第11話 ドームで僕と握手


「暇だァ…」




どちらともなくどこからともなく、空しい現実を的確に突いた一言が、狭く薄暗いアパートの中を無気力に転がった。




時は正午。生い茂る若葉も濃い緑に染められ、生気満ち溢れるそんな頃。五月雨が泣き止んだ翌日、太陽光に反射した車のボンネットに水滴が照り輝いている。外の世界を走る鉄の塊の群れ。街を歩く人々の目は満ち溢れた生気に充てられ、伸びた背筋で精いっぱいの見栄を張り、大手を振って街道に闊歩している。




「暇だね……」




「うん……」




そんな気力あふれる現代社会とは裏腹に、一日の退屈を嘆く金剛石の孤独な少女がここにひとり息をしている。同居人のよれよれシャツを寝巻代わりに、硬いフローリングの上に平然と寝転がる彼女。その傍ら、白目をむいた成人男性が小柄な少女に覆いかぶさるようにしていた。




「…………」




飽きる。嫌になる。持て余す。つまらなくなる。たったそれだけで、退屈は生あるものを簡単に腐らせる。それは精神に限った話ではない。肉体からその人生に至るまで、所在なさはじわじわと、されど確実に怠惰の根を張り巡らせていくのである。たった一度、されど一度浸食されてしまえば二度とは自分の意思を持って行動することは叶わない。殺人が癖になるように、無気力な現状を享受する日々は、来るかもしれない明日に濃い影を落としていくのだ。




「……何言っているかよく分からない、ちょっと大袈裟だし」




脳味噌が溶け出して垂れ流しになる思考。空っぽになっていく欲求、しかしつれづれなるままに行動して成功する例なんてたかが知れている。そしてそれは僕自身も決して例外ではない。行きたい場所もやりたいこともなく、しなければならないことだけが積み重なる現実に、自由意思による欲望はすっかり気勢が削がれてしまっていた。このままでは遅かれ早かれ、今日も何にもない素晴らしい一日の幕開けである。




「……遊園地とか行きたい」




だからこそ、それはまさしく鶴の一声であった。僕と同じように思考を垂れ流す彼女。その薄い唇が紡いだのはスケールはともかく、確かな欲望の産声であった。




「いいよ」




「え」




「行こうか、遊園地」




かくいうわけで、相成った今日この頃のお話である。












「ミカミちゃん、着いたよ」




「……たどたどしい運転だったね」




「でも免許ゴールドだよ?」




「普段運転しないからでしょ」




「ばれちったか」




あれよあれよという間に着替えを終え、急遽親友から借りてきたピュアレッドの軽ワゴンを公道に走らせる。助手席に乗った彼女にカーナビとラジオの操作権を譲渡すると、聞きなじみのあるシティポップが中心のフィルターを通して空気を震わせた。




駐車場に車を止め、足のつかない彼女を抱えてゆっくりと地面に降ろす。営業スマイルを浮かべる店員にそれ相応の金額を支払い、花柄の装飾を施された受付を通り過ぎて休日の人混みの波を掻き分けていく。ふと後ろを振り向くと、半歩遅れて僕の後をついてくる彼女。そんな様子を見かね、僕は立て板の釘のようにその場で踏みとどまる。




「……ん」




互いのぬくもりを共有しながら、彼女とはぐれないよう、触れる小さな左手の感触を確かめながら進んでいく。しばらくの雑談を交え、歩幅と視線を合わせながら足を前へと動かしていくと、緑のアーチが人々を歓迎するかのように聳え立っているのが視界の中心から広がってきた。




「本当に来るなんて思ってなかったのに……」




受付で貰った橙のリストバンドを腕に巻く彼女。じっとりと汗をかき、小さな水滴となった汗が合成された樹皮に押し出されて流れ出す。やや困惑しながらも、周囲を忙しなくきょろきょろと見渡し、間近で稼働する遊具達に興味津々といった様子を見せている隣の少女。そんな彼女から垣間見える、好奇心旺盛な子供らしい一面。そこまでうかつで露骨な反応をするのならば、こちらとしてもサービスのし甲斐があるというものである。




「思い立ったが吉日、即行動がモットーだからね」




「今初めて知ったんだけど」




「そりゃたった今作ったからね」




「そっかぁ」




気の抜けた返事をする彼女。どうやら本当に浮足立っているらしい。花畑の中心でスキップのビートを刻むような夢見心地、心ここにあらず、といった様子である。




「……遊園地なんて、初めて来たかも」




量の目に宿る蒼の金剛石。艶めく長い睫毛が風に揺れ、薄っすらと口角を上げて微笑む彼女。届いた言の葉に胸が締め付けられる。いたいけな少女に大人の醜悪な肉欲をぶつけた記憶が古傷を抉り、五臓六腑が自業自得の阿鼻叫喚である。




「僕は小学生以来かなぁ」




「……先生の子供時代とか、想像もつかないや」




「つけなくて結構だよ」




軽くなった財布を懐に突っ込み、親友から借りた車のキーを手提げ鞄にしまい込む。学生の本分は勉強であるが、遊ぶことにだって十分意義はある。たまの休日くらい、サービスしてやらないでどうするのだという良心の葛藤からやって来た娯楽施設であったが、この分なら特段問題は無さそうである。




「ミカミちゃん、何から乗りたい?」




人混みを抜けたあとも一向に手を離す気の無い少女の名前を呼ぶ。程よく着古したデニムのジャケットを羽織る彼女は肩から掛けられた黒の紐をたどり、丸っこいバッグから綺麗な二つに折り畳まれた館内のパンフレットを意気揚々と広げた。




