第三章 徳妃様の瞳 4

 麗冰……? どこかで聞いたような……。


 そうか、確か前に食堂で、女官たちにうわさばなしをされていた宮妓の名前だ。

 彼女が麗冰だったのか。


「聞こえなかったの? お面を外せと言ったのよ。手で押さえていては外せないでしょ!」


 彼女の中から湧き出すおびえや怒りの霊気に飲み込まれそうになりながら、必死に抵抗する。


「うう……」


 怖い! それに腕の力が強すぎる!

 で、でも私だって、幼い頃から土を掘ったりねたりしてきたもの! 腕力では負けない!


「ぐぐぐ……」


「ちょ、いい加減手を放しなさいよ!」


「む……り」


「放せって言ってんでしょ!」


 とその時、背後から声がかかった。


「お前たち、何をしているのだ。騒がしい」


 顔を上げた麗冰が、ハッと息をのむ。そしてすぐに私から離れて後ずさり、地面に膝をついて頭を下げた。


とく様、お見苦しいところをお見せして申し訳ございません!」


 なにがなんだかわからないまま、後ろを振り向く。

 そして私も、思わず息をのんだ。


 ──長老様の部屋に飾られていたお人形みたいに、美しいお妃様!


 すらりとした長身の体を強調するように、肩から垂れるはくと大袖のしゃぎぬ。胸高のちょうくんには見事な金糸のしゅうが施されている。高く盛って結われた髪には花やちょうの形を模した冠をつけ、そこから透けるような薄絹のめんしゃが垂れ、顔全体を覆っているのが神秘的だ。白く長い首には重たげなすいの首飾り。


 人間離れしたそのお姿は神々しくさえあり、思わずぼーっとれてしまう。


 彼女は幾人かの女官たちに囲まれていて、そのうち一人が前に進み出て私たちをにらみつけている。どうやら彼女に私たちは叱られてしまったようだ。

 いけない、と気づいてすぐに膝をつき、頭を下げる。


「魏徳妃様の住まう白龍宮の前で、取っ組み合いのけんですか。はしたない」


 女官にそう一喝され、隣の麗冰が慌てた様子で言い訳を始める。


「申し訳ございません。この怪しげな者に声をかけたところ、名も名乗らず、お面を取ることも拒否したものですから、つい」


「この者は……」


 ゆっくりと誰かがこちらに歩み寄ってくるのと同時に、ふわりと柔らかな甘い芳香が漂った。装飾品をたくさん身に着けているからだろうか、一足歩くたびにシャランシャランと音が鳴る。


「顔を上げよ」


「……はい」


 小さな声で答えながら、おそるおそる顔を上げる。するとあろうことか魏徳妃様が、私に顔を近づけていた。


「そなた、名はなんという?」


「こ、こ、こ」


 ガクガク震えてまともに声が出てこない。しかしここで名を名乗ることもできなければ、正一品の徳妃に無礼を働いたとして処罰が下るかもしれない。

 頑張って声を振り絞るが、極度の緊張で喉がしまり、声が出てこない。


「ぅ、り、ん、う」

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