或る専門学校のお話
長船 改
或る専門学校のお話
6月になり、レッスンは初のアテレコ実習に入った。
アテレコ実習とは、1つのアニメ台本を3回に渡って練習するカリキュラムで、生徒は2チームに分かれ、ひとりひとりに役が与えられる。
舞子は、心の内で秘かに興奮していた。なぜなら入学してからこれまでの2ヶ月、マイクの前に立った事なんて一度もなかったからだ。
レッスンでやった事と言えば、発声練習に滑舌練習。エチュードと呼ばれる感情表現の練習。筋トレ、ダンス。あとはグループを組んで短い台本を覚え、講師の前で披露するという舞台演劇の稽古ぐらいのものだった。
発声や滑舌練習はいいとしても、筋トレだとかダンスだとか舞台稽古だとか、そんなのが声優になるのに本当に必要なの……?と、舞子は正直疑問に思っていた。別に楽しくないというわけではなかったが、あまり気乗りしないのもまた事実だった。
そんな所にようやく訪れたアテレコ実習!
しかも舞子に与えられたのは主人公の親友役で、これは役表上では主人公の次に名前が書いてある重要な役だ。もちろん、かなりのセリフ量ではある。しかし舞子は、それだけマイクの前に立って練習が出来るんだと心が躍る思いだったのだ。
心躍ると言えば、舞子にとってもうひとつ嬉しい事があった。
主人公を演じる、住吉
舞子は摩耶に憧れていた。どんなレッスンでも見事にこなし、失敗した姿を見たことがない。たった一度だけあったダンスレッスンでさえ、先生が思わず褒めるくらいの腕前を披露していた。外見も綺麗で、でも派手過ぎず、上品で知的な大人の女性という印象である。田舎から出てきた舞子にしてみれば、摩耶はまさに目指すべき理想の人だったのだ。
そんな住吉摩耶と一緒にマイクの前で演技が出来る……!これが嬉しくないわけがなかった。
さて、アテレコ実習の第1回目である。
講師の新田先生から映像、台本の説明と録音ブースに入る際の注意を受けて、ついに舞子は人生初めて録音ブースへと足を踏み入れた。
床はふかふかの絨毯敷きである。それでもマイクがONになっているので、なるべく足音を立てないように、人とぶつからないように……。舞子はそろそろと、空いているスペースを探して身を収めた。
録音ブースの中は、独特の緊張感に包まれていた。誰もが自分の呼吸音に気を使い、台本をめくる音に気を使った。そしてアテレコが始まるのを、今か今かと待ちわびていた。もちろん、舞子もそのひとりである。
「はい、それじゃあ流しまーす。」
隣接する音響室から新田先生がマイクで告げた。
(来た――!)
舞子の心臓はドクンと高鳴った。あれだけ楽しみにしていたはずのアテレコ実習なのに、今では緊張で押し潰されそうだった。
やがて、目の前のモニターに鮮やかなアニメの映像が映し出された。それと同時に、画面上部のタイムコードも回り始める。
それを見た瞬間、舞子の頭の中は真っ白になってしまって――。
******
「……朝霧さん、ちょっといいかな?」
レッスンが終わり、更衣室で舞子がしょんぼりとしながら着替えていると、不意に背中から声を掛けられた。振り返ると、そこには住吉摩耶が立っていた。
「す、住吉さん……!? は、はい……。」
怒られる――。舞子はそう直感し、身を強張らせた。摩耶の顔を見る事も出来ない。しかしそんな舞子に、摩耶はニコッと笑ってこう言った。
「今夜もし時間あるなら、私の部屋で一緒にアテレコの練習しない?」
それはまさかの自主練のお誘いだった。ちなみに、二人は部屋こそ違うが同じ寮に住んでいる。
「え? れ、練習ですか……?」
舞子は困惑した様子で聞き返した。
初めてのアテレコ実習、舞子は自分のセリフがまったく言えなかった。いつの間にか自分の出番が来ていて、いつの間にか終わっていた。主人公を演じた摩耶とのシーンも、ただオロオロしていただけで、しまいには後ろに立っていた男子から「今セリフを言うんだよ」と言わんばかりに背中をつつかれたほどだ。
新田先生からは総評の時に「えーと、朝霧。なにしに来たんだオマエ」と名指しで辛辣な言葉を浴びせられてしまった。
摩耶にしたって、怒っているか、もしかしたら呆れているかもしれない。私は憧れの住吉さんに迷惑をかけてしまった……。舞子はそう考えていた。
「で、でも……私がいたら足手まといにしか……。」
すると、摩耶は優しげに首を振った。
「ううん。こういうのは、一人でやるよりも二人でやった方がいいと思うの。だから、一緒に練習しよう? ね?」
「あ、はい……それなら……。お、お願いします……!」
摩耶のおかげで、舞子は落ち込んでいた心が少し楽になった気がした。
