ──今私は、長雲様にとってすごく大切なお話を聞かせていただいたのだ。滅多に自分の気持ちを表に出さない、このお方から。


 長雲様の横顔を見つめながら考える。


 私は、人間と関わる練習をした方がいいと思う。浄眼を持っていたって、人と関わりながら生きていくことはできるだろう。

 せめて長雲様とくらい、同じ部屋にいられるようにしたほうがいい。きっとそうだ。これは訓練なのだと思って頑張ろう。


 私は自分にそう言い聞かせながら茶を飲み干し……ふと、猫のお面を外した。


 外に出るときにはやむを得ずつけているが、作業中には邪魔になる。

 それに殻を破って正直な自分のおもいを語ってくださった長雲様の前で、自分ばかりお面で顔を隠して接するというのも、不誠実なことのように感じた。


「あれ、お前……」


 私がお面を外したことに気づいた長雲様が、驚いて書物を床に落とした。


「大丈夫そうだと思って」


 そう言いつつも、本当に大丈夫でいられる自分に、私自身が誰よりも驚いていたのだった。

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