「あれがいいかな」




「……乗り物?」




彼女が指差す方向にはスリルを売り物にしたアトラクションも、走ることを封じられた馬のパレードも存在しなかった。その代わり、無償の愛想を振りまく狼モチーフのマスコットキャラクターが一匹、まじまじと僕たちを見つめていた。




「あ、近づいてきた」




直後、クラウチングスタートの姿勢から一気呵成に駆け出すマスコット。刻一刻と、一方的に着実に、こちらとの距離を詰めてくる。




「なになになになになになになに」




「大丈夫?先生」




値踏みするような視線、蛇に睨まれた蛙のような心情でフリーズする。せめて彼女だけは守ろうと、あばらの浮いた薄っぺらい体を強く抱きしめる。




「ひゃあッ!」




「…………」




かすれた悲鳴、それに追従する沈黙。恐る恐るといった様子で背面を振り返る。




「ヒェッ」




影の落ちた表情。発達した顎骨に頬骨の位置が高く吊り上がった目。孤独の王が、狼の皮を被ってこちらを見つめていた。




直線十センチメートルの対面、半強制的なシェイクハンド。着ぐるみ越しに感じる木の幹のように太い五本の指に掴まれ、可愛らしいガワからは考えられない程の膂力であれよあれよと、見知らぬ場所へと引き摺られていく。




「うわわわわわ」




抵抗しようにも踵がブレーキの役割を果たさないことに絶望し、スニーカーの靴底が削れていく感覚を嘆く。緊縛状態の体はレンガのタイルが敷き詰められた赤黒い地べたに投げ出され、やっとのことで釈放された。




「ここどこ……」




「先生、あれ」




理解しがたい現状に打ちひしがれる成人男性。そんな僕の肩を優しくたたき、面を上げるように指図する彼女。




「……フォトスポット?」




眼前に広がっていたのは監獄でも拷問用の地下室でもなく、終始仲睦まじげにポージングする瓶底眼鏡の少年と金髪ロングの少女の姿であった。天然の海を背景に、二次元時空のキャラクター達が多種多様なポージングで固まっている。




「私も、やりたいかな」




「じゃあ、僕が写真撮るから……」




息も絶え絶え、しかし三上沙耶の保護者としての責任を果たそうと、大きなレンズの割には画質の悪いスマートフォンを取り出す。二人組が去ったのち腰をかがめ、相手と肩を並べる彼女をくっきりとフレームに収めた。




「違うでしょ、先生はこっち」




「え」




いつの間にやら背後に迫っていた、狼のマスコットキャラクターの片割れ。気付けば時既に遅く、カメラ機能を起動したままの状態でケータイを強奪され、そのまま悪態をつくように画角へと背中を蹴り飛ばされる。どうやら逃げられやしないらしい。




「………じゃあ、お願いします」




唐突なフラッシュ。何故か僕を中心に、羽交い締めに近い形で着ぐるみとハイチーズ。何時の間にか別のカメラを構えていたキャストから、なけなしの五百円玉で現像された写真を買い取る。哀愁と獣臭漂うマスコットキャラクターのジッパーを視線でなぞり、その毛むくじゃらの背中を見送った。受け取る羽目になったスナップをまるで慈しむように抱える彼女を見ていると、どんな理不尽も全てが些事に思えてくるのだから不思議なものである。




「商魂たくましいマスコットだったね」




バッグから取り出したパンフレットを絶賛トリップ中の少女に手渡す。限りなくオブラートに包まれた抗議、それを意に介さず彼女は小冊子を広げ、一部分に指差した。




「ここのキャラクター、公式設定で気性が荒いって書いてある」




「……設定遵守なんだ」




それはそれ、これはこれである。なぜ夢の国に来てまで暴力沙汰に巻き込まれなければならないのか理解に苦しむ。




「大切にするね、先生」




大袈裟にはにかみながら、しげしげと手元のスリーショットを眺める彼女。その笑顔だけでおつりが返ってくるくらいである。












それから適当な場所で昼食をとり、大本命であるアトラクションを満喫することと相成った。


コーヒーカップやらゴーカートやら、季節外れのお化け屋敷まで、時間の許す限りその全てを網羅した。普段よりテンションの高い彼女に振り回され、ボールプールでは体力を消費し、


ヒーローショーでは彼女ではなく僕が拐われ、ジェットコースターのレールに頭をぶつけ、意識の靄が晴れたころには、彼女の腿を何時の間にか枕代わりにしていてベンチに寝かされていた。




「お疲れ様、先生」




「……おはようござましゅ」




時刻は夕暮れ。物寂しさに別れを告げ、帰路について手を洗う頃。黄昏の赤が色濃い影を作り、テーマパークを一面の黒に染め上げている。ざわめく人の波はすっかり鳴りを潜め、僕らを覆い隠す支柱の影法師だけが二人分の日陰を見つめている。




「先生、年甲斐もなくはしゃいでいたよね」




「無礼講ってやつだから、多分」




「最初は乗り気じゃ無かったでしょ」




「うん」




「いつもより素直だね」




「そう?」




「そう」




心地よい会話を切り上げ、不定形の台座から半身を起こす。限りなく零に近い距離、依然として温もりが残る腿に名残惜しさを感じながらも、保護者としての役割を全うしようと二人掛けのベンチから腰を上げる。




「帰ろうか、ミカミちゃん」




「……ん」




「……また、来れるといいね」




黙って彼女の手を取る。僕の後頭部の温もりが移ったのか、掌は妙に熱かった。









帰りの車内、財布を館内に置き去りにしたことに気づいたことを帳消しにできる位には、充実した一日であった。尚、財布は後日、マスコットのステッカーと共に郵送で送られてきた。

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