その夜、舞子は摩耶の部屋で一緒にアテレコの練習に励んだ。映像を学校から借りる事は出来なかったので、レンタルショップで同じ回のDVDを借りて音を消すことで代用した。
摩耶はアテレコの経験があったようで、舞子に色々と教えてくれた。その説明はとても丁寧で分かりやすく、舞子は講師が新田先生ではなく摩耶だったら良かったのにと思った。
そして舞子にとって一番の驚きだったのが、摩耶と練習をしていて初めて演技を楽しいと感じた事だった。
勿論、これまでのレッスンだって楽しかった。ただそれは、みんなで集まってワイワイやる楽しさだった。部活をみんなで頑張るだとか、友達と旅行の計画を立てるだとか、そういう楽しさである。
しかし摩耶との練習で感じた楽しさは、文字通り“演技をする楽しさ”だった。
自分の表現が変わると摩耶の表現も変わる、するとさらに自分の表現も変わっていくのだ。その結果が正解かどうかはともかく、こんな事が演技をしていると起こるんだと、舞子は新鮮な感動で心がいっぱいだった。
そうして、夜はあっという間に更けていった。
練習が終わって部屋に戻ると、舞子はどっと疲れを感じた。なんとかシャワーは浴びたものの、髪の毛も乾かぬうちにベッドに倒れこみ、そのままぐっすりと眠ってしまったのだった。
******
翌日。アテレコ実習の2日目だ。
舞子はセリフを合わせるタイミングで多少のミスはあったが、最後まで台詞を言う事ができた。言わずもがな、摩耶はパーフェクトの出来である。
昨日、舞子に対して辛辣なコメントを残した新田先生は、舞子個人には何も言わなかった。ただその代わりに、クラス全体に対し「全然ダメ。素人。演技が出来ていない」と、またもや厳しいダメ出しをした。
舞子自身、演技がダメだった自覚はあった。声をあてるタイミングを間違った後、何とかリカバリーをしようと慌ててしまったのだ。間違えないようにしようと思えば思うほど、役は離れてゆく。それを舞子は痛感したのだった。
その日の午後、舞子たちの姿は学校近くの大きな公園にあった。レッスンが終わると、クラスで参加できる人間が集まって自主練をするのが定番の流れになっているのだ。なお、ここ最近の自主練の内容は、アテレコ実習と並行して取り組んでいる舞台台本の練習である。
「ねぇ、舞子ちゃん。次のアテレコ実習って、来週の水曜日だったかな?」
「えっと……ちょっと待って下さいね……。はい、そうです。水曜日ですね。」
公園のテーブルベンチに向かい合って座り、舞子と摩耶はコンビニ飯を広げていた。舞子がサラダうどん、摩耶はサンドイッチである。少し離れた所では、いつの間にご飯を食べ終えたのか、クラスの男子たちが自主練前の運動と称してボール遊びに興じている。時折、なにかのアニメのセリフらしき雄叫びが混ざる。
「じゃあ、それまで夜は一緒に練習しない? お互いにバイトのない日に、また私の部屋で。」
「わぁ、もちろんです!お願いします……!」
摩耶の申し出に、舞子は今度は目を輝かせて頷いた。
実を言えば、舞子は今日のレッスンで新田先生の発した「全然ダメ。素人。演技が出来ていない」というダメ出しに対して、多少の不満を持っていた。
それは自分に対しての事ではない。摩耶まで一緒くたにダメだとされた事に納得がいかなかったのだ。だけど、自分がもっとちゃんとしていたら、こんな風にはならなかったとも思った。
(今度は高評価を引き出してみせる……!)
舞子はがぜん、やる気になっていた。
それから3回目のアテレコ実習が始まるまでの間、二人は何度も摩耶の部屋で話し合い、練習を重ねた。
そのシーンにおいて、どうしてこのキャラクターはそう言ったんだろう。どう感じたんだろう、考えたんだろう。そしてその理由はなんだろう。自分のそれまでの人生のなにかが影響しているのか、それとも相手との関係性か?
いわゆる役作りといったものを今まであまり深く考えてこなかった舞子は、もっとエチュードや舞台稽古をしっかりやっておけば良かったと後悔するようになっていた。
そして、尊敬する摩耶ですら、自分の演技や声をあてるタイミングに納得が行かなくて頭を悩ませている。その姿を見て、私はもっと頑張らなきゃいけないんだと思うようになっていたのだった。
そうして1日、また1日と時は過ぎ……。
あくる週の水曜日。とうとう3回目のアテレコ実習の日がやってきた。
「この台本でやるのはこれが最後なんで、少しは前回と違うとこを見せてください。そうしたらこちらも退屈しないで済みますから。」
新田先生のその言葉に舞子はむかっ腹が立つ思いがした。しかし不満を見せているのがバレたら面倒だと思い、それでふと隣を見てみると、そこには摩耶が初めて見せる仏頂面があった。
(こ、これは、どう見てもイラっとしている……!)
