甘い海
園田樹乃
二人の旅人
少年の住む村には海があった。
「えらく甘い海だな」
「確かに」
と、前日から村に滞在している旅の兄さんたちが笑う。
ジョセフとデニスと名乗った彼らは、少年の村で力仕事の手伝いをして、路銀を稼ごうとしていた。
ちょうど麦畑が収穫期を迎えており、二人は労働力として歓迎された。
初仕事だったこの日、予定の区画を刈り終えた彼らは村人たちとともに、村の外れに広がる“海”で汗を流す。そして顔を洗ったついでに、水を口に含んで……言ったのだ。
『甘い海だ』と。
「甘い……かな?」
デニスの隣で、掌にできたマメを冷やしていた
“甘い”というのは、果物や蜂蜜の味ではなかったか?
村の井戸ほど冷たくない海の水でも、一日中働いて渇いた身体には甘く感じたりするのだろうか?
「俺たちが渡って来た海の水は、飲みこむことができないほど塩辛いんだ」
「塩辛い海を……渡る? って、どういうこと?」
時折、村にはデニスたちのように季節働きで滞在する旅人がいる。その多くは巡礼者だったが、今までに少年は“塩辛い海”などというものを彼らから聞いたことがなかった。
「俺たちは船乗りだから、大きな大きな船に乗って何日も……時には何ヶ月も海の上を旅するんだ。ここに来るまでに九つの海と五つの大陸を越えてきた」
ジョセフが話してくれたのは、シンの想像を遥かに超えた、遠く広い世界だったけど。
「おいおい。九つの海は言い過ぎじゃねぇか?」
デニスが苦笑いを浮かべて、ジョセフの言葉に突っ込む。
「九つ、だろ?」
「いや、そんなに渡ってねぇって」
「いいか、まず初めが……」
そう言って二人は目で頷き合いながら、指折り数え始めた。
「だから、そこでデニスは数え漏れてるってば」
「そうか? だから……あれ?」
「三つめがほら、あの……だろ?」
所々聞き取れないような小声で確認した結果。
「悪い。数え間違えてたわ。八つの海と五つの大陸だ」
それでも、シンの理解を超える数が出て来た。
「二人は、そんな遠くから来たんだ……」
呟く少年の視線が、デニスに注がれる。
木綿の下着から覗く太腿を、三角を並べたような刺青がぐるりと取り巻いていた。
チラッとジョセフの足にも目をやったシンは、日焼けした肌の色だけを纏った長い足に、少しだけ安堵する。
ただ……ジョセフの髪はケイトウの花のような、とても珍しい赤色で。
彼らのルーツがはるか遠くであることの証のようだった。
麦の収穫が終わる頃。
村は数年に一度の閏の新月を迎えた。
この日、村人たちは早々に用事を済ませて、普段は使われていない戸口の鍵を落とす。
寝ている間に、海からやってきた“モノ”に攫われないように、と。
「シン。君は平気なのかい? そんな夜に出歩いて」
早めの夕食のあと。シンに誘われた旅人の二人は、寝床に借りている納屋を抜け出し海へと向かった。
少年の持つカンテラが頼りなく夜道を照らす。
「良いんだよ。僕は。他の子とは違うから」
ジョセフの問いに肩をすくめて答えたシンの肩に、デニスの分厚い掌が乗せられて。
そのまま、何度かポンポンと弾むと
「ガキが大人ぶってると、ケガすんぞ?」
苦味を含んだ声が頭上に落ちてきた。
「大人ぶってるわけじゃないけど……今までにも二回、外に出たけど平気だったし」
「三度目って……親は何も言わないのかい?」
「最初の時は叱られたけど。今夜は『戸締りするから、出るなら早く行け』って」
なるほど。だから彼らが夕食を食べ終わるまで、戸口に座って待っていたわけだ……と二人が顔を見合わせる。
「それに僕、二人が思っているほど子供じゃないよ。たぶん」
「まあ、身体は小さいが……十三か、四ってところじゃねぇの?」
