第5話 始動と指導


中学校。


それは小学校を卒業し、義務教育の終わりを迎える場所。初めての定期テスト、クオリティの上がった修学旅行等の学校行事。生徒それぞれが様々な手段で己の可能性を伸ばし、信じ、吟味し、夢に向かってテイクオフするための飛行場。初戦は通過点に過ぎず、されど若人の貴重な三年間を費やす学び舎である。




(………頭が痛い)




そんな職場で、未成年に手を出した極悪人が机に突っ伏して倒れていた。




「ゔぃッ」




「お疲れさん」




背後からひんやりとしたコーヒー缶を首元に押し付けられる。濁音混じりの汚い呻き声にご満悦のようで、今生の親友はげらげら下品に高笑いしていた。




「……瑞樹」




「そっちの調子はどうよ」




「たった今ドン底に突き落とされたよ」




「じゃあこれ以上悪い事にはなんねぇえな」




感謝しろよ、と図に乗ったジャージ男からつめた〜いブラックコーヒーを受け取り、タブを押し上げる。




職員室のデスクに置かれたインスタントのスープ缶の呑み口、もうもうと立ち上がる湯気を尻目にコーヒーを嗜み、弄っていたPCを閉じ、椅子を回転させる。




「―――しっかし、最近はコンプラやらなんやらが厳しくなってよォ」




「毎朝校門前で竹刀構えてたらそりゃそうだろ」




「こないだ校長直々に廃刀令されちまった」




「おめでとう」




「嬉しかねぇよ」




大ぶりで空っぽの手のひら、やれやれといった態度を一貫して崩さない体育教師。学生時代からの友人であり、現在進行系で同業者の肩を叩く。トレードマークであるビビッドカラーの赤いジャージに、慰め代わりの水滴を擦り付けた。




それから暫く事務的な会話と個人的な会話を交互に織り交ぜ、言葉のキャッチボールを続ける。自称ジャージが世界で一番似合う男であるコイツ、多々良瑞樹は生徒間で比較的人気の高い教師である。その理由は生来の活発さと陽気さからも滲み出しているのか、ちょくちょく教室や外部でも生徒達と定期的に談笑している様子が見受けられる。




「生徒と一緒になってカブトムシ獲りに行く教師とか聞いたことねぇぞ」




「………なぁ悟」




「なんだ?」




「……お前、風俗でも行ったか?」




迅雷風烈。




静寂の宿に鍵が掛かるように、職員室内の団欒ムードが一転、極寒の地へと変貌した。




「………一切事実無根だが、急にどうした」




やましいことは持ち合わせているが、説明のしようの無い事実である。嘘はついていない、嘘は。




「いや、今日はいつにも増してキレキレというか、なんというか」




「憶測で物事を語るんじゃない」




「いやはやすまん、最近疲れてるのかもな」




「まだ学校始まったばっかだぞ」




「ま、お前もキツくなったら直ぐ休めよ」




飲み干したコーヒー缶をアンダーでスローインする瑞樹。アルミとスチールの塊が腹をすかせたゴミ箱に正確に投下され、見事ストライクをもぎ取った。筋肉質な手をひらひら振って小さくなっていく彼の背中を見送り、それからPCに向き直る。すっかり冷めてしまったコーンスープに口をつけ、殻になったカフェインの容器を投げ捨てた。しかし、缶は満足げなゴミ箱に弾き出され、結局仕事机の上を占領するだけの置物と化してしまった。諦めてソフトを開き、再度作業に取り掛かる。




尚、職員室の僕に対する気不味い雰囲気は、それから一週間ほど元に戻ることは無かった。












ブラインドに隠れていた夕暮れの日差しが曇りガラスに突き刺さり、その鈍い輝きが霧散する。鍵のかかった窓、濡れて机の前足に干された雑巾。棚に控えめに飾られた観葉植物、透明の雫が弧を描いて土へ還って行く。