少し驚くと同時に、変なおかしさがこみあげて来た。あぁこの人も私と同じ気持ちなんだ。そう思うと心の中でニヤニヤが止まらない。そうしている内、舞子は知らず知らず肩の力が抜けていったのだった。しかもどうやらちょうど良い具合にリラックスまで出来ていたようで、その状態のままアテレコに臨むことができてしまった。
そうして収録は終わった。手応えはバッチリで、舞子は充実の笑みを浮かべた。摩耶の方を見ると彼女もまた手応えを感じていたようで、嬉しそうに顔をほころばせて見せた。
録音ブースから教室に戻ると、前に座った男子が舞子の方を振り返り「1回目のアテレコの時がウソみたいだなお前」と言ってきた。あの時、後ろからタイミングを指示してくれた男子だった。舞子は声にならないような声でありがとうと答えた。なんだか無性に照れ臭かった。
やがてもう1チームの収録も終わり、新田先生の総評が始まった。
「えーと、総評なんですが。
はぁ……。てんでダメですね。面白くなかったです。」
その言葉に、舞子はぎょっとした。
少なくとも自分の中では、今回の出来は最高と言えるものだった。セリフを合わせるタイミングもバッチリだったし、演技だって。それが、てんでダメとは……?
舞子は、摩耶がどう思っているのか気になった。しかし収録前とは座る場所が変わってしまっていて、舞子の位置からでは彼女の背中しか見えなかった。
「特に、これは両チーム共になんですが、主役と、えーと、親友の最後の口げんかの所。二人の怒りや悲しみを表現して欲しかったのですが、それがまったく出来ていませんでした。」
そのシーンは摩耶と二人、最後の最後まで悩み苦しんで考え抜いた所である。納得が……納得がいかない……!
「これから一回だけ僕が手本を見せますのでよく聞いて勉強するように。えーと、カット195からっと……。では、やります。」
そう言うと、新田先生は台本を読み始めた。その演技に、舞子は愕然とした――。
******
「……摩耶さん、どう思いましたか?新田先生のお手本……。」
レッスンの終わり、ファミレスでオレンジジュースを前に、舞子は摩耶に問いかけた。この1週間の練習の中で、舞子は彼女のことを「摩耶さん」と呼ぶようになっていた。
「う、うーん……。」
摩耶は首を捻りながら、何とも答えづらそうにグラスの中の氷をストローでつっついている。
「あんまり上手く感じなかったっていうか……むしろ私たちのが全然良かったような……そんな気がしたんですけど……。」
舞子は呻くようにして言った。
レッスンが終わってもう1時間は経つ。終わった直後はカッカとしていた頭も、今ではだいぶ冷静さを取り戻しているし、少しずつ反省点も浮かんできている。だけどどう考えてもあのお手本が素晴らしいものだとは、舞子には思えなかったのだ。
渋面を浮かべる舞子とは対照的に、摩耶の方はと言えば、何か思う所があるのか困ったような苦笑いを浮かべるのみである。
「私も納得してるってわけじゃないんだけど……、でも、それでも一応あの人が今回のアテレコ実習の講師で、現場的には音響監督にあたるわけだし……。それに……」
「それに……なんですか?」
「……ううん。なんでもない。気にしたってしょうがない事だったわ。」
摩耶はそう言うと、明るく笑ってみせた。舞子はその笑顔が妙に引っかかったが、摩耶が席を立ってドリンクバーの方へ行ってしまったのでなんとなく追及する機会を逃してしまった。
その後、同じアテレコチームのメンバーから「反省会しない?」と連絡が来たので、二人は彼らと合流する事にした。反省会とは名ばかりの、遊びの集まりである。
二人の……というよりも摩耶の参加に、場は色めきだった。摩耶がこういう場に姿を見せるのは初めてだったからだ。
なぜ参加する気になったのか、舞子が不思議に思って聞いてみると、摩耶は「たまにはね」と言っておどけてみせたのだった。
その帰り――。
少しずつ落ちるのが遅くなってきた夕日に照らされながら、ふたりは肩を並べ、地元駅の商店街を抜けてゆく。
……ぶっちゃけて言えばね。
なんですか?
私たちの方が全然出来てたよ。新田先生より。
やっぱりそう思います!?
うん。だから私たちは、この調子でまたがんばっていけばいいと思うの。
そ、そうですよね!……うん、やる気出てきました!
よかった。あ、そういえば、明日からまた新しい舞台台本の練習ね。
あああ……またかぁ……。私、覚えるのダメなんですよね……。
大丈夫。50回も声に出して読めば、嫌でも覚えるから。
50回!?が、がんばります……。
ふふふっ。
或る専門学校のお話 長船 改 @kai_osafune
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます