第三章 徳妃様の瞳

第三章 徳妃様の瞳 1

 えいあん城の皇宮内には、小さな茶室がある。新月楼とも呼ばれるこの茶室には、皇帝と近しい者が時折招かれ、ささやかな茶席が開かれる。皇帝の暮らしは、常に大国を治める緊張感と共にある。だがこの新月楼の茶室では、つかの間、その重責から解き放たれる。


 夕刻、ちょううんは陛下に招かれて新月楼を訪れた。日が沈み始め、あたりは薄暗いが、茶室の中は部屋の隅に置かれたしょくだいの温かい光に照らされている。

 卓上には酒に合いそうな珍味が並び、陛下は既に一人でうたげを始めていらっしゃった。


「長雲、でかしたぞ! あれはホンモノのじゅつ師だ。命を生み出すなんて、まるで神の仕業だ。今頃、礼部尚書はおびえているであろうな」


 陛下はごきげんな様子で、さかずきについだ酒をぐいっと飲み干す。ここは茶室ではあるが、特に茶以外のものを飲んではいけないという決まりなどない。陛下は大抵、ここでは紹興酒を飲まれる。一方付き合いの悪い長雲はいつも通り、陛下にのみ献上されている極上の茶葉を拝借し、自分で茶をれて飲み始めた。


 酒で人生を失敗したくない。それが長雲の考えだ。彼は生きていく上で、なるべく危険性を排除して生活をしていくことを信条としているようなところがある。

 その表情はいつも通り、覇気がなく幽鬼のようだ。


「私をれんてんに出向かせる時には、あまり期待されていなかったではないですか。昔の文献にあったから、ダメもとで行ってこいとかなんとか」


「それでも大事な任務だからこそお前に任せたのだ。余にとって、おさなじみのお前ほど信頼できる官吏などいない。お前は子供の頃から生真面目で誠実な奴だった。とっとと出世して左じょうしょうになれ。余はその日が来るのを待ち望んでおる」


「そんなことをすれば陛下の信頼が地に落ちますよ。やる気のない家の若仙人を左丞相にだなんて。……本当に、絶対におやめください」


 陰鬱な顔を近づけて念を押す長雲に、陛下はため息を漏らす。


「己の出世話を断るやつなんか、お前くらいなものだぞ……。まあ、左丞相は冗談だから安心するといい。それより今は、後宮の問題があるからな」


「証拠をつかまねば、後宮だけの問題では済みそうにありません」


「ああ、国家の安泰が脅かされるような事態になりかねん。そもそも先代の無駄遣いがたたって、りゅうせいこくの財政状況はあまり芳しくないのだ。それに官吏たちの間で賄賂が横行している件もある。余の代で必ず立て直し、より良い世の中にしていかねばならぬ。まずは諸悪の根源を絶たねばな」


「はい」


 相変わらずの無表情で、長雲はうなずいた。大国を治めるみかどを前にして、こんなに愛想のない人間など彼くらいのものだ。それでも一向にかまわない様子で陛下は愉快そうに、珍味に手を伸ばし、盃に口をつける。


「まあ、あれだけのりょくを持つものが現れたのだから、あちらにも必ず動きがあるはずだ。敵の尻尾を掴むまでは、あの人形師をくれぐれも頼むぞ。命を狙われるようなことも、あるかもしれぬ」


「命を……」


 また一層、瞳の色を暗くした長雲の肩を、陛下はポンポン、と励ますようにたたいた。


「まあそう暗い顔をするな、長雲。あんなかわいらしい猫面美少女と一緒にいられるのだから、良いではないか」


「猫面美少女、ですか」


「ああ、そうだ……。あれはな、お面があるから、いい。想像をてるであろう? それにまだ、世間のことを何も知らない。純粋な性格が、仕草や声音にも表れている。その上、命を持つ人形をその手で生み出すのだからな。神秘的だ……」


「陛下には既にお美しいひんがたくさんおありなのですから、ややこしいことをするのはおやめくださいね」


 眉をひそめた長雲にそうくぎをさされると、陛下はいよいよ愉快げにニカッと笑った。


「わかっておる、わかっておる。余はあれの神がかった特別な力にも、その技術力にも、敬意の念を抱いておるのだ。妙な心配をするな!」


 ガハハハと笑いながら、陛下はまた酒をあおった。

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