キンコンカンコン、学校のチャイムが鳴るのを皮切りにして号令を下す。




「起立」




襤褸の椅子を引き摺る音。




「気を付け」




俯く彼女が目に留まる。




「礼」




斜め四十五度の儀式を終えると、すかさず花瓶が落ちる様な仕草でストンと座る彼女。




「今日も一日お疲れ様でした」




首をもたげ、形だけの礼を取るのを確認する。




「なにか連絡は―――」




「はい」




「ミカミさん、どうぞ」 




茶番のような空気感の中、再び椅子の脚を引き摺る音と共に、少女に発言の機会が与えられる。やや赤みがかった外ハネの髪をチョイチョイ整えながら、普段授業では発することのない声を出した。




「晩御飯のリクエストはありますか?」




「……あまり、学校生活と関係の無い発言は控えてくださいね。肉じゃがで」




「分かりました、失礼します」




「……他に連絡のある方」




他の方などいない。あくまで形式上の進行である。




「はい」




「…ミカミさん、どうぞ」




「来週、何処か遊びに行きたいです」




「……分かりました、考えておきます」




「遊園地が良いです」




「はい……」




選択肢など僕には存在していないらしい。そも、既に胃袋を人質に握られているのだ。余計なことを言って彼女の機嫌を損ねてしまえば、食事のグレードダウンは免れない。最悪、味気ゼロの体内インゼリーの食生活に逆戻りだ。それだけは避けたい。新任時代、薄暗い部屋でパソコンをカタカタやっていた以前の生活水準に、食の温もりを知った今では戻れなくなってしまっていた。




「………他」




もはや返答も無く立ち上がる三つ編みガール。仏の顔も三度まで、これ以上の狼藉は許されない。失うものは大きいとしても、教師としてのプライドから、ここらで正論のひとつでもぶつけて気持ちよくなってやろうと口を開く。




「ま―――」




「このクラス、私が学級の仕事を全部請け負っているんですが、正直疲れます」




「あ」




僅かな疲労を発言の節々ににじませ、正当性のある主張をする彼女。すっかり失念していた―――幾ら周囲から指摘されないとはいえ、仕事自体はあるのだ。待遇を一切考えていない、無謀なワンオペ体勢である。




「さしずめ今の私は、厚生委員兼広報委員兼保健委員兼学習委員兼生活委員兼整備委員兼学級委員長、といった所でしょうか」




「そのまんまなんだ」




最近の若者は何でもかんでも略称を使うと思っていた。ズッ友とか。




「略のしようがないので。あと、偏見ですよ」




それもそうだ。反省を胸に、思考を再開する。




しかし失念していたとはいえ、彼女には悪いことをした。たとえクラスに一人しかいなくとも、彼女に厚生委員兼広報委員兼保健委員兼学習委員兼生活委員兼整備委員兼学級委員長というピカソもビックリな、とんでも役職オールスターズを押し付けてしまう形になっているのは事実であった。オーバーワークも甚だしい。彼女は今まで、その小さな背中に数え切れはすれども夥しい量の肩書と仕事を背負って学校生活を過ごしていたのだ。




「まぁいいんですけど」




いいんだ。




「やっぱり良くないですね」




「ですよね」




「本格的に仕事が始まる前に、なんとか対応をお願いします」




それだけ言って、やっとのことで席に座る彼女。クラスメイトが存在しないため、係決めという概念は存在していなかったのだ。気遣いに欠けていた、教師失格である。 




しかし、問題点が浮き彫りになっても直ぐに解決策は出現しない。以前までの周回では、委員の仕事を全て彼女がこなしていたため、彼女のハイスペックぶりを認識すると同時に自身の反省点が募るばかりである。ともかく、ここで解決出来るような問題では無かった。




「起立――――」












ホームルームを切り抜け、放課後。特筆して部活に所属している訳でもない彼女は終礼と同時に直帰。晩御飯の材料を調達してくると言い残して去って行ってしまった。今頃彼女は廃れた商店街の中で、アフターファイブを満喫しているに違いない。




彼女は部活動に入れない。所属したところで、部員からも顧問からも爪弾きにされるのが関の山である。異常なまでに彼女を除け者にしようとする原因不明の大きな力が働く限り、その理不尽な現状は変わらない。