デニスの手がシンの肩から頭へと移動して、そこでまた何度か跳ねる。
「そうだね。十歳より下ってことはないかな」
「あたり。僕、今年で十二なんだ」
カンテラに照らされたシンの顔に、驚きと喜びの色が浮かんだ。
「閏の新月に出歩くのが三度目ってことは、それなりの歳かな? って考えたんだよ。俺は」
一人で出歩くようになって五~七年は経っている計算になるはずだし……とジョセフが指を折りながら種明かしをすると
「オレは、麦畑で周りの大人たちが、お前には鎌を使わせてたのが理由だな」
デニスは、二人がここで暮らした日々の風景を挙げた。
その言葉に頷いたジョセフが更に
「それでいて、最後までマメはつぶれていない、と。鎌を使うのは今年が初めてじゃないよね?」
そう言って少年の空いている方の手を取ると、水ぶくれが並ぶ掌をそっと指先で撫でる。
「あと一息、で大人だろうけど。もう少しは子供でいてもいいんじゃない?」
「僕ね、生まれた時は普通の子よりも大きかったんだよ」
刈り入れの終わった畑沿いの道を歩きながら、シンは生い立ちを語りだした。
通常の二倍くらいの巨大児だったという彼は、寝返りも歩くのも……そして話し始めるのも他の子よりゆっくりだった。
そして、他の子の背が大人の拳二つ分ほど伸びる間に、少年は指二本分しか伸びなくて。体格の差はいつの間にか逆転してしまったらしい。
「父さんとか婆ちゃんとか、『ご飯を食べないからだ』って言うんだけど……食べたくないこともあるし」
と、少年が頬を膨らませる。
そんな表情が体格に見合った幼さ、と言えなくもない。
「僕、火の臭いが嫌いなんだよね。だから、焼いたり煮たりしたものは、食べたくないんだ」
「カンテラを持っていて大丈夫かい?」
「……あんまり大丈夫じゃない」
「じゃぁ、消していいよ。俺たちは夜目が効くから、星明かりで充分だし」
「シンのことは、オレが肩車でもしてやろうか?」
二人からの提案に少しだけ躊躇したあと。少年は、カンテラをジョセフに渡して、デニスの背に負ぶわれた。
灯の消えた夜道を、二人は昼間と変わらぬ歩調で歩く。
「ジョセフたちが生まれた所って、みんなそうやって夜でも周りが見えるの?」
デニスの広い背中から肩越しに、前を歩く赤毛を見ながら、シンが二人に尋ねる。
「いや、人による……かな? 俺とかすぐ上の兄さんとかは見えてるけど、父は見えてなかったはず。デニスのところは?」
「オレの母ちゃんは、見えてなかったな。日が暮れると戸口でよく蹴つまずいてた」
二人は、少年に問われるままに故郷に置いてきた家族について語った。
デニスの幼馴染がジョセフの兄さんだったとか、デニスの育ての父は彼に負けず劣らずの力持ちだったとか。
彼らが育った所では、生みの親と育ての親が別に居ることが珍しいことではなくて、互いに交流もしている……とか。
「僕の母さんも、本当の母さんじゃないんだよね」
少し眠気がさしてきたような声で、シンが呟いた。
「本当の母さんは、僕が生まれた時に死んじゃって。今の母さんは継母なんだ」
その言葉を聞いて無言で顔を見合わせた二人の表情は、デニスの背中に隠されて。
少年の目に入ることはなかった。
シンが眠気に負ける前に、三人は海へとたどり着いた。
満天の星を飲み込む様な暗い海が、足元に波を打ち寄せる。
「少し早かったかもしれないけど。あの赤い星、わかる?」
シルエットで浮かび上がる山の上方をシンが指さす。
「あの星が、真上にきたら……」
またしばらく時間がかかりそうだと、三人は波打ち際から少し離れた辺りで腰を下ろした。
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