第二話 さいかい
私とAは保育園の年中の頃に出会った。三歳で入園した私と四歳で入園した彼。当時の記憶は曖昧で、想い出すことなどないに等しいのだが、大きな確執もなくここまでこれたということは、お互い初めから気が合っていたのだと今になって思う。喧嘩や言い争いをした記憶もなかった。
そのまま小学校中学校と同じ学校に通うことになるのだが、やはり一番仲が深まったのは中学での三年間だろう。私たちの通う中学校は部活動が盛んであり、なかでも県内の有望選手を毎年輩出する男子バレーボール部は、小学校の体育の時間で教わらない分、新入生に人気があった。それまで、テレビやアニメの中でしか見たことのなかったスポーツを体験できるという好奇心もあり、体験入部期間に体育館を訪れた私は、ステージの上で体操着に着替えるAを見つけると、すぐさま駆け寄って
「バレー部に入るのか」
と驚きの声をかけた。
「ああ。他に入りたいところがないからね」
小学校の頃、校庭で友人たちとバスケットボールをしていた彼のことだから、てっきりバスケ部に入るとばかり思っていた。青い線の入った新品のシューズを履き、自信満々に準備運動を始めるAを眺め、私はまだボールに触れてもいないのに、バレー部への入部を強く心に決めた。彼と同じ部活なら、少なくとも仲間外れにされることはないだろうと感じたからである。
それからの三年間は地獄のような日々の連続だった。私たちは週六日、休むことなく汗を流し続け、朝から晩までひたすら飛んでくる
その間に、私とAとの距離は急速に縮まっていったのであった。日々の過酷な練習は序盤で大半の同級生を退部に追い込み、残った中で小学校から同じ者は彼しかいなかった。彼も私も生まれつき恵まれた身体つきをしていたわけではなく、運動神経も中の上といった程度で、顧問や先輩からはそれほど有望視されていなかったが、二年の秋から冬にかけてAの跳躍力は見違えるほど上がった。身長は私よりも低い百六十代後半なのに、引退する夏の公式戦までにはバスケットゴールのリングを掴めるまでに成長していた。
引退試合では下級生主体のチームに惜敗し、呆気なく私たちの三年間は幕を閉じたが、その比類ない跳躍力を見込まれたAは県外の強豪に推薦が決まり、かろうじで最後はユニフォームを貰えたが、最後まで試合に出場する機会のなかった私は、そのまま一般入試で県内の進学校に進み、バレーボールからかけ離れた高校生活を過ごしてきたのである。
そんな彼が唐突に寄こしたこの『根岸のドラゴン』というメッセージに、私は戸惑いつつも晴れやかな心持で返信を待っていた。やる気なく問題集を解いていると突然携帯が鳴り、慌てて手に取って耳に近づけると聞き覚えのある低い声が響く。「十一時、コンビニで待ってろ」とそれだけを告げて勝手に切ってしまう。勝手なやつだと思いながらも、私は久しぶりに聞いた彼の声で自然と胸が高鳴っていた。
Aに会えるという嬉々とした気分でコンビニへ来てみたものの、十一時になっても彼は姿を見せなかった。やはりちゃんとした詳細を聞いておくべきだったなと、少し後悔しながら私はしばらく携帯の画面を見つめていた。大通りを逸れた小道にあるここ一帯は都心から少し離れたベッドタウンで、夜中に出歩く人の姿は見えない。静まった住宅地はコンビニの明かりだけが懐中電灯のように輝いて、林立する賃貸マンションの窓から僅かに光が零れている以外は、とても大都市とは思えぬ夜の景観である。電柱からひっそりと降り注ぐ光が私の影を長く伸ばし、時折訪れる寒風がジャンパーの裾をなびかせた。
その時、向こうから人の歩いてくる気配がした。目を細めると若い男であることがわかる。ようやくやってきたかと、男の方へ顔を向け、闇に紛れた彼を安堵の表情で迎える。閑静な住宅地に、コンクリートを踏む乾いた音だけが徐々に近づいて、電灯に照らされた人影が視認できる距離まで近づくと、Aよりも低い上背の男がこちらに手を振っている。一瞬動揺したが、見覚えのある顔に光が差すと、私は「あ!」とそのまま駆け出して、懐かしい友人との再会に顔をほころばせた。