彼女が半ば僕に依存していることは理解している。それ故、僕自身複雑な感情を抱いているとはいえ、手を出した引け目もあり彼女の行動に対して強く出られない面もある。しかし、この繰り返しを抜け出し、彼女を孤独から解放するまでは、その傍を離れるわけには行かないのだ。




(疲れた……)




いくら学校が始まったばかりとはいえ、心労の種がこうも増えるとたまったものではない。低下した思考速度、ふらつく足元。そして、ふとした瞬間に脳裏を上塗りして甦る、未成熟でやわらかい、なまの肉の感触。




「――――ッ」




浮かび上がった煩悩を飛び出した柱に頭ごとぶつけ、正気を取り戻す。物理的な衝撃から頭部を守るという髪の毛本来の役割は果たされなかった。じんじんと甚だしく痛む前額部を抑え、職員室のドアを開ける。




机の上に丁寧に積まれた春休みの課題。プリントにはクラスごと、カラーバリエーションが豊富な付箋が挟まっている。僅かな春休みの期間中に錆びきった脳味噌をフル回転させながら問題を解く教え子たち(該当一名)。その姿を想像で思い描き、赤ペンのキャップを外す。




「悟先生、お疲れ様です」




背後から、わくら葉が擦れ合うような掠れた声が聞こえた。外したキャップを再度鳴らし、椅子を回転させて立ち上がる。




「お疲れ様です、学年主任」




「座ったままで良かったんですけどねぇ、すみません」




物腰穏やかな姿勢で後頭部を擦る眼鏡の男性、首から下げられたネームプレートにはそれぞれ学年主任の称号と、「佐藤良和」の四文字が刻まれていた。にこやかに此方を見つめる佐藤先生。横一文字を体現したかのような目を一層細め、血色の悪い紫がかった唇を絞っている。




「………少々、お時間いただけますか?悟先生」




「お説教でしょうか?」




学年主任に呼び出される事態は、数ある無駄な繰り返しの中でも片手で表せる位の発生率であった。何かが変わっている、という事実に対しての興奮を理性で抑えつけ、目の前のイレギュラーをこなしていく。




「何か心当たりがおありで?」




「いえ、全く」




「そうですか……ではこちらへ」




疚しいことなど一切無いので、大人しく後ろをついていく。周囲の同僚は、主任に呼ばれた僕を一瞥したあと、感情の読み取れない表情を浮かべる親友と数名を残して各々の作業に戻っていった。












空き教室に招かれ、二人揃って窓際の手すりに体重をかける。年季と哀愁漂う主任の姿は、この場の雰囲気にやけにフィットしていた。




「それで何でしょうか、お話っていうのは」




先手必勝、話題を切り出した。ちなみに勝利条件は不明である。




「いえ、大したことでは無いのですが……」




落ち着き払った様子で言葉を続ける主任。




「………悟先生は、今年が初めて卒業生を担当する年でしたよね」




「――あ、はい。そうです」




時間を繰り返しているとはいえ、僕自身、未だ教師歴三年目のひよっこという肩書を背負っているということを忘れかけていた。腑抜けた反応には目もくれず、佐藤先生は話を続ける。




「………珍しいことですね。去年に続き、今年も生徒が一人しかいないクラスの担当という訳ですが―――」




やはり、彼もその状況に違和感を抱いていない。




他のクラスには三、四十人程の生徒がみっちりと詰まっているものの、僕が担当するクラスには彼女が一人だけ。それだというのに、珍しいという感想だけに収まってしまうのはやはり、現在の歪曲された現状を正しく認識できていないという確たる証拠であった。




「今の所、何か困ったことはありませんか?」




「……いえ、特には」




当たり障りのない返答。




「そうですか……それなら構わないのですが」




「わざわざお気遣いありがとう御座います」




「悟先生にとって、初めてのことばかりでしょう。頑張ってくださいね。それから、絶対に一人で抱え込まない事」




とても大事なことですよ、と付け加える主任。何度か交わした言葉の再放送、しかし痛み入る配慮に感謝をしない道理は無い。




「承知しました……」




「それはそれとして、先程職員室で噂になっていた件ですが―――」




「え"」




「あまり、羽目を外しすぎないようにして下さいね」




どうやら、弁明の余地は無いようだった。


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