根岸のドラゴン(完全版)

なしごれん

第一章 根岸森林公園

第一話 はじまり



『根岸のドラゴンを見に行こう』

軽やかな通知音が耳元で響いていた。三月二十七日午後三時。斜めになった枕を端に寄せ、大きく背伸びをした私は手元の携帯を見やり、危うく素っ頓狂な声が出そうになった。

―Aからメッセージが届いている


 私はすぐさま飛び起きると、そのまま向かいのルームチェアにドカッと腰を下ろし、未だ寝ぼけて焦点の定まらぬ眼を二三度瞬しばたかせ、眼前で光を放ち続けている彼からのメッセージを驚きの面持ちで見つめた。

 Aとは私の近所に住んでいる友人のことである。彼とは保育園からの付き合で、地元の小中を共に過ごしてきたいわゆる幼馴染というやつである。卒業後は私が県内の進学校へ、彼は山梨の学校へとそれぞれ進み、その後はしばらく連絡をとることはなかったが、彼が三月の卒業を期にこちらへ戻ってきたということを風の噂で聞き、となり近所なのだからいつかは会えるだろうと余裕で構えていたところ、いつまで経っても彼がやってくる気配がなく、私は日が経つに連れ彼に会いたいと言う願望がイースト菌のように徐々に膨れ上がっていたのである。

 けれど卒業後は一度も顔を合わせず、年賀状の一枚も来た試しがなかっため、いきなりこちらから会いに行くのも恥ずかしく、私は落ち着かない心もちで今日まで過ごしてきたのであった。

 そのため私はこのAからのメッセージが単純に嬉しかった。何となくの気おくれから連絡をとることが躊躇ためらわれ、三年間何をしているのかもわからなかった彼が、唐突に寄こしたこの不可解なメッセージに、私は驚きと悦びの入り混じった複雑な感情で居てもたっても居られなかった。深く凭れたルームチェアから背を離し、のめり込むように机に携帯を置くと、眠気を押し込んだ身体で返信の文言を考える。

―久しぶり。今なにやってんの

 咄嗟に思い付いた言葉を打ち込んで、彼からの返信をまるで恋人のような面持ちで待ち続ける。寝起きの身体にようやく新鮮な空気が巡り、未だ視界の乱れる左目のやにを拭うようにしてふと窓へ眼をやると、夕暮れに近づいた穏やかな日差しが窓ガラスに散り、それと対照的な早春の寒風が、遠くのアパート横に屹立きつりつする広葉樹のこずえをふらりふらりと揺らしている。言葉にできぬ焦燥感が胸をうち、私は机上に視線を戻すと、隅に積まれた参考書の山をぼんやりと見つめた。

 あれから三週間が過ぎたのか、と私は独り言ちていた。三年間通い続けた高校の卒業式、私は居たたまれぬ気持ちで最後の記念写真を友人らとともに撮っていた。肩に腕をまわす男は東京の有名大学に進学が決まり、その向かいでにこやかな笑みを見せているメガネは医学部をトップで合格した生徒会長だ。私の周囲には、皆それぞれ輝かしい夢を持ち、遠くへ羽ばたいていこうという強い意志を持った者が大勢いた。光り輝く卒業証書を右手に掲げ、保護者や教員らと楽しそうに撮影を始める遅刻常習犯も、四月から営業の仕事で県外に出ていくのだと知人のひとりが言っていた。  

 学級委員の合図とともにシャッターが鳴らされ、クラスの者たちが次第に帰り支度を始める中、私は表情を強張らせていつまでもそこに立っていた。撮影はとっくに終わっているはずなのに、視界は光を受けたように未だ痺れている。私はあの写された一枚のフィルムのように、自分だけがいつまでも過去に取り残されて、見えない未来に向かってやみくもにもがき続けているのではないかと、そう漠然と感じた時に初めて、私は自分に残されているものがもう大学受験しかないのだと強く悟った。


―オレにはもう志望校合格しかない 


 その言葉は、高校三年間どの部活にも属さず、ただひたすらに国立大学合格を目標に掲げ、がむしゃらに走り続けてきた己の心の内であると同時に、遠い将来に対して明確な夢を持たぬまま、高校生活という青春を棒に振ってしまった悲痛の叫びに似た開き直りと言ってもよかった。私は不合格通知を木っ端みじんに破り捨て、机に舞った消しカスをゴミ箱へ叩き落とすと、重たい眼を擦りながら参考書へ向かっていくのだった。

 けれど卒業から三週間が経ち、世間では春休みに浮足立つ学生と、入社入学シーズンを心待ちにする者らの華やかな雰囲気が、私を勉強から遠ざけていた。昼夜逆転、意欲低下、退廃的な生活習慣は、ぼろぼろと私の学力を蝕み、机に向かう時間をじょじょに減らしていった。携帯を開けば、約束された将来を担う者たちが束の間の休息をとっている。インスタ、X、TikTok。さまざまな媒体が私を誘惑の渦へと巻き込んでいく。そんな和やかな日常からくる自分への劣等感が、勉強に対する情熱に結びつかず、他人を嘲ることに変わっていったのはいつの日からであろう。

 私は埃の溜まった参考書に重苦しい息を吹きかけて携帯に視線を戻した。送信履歴には、つい先ほどAと交わした会話が二行と、その上に三年前に送ったきりの彼へのエールをつづった言葉が短く添えられていた。

 その時ふと、私はAが送ったメッセを見返して、『根岸のドラゴン』という言葉が目に留まった。根岸のドラゴン―彼の言う〈根岸〉とは、私たちの住む区域から東側の丘を登った地域を示すことに間違いはないだろう。急こう配の坂道を十分ほど歩いた先にある、閑静な住居ひしめくそのエリアは、戦後アメリカが接収した歴史をもつ高級住宅街だ。接収されたと言っても、今ではそのほとんどの区域が解放され、当時のおもかげも薄れつつはあるが、それでもバリケードを施された一帯は「根岸住宅地区」と称されて、米軍の施設として国が取り締まっているという噂も聞いたことがあった。

〈根岸〉はいいとして、〈ドラゴン〉とはなんのことだろう。私は目を細くしてその四文字を眺めた。ドラゴン―通常なら、ドラゴンとは竜のことを指し、竜といえば日本昔ばなしに出てくるような角の生えた大きな生き物のことになるのだが……果たしてそんな生き物がこの世に存在するのだろうか。蛇のように長い胴体を持ち、空へ昇って行く伝説上の生き物―うん。間違いなくおかしい。

 私は中学時代における彼のひょうきんな性格を想い出し、ふざけているだけなのかと最初は思ったが、バレーボールのために県外へ進学し、厳しい寮生活を強いられ、泥臭く部活に励んできた彼が、久しぶりに連絡を取る相手にちょけてみせるはずがない。すると〈ドラゴン〉とは何かの隠語で、別の意味をはらんでいるのではないだろうか。野球でドラゴンズという名は聞くが、私たちの地元は専らベイスターズだし、それならば〈ドラゴン〉とは人名で、ドラゴンさんという人物が根岸に住んでいて、その人に関係しているのではないだろうか。もしくは〈ドラゴン〉とは何かの団体やチームの名で……

 イメージを頭の中で模索し、納得できる答えを見つけ出せずにいた私は、取りあえずAの言う『根岸のドラゴン』というものを見てみたいと興味が湧いてきて、そして三年間、一度も顔を見なかった彼の容貌を確かめてみたいという興奮も重なり、根岸のドラゴンを見に行こうと承諾の意思を固めたのであった。未だ返信の来そうにない携帯をベッドに放り投げ、何となく落ち着かない気持ちでイスから立ち上がると、空気を入れ替えるためにガラス窓を開けた。すると勢いよくカーテンがなびいて、肌を刺すような寒風が部屋中に流れると、私は慌てて肩をすぼめてその場に立ちすくんだ。もう三月も終わりだというのになんという冷たさだろう。春先とは思えぬ季節の横暴に辟易しながら、私は斜め前に流れる高速道路の頭上、沈みつつある太陽を雲の切れ目からぼんやり眺めた。オレンジ色の陽が街灯に沈み、青紫色になった頭上からわずかに星が降りてくる。そんな移り変わる時の流れを見ていると、私はなぜだか胸が締め付けられるような、不思議なノスタルジーが全身を襲って、振り返った先、棚の上に置かれた単語帳を急いでに取ると、頭に入りもしないのにパラパラと顔の前でそれをめくった。

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