「久しぶりだなぁ」
「早く会いたかったよ」
Aよりも頭一つ低い上背に長い睫毛、若者で流行りの耳を出した短い髪型は、全体を薄茶色で覆い、前髪はワカメのようにパーマがかかっていた。中学時代、私とAと同じバレー部に所属していた少年Bの、その変わらない微笑みが目の前にあった。
「卒業式以来だから、三年ぶりか?いやぁ懐かしいねぇ」
「通学の時、けっこう頻繁に会っていたんだけどなぁ。上り線のホームで待っているところなんかしょっちゅう見たよ」
「なんで声かけなかったんだよ」
Bは言葉を返す代わりに短く苦笑した。半目になった瞼の、その上で長い睫毛がひくひくと動いていた。
「アイツはいつになったら来るんだよ。十五分くらいオレは待たされているぜ」
「少し遅れるらしいよ」
「Aから何か聞いてるのか?」
「いいや。ただ先にヤツがいるかもしれないから、
なるほどオレへの返信はなしってわけか。ため息をつきながら私は携帯を見つめるBの顔を覗き、優しい瞳の下でふっくらと盛り上がる頬を眺めた。中学時代、部活を一度も休むことなく、どんなに顧問から理不尽な言葉をはかれても、決して凛とした姿勢を崩さなかった彼の、その特徴的な頬から鼻にかけてのえくぼが、懐かし鮮やかな情景となって私の目の前にあった。
「高校はなにしてたんだよ。たしか工業高校だったろ」
「どうってことないさ。普通の高校だよ。まあまあ楽しかったかな」
「そんなこと言ったって工業だろ、工業。ほら、男ばっかって聞くし」
「そうだね。クラスに女子は三人しかいなかったよ。」
Bはまったく気にしていないと言った風に平然と答えた。
「それじゃあ男子校と変わらないじゃないか。嫌だねぇむさ苦しくってさあ」
「実際はもう少しいたんだけどね。オレのところは機械科だから少なかったんだ」
右手に携帯を握ったまま辺りを見渡す。Aがやってくる様子はない。
「機械科?なんだよそれ。ロボットでもつくるのかよ」
「そんな大きいものじゃないんだけど、まあそんなところかな。工場で使う部品とか機材とか。それを溶接したり加工したりして組み立てていくんだよ。他にも熱処理だったり、製図を描いたり、とにかく何でもする学科なんだ」
「めんどくさいところだな」
「少しね。でも、やってみると案外楽しいんだよ。中学の頃〈技術〉って教科があっただろ?あれの応用みたいな感じでさ」
「苦手だったなあ、移動教室の授業だろう。しょっちゅう居眠りして怒鳴られたよ」
「オレは座学なんかよりよっぽどそっちの方が合っていてね。機械とかコンピュータとかいじくるのって、なんだか面白くない?だから就職先も市内のパソコン工場にしたし」
Bの言葉に思わず振り返って凝視する。「オマエ、就職するのかよ」虚を突かれたような予想外の展開に「うん、そうだけど」と平然と答える彼の顔には余裕さえ見えた。
「マジで?」
「マジ」
Bが就職するとはまったく意外だった。中学の頃の彼はまさに
薄い電灯の光に照らされた彼の、その赤みがかった頭髪を何度も眺めているうちに、独り立ちしていく人間の覚悟のようなものがぼんやりと、その朗らかな性格の背後から浮かび上がってきて、私は慌てて彼から目を逸らした。
「意外だな、まさかオマエが就職するなんて」
「オレの周りはみんなもう就職だよ。大学や専門学校に行く子も何人かはいるけどさ、だいたいそういうやつって最初から頭が良かったり意欲的だったりで。オレはその両方ともないからさ、残された道が就職しかなかったんだよ」
「怖くないのかよ、卒業してすぐ社会人って。オレだったらすぐ嫌になっちゃうな。スーツ着て朝早くから家出てさあ、それで六時くらいまで仕事して、やっと帰れると思ったら上司に誘われて、結局十時くらいまで飲んで家に帰って寝るんだろ?年末年始とお盆を除けば休みは土日しかないし、残業だってバカにならないだろう。そんな生活を一生続けていくことに不安は感じないのか」
苦笑して下を向くBを見つめながら私はさらに捲し立てた。
「考えてみろよ。オレたちはまだガキ、子どもなんだぜ。法律では十八から成人ってことになっているけど、酒もタバコもギャンブルも出来ない人間が一人前のオトナだなんて。そんなやつらがいっちょまえに社会人の
Bは弱ったなといった表情で苦笑し固まってしまった。当然である。すべて私の自分勝手な解釈の自己弁護だ。全ての人間が大学や専門学校に進むとは限らないし、高校を卒業するまでに思慮分別のあるオトナに成長している者も中にはいるのだ。けれど、そうはわかってながらも、私はこの胸に込み上げてくる不安と葛藤の渦に、締め付けられるような苦しさを感じていた。私は顔を前に戻して腕を組んだ。教育熱心な親の元に生まれ、二人の兄はそれぞれ有名大学へと進学していった。そんな家庭で育ってきた私にとって、卒業して直ぐに就職すると言ったBは、平凡ながらも自分の人生に向けて確かに進んでいこうとしている。その小さな後姿が私の目にどう映ったのだろう。志望校に合格できなかったという絶望に打ちひしがれ、無気力で自堕落な毎日を過ごしてきた私の目に、輝かしい未来を目前に控えたBの姿は、自ずと嫉妬の対象として映ったのではないだろうか。
「ごめんな。少し言い過ぎたよ」
「ううん大丈夫」
変わらぬ表情で笑みを浮かべるBに、私はしばらく目を合わせることができなかった。中学時代の面影を残して再会した彼の、その穏やかな性格から生まれる優しさが今の私の心に深く刺さった。小心で意気地のないように思われた彼が悠々と自分の上を超えていく。そんな情景が自然と浮かび上がり、私は強烈な恥ずかしさに襲われて顔を熱くするしかなかった。
その時、急にBが「あっ」と声を上げて遠くの方へ手を振った。背後からサンダルのぺたぺたという音が近づいていき、閑静な住宅を貫く低くかすれた声が、私とBの名前を呼んでいる。振り返って目を細めると、闇の奥からようやく主役の男が現れた。
「悪い、おそくなったなぁ」
酒焼けのひどいしわがれ声だった。薄い電灯に輪郭を縁どられながら現れたAは、申し訳なさを
「おいバカ、警察に見つかったらどうするんだよ」
「ここの見回りはもう少し後だよ」
「そういうこと言ってるんじゃねえよ」
周囲を気にしている間もAは悠長に煙を吐き続け、私の言葉など上の空といった表情で斜め前を向いていた。彼の口から昇る煙が、一本の白い糸になって真夜中の空気に際立つと、一瞬中学時代の、あのともに汗を流した青春がぼんやりと浮かび上がってきた。私は静かにタバコを吸うAを眺めながら、こいつはあの時から一向に変わっていないなと、妙に晴れやかな気分になっている自分に驚いて、思わずため息を漏らした。すると、彼の隣で無口で見守っていたBが興味ありげに
「オレにも一本吸わせてくれ」
と目を輝かせて言った。私は思わずぎょっとして再びBを眺めたが、彼は特別不思議でもないように箱から一本抜きとると、黙って私の前に差し出した。「オレはいいよ」と口では言ったものの、なぜだか好奇心が神経を刺激して、私を正常な思考から遠ざけていた。火をつける時、Aは怪訝な顔つきで「ほんとうに吸うのかよ」と苦笑いを私の前に浮かべた。
「オマエんち厳しいんだろ」
「まあね」
「非行少年か」
「今日はいいんだよ」
そう言って自ら火をつけて深く吸い込むと、生暖かい空気が喉を伝い肺に流れ、一瞬で視界がぼうっと白ける。体内を廻る煙が徐々に脳を締め付けて、
「なんだよ」
「なんだか、いいもんだね」
「ばか」
Bの無邪気な笑みが吐き出された煙によって白んでいく。その隣で器用に携帯を覗いているAの、手先に挟まったタバコは赤黒く明滅してしぼんでいた。
「もう子どもじゃないからなあ」
自然とこぼれ出たAの言葉が、三人の真ん中にポトリと落ち、深まっていく闇夜の底にゆっくりと沈んでいくように感じられた。
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