水底に咲く花

えぞや真音

水底に咲く花

むかしむかし、遥かむかし。まだ地上に神様が降り立って間もないころのお話です。


小さな山の頂ちかく、美しい水の湧き出る泉のほとりに一柱の姫神様がお住まいになっておりました。下流の村々を潤す湧水が決して涸れぬよう見守ることが姫神様の役目です。


その湧水の周囲には、ササユリの群生がありました。

元々そこに咲いていたものが、姫神様の神気を受けて、いよいよ瑞々しく可憐に咲き誇るようになり、一度開いた花は百日経っても枯れないばかりか、花びらに付いた朝露さえもが芳香を放ち甘露のような味わいになるほどでした。


姫神様は、ササユリを愛で、湧水を守りながら穏やかに暮らしておりました。


ところがある日、その湧水の近くにひとりの若者が迷い込んできました。

若者は、山裾の村の住人でした。


道なき山道を抜けて、ふらふらとササユリ野原に出た若者を見つけた姫神様は、驚きのあまり声を失いました。が、男がひどく弱っている様子であることに気づくと、優しく声をかけました。

若者の方も、まさかこのような深い山奥に美しい姫神様がおわすとは思ってもいなかったので、恐ろしいやら有難いやらで、しどろもどろになりながらも、なんとか身の上を語って聞かせました。


聞けば、若者の年老いた母親が長患いで臥せっているとのこと。いくらかの蓄えを使って町の高名な医者に診てもらい、高価な薬を飲ませているが一向に良くなる気配がなく、途方にくれていたところ、母親が冷たい水が飲みたいというので、村の川よりも山中の源泉近くの水の方が冷たかろう、その冷たい水を飲ませてやったら、少しは病が癒えるかもしれぬと考えたというのです。


川伝いに、枝を払いながら、時には斜面に足を取られながら道なき道を上り続け、気が付いたらここにたどり着いていたと、若者は姫神様に話しました。


心の優しい姫神様は、竹筒に湧水を汲み、ササユリの花びらに付いた露を一滴、その中に落として若者に渡しました。


「これは、万病を癒す妙薬です。帰ったらすぐに母君に飲ませてさしあげて。ただしここは、本来人が入るべきではない神域です。この度は、あなたの母君を思う気持ちの強さがあなたをここに導いたのでしょう。ですが、もう二度と、ここへ来ようとは思わないでください。もしまた母君のお加減が悪くなるようであれば、村のササユリの花びらで川の水を汲み、それを飲ませて差し上げるだけでも十分な癒しになりますから、ご安心なさってください」


若者は、姫神様に何度もお礼を述べながら山を下りて行きました。


家に戻った若者が早速母親に竹筒の水を飲ませたところ、みるみる顔色が良くなり、あっという間に元気になりました。若者から話を聞いた母親は、姫神様のいるお山に向かって手を合わせて感謝し、それから家の中に小さな神棚をこしらえて、そこにササユリの花を供えてお祀りするようになりました。


一旦元気になった母親ですが、しばらくするとまた床に臥せる時間が長くなり、元気を失っていきました。そこで、姫神様に言われたようにササユリの花で川の水を汲んで母親に飲ませると、また母親に元気が戻りました。


若者が花で水を汲む頻度は徐々に増えていき、いつしかその姿が人の噂に上るようになりました。


大勢からあれやこれやと尋ねられ、若者はとうとう、姫神様の神域であったことを村の人たちに話してしまいました。


この頃になると、水が豊かで作物も良く育つこの村では、余った作物を他所の村や町に売りに行く者も増えていました。そうしてこの村の豊かさを聞きつけ、他所から移り住んでくる者もおり、村はどんどん大きくなっていました。人が増えれば、その中には病を得る人も出てきます。若者が母親に飲ませたという姫神様の妙薬が欲しいと願う者がいるのも当然のことです。


若者が姫神様に出会えたのは、その孝行心の強さ故。本来、姫神様がお住まいの辺りは、山の気脈と姫神様の神気によって自然に結界が張られる形となっており、人が入り込めるような場所ではありません。

しかし、村が大きくなるにつれて山の木がどんどん伐り出され、気脈に衰えがあったのでしょう。


一人、二人、二人、三人、と、姫神様の神域に男たちが入り込むようになりました。


それでも当初は、姫神様にも礼を尽くし許しを得て妙薬を分けていただいていたのですが、慣れというのは恐ろしいもので、姫神様へのご挨拶も次第にぞんざいになり、ササユリを踏み荒らすような輩も出るようになりました。


若者はそのような男たちの振る舞いを嗜め、大勢で山に登ることを止めようとしましたが、何を言っても、「どうせお前が妙薬を独り占めしようとしているのだろう」と言われ、かえって嫌がらせを受ける始末です。


山の気脈が衰えていたところに、愛するササユリが荒らされた悲しみもあって、姫神様の神気は急速に失われていきました。

もはや、神とは名ばかりで、村人たちの傍若無人な振る舞いを止めることはできません。


ある夜、姫神様は泣く泣く、天上にお帰りになってしまわれました。


次の朝、神域のササユリはすべて枯れ、湧水もぷつりと涸れてしまいました。


ほどなく、あれほど豊かだった下流の田畑は干上がり、村は作物の育たない痩せた土地になってしまいました。その時になってようやく自分たちの非を認めた男たちが姫神様に許しを請うために山に入りましたが、あの神域にたどり着くことは二度とありませんでした。


村人たちは一人、また一人とこの村を捨てていきました。

あるいは飢えで命を落とした者もいます。


そんな中、最初に姫神様に会った若者と母親だけは、貧しいながらもどうにか飢えることなく暮していくことができておりました。

家の神棚に祀ったササユリの花は不思議といつまでも枯れることなく、その花びらに付いた露を口に含むと、他に何も食べなくても飢えを感じることがなかったのです。


その後、母子二人でひっそりとしばらく暮らし、やがて母親が天寿を全うすると、髪に白いものが混じりもう若者という年齢ではなくなったその男は、以前姫神様から妙薬をいただいたときの竹筒の表面に、小刀でササユリの花を彫りつけました。

決して上手とは言えない細工でしたが、心を込めて彫ったその花は、姫神様を感じさせるような、柔らかく慈愛に満ちた姿となりました。


男は、その竹筒を持って再び山に登りました。

きっとこの竹筒がその場所に導いてくれるだろうと、確信めいた気持ちがありました。


果たして男は、かつて姫神様がお住まいになっていた、あの神域にたどり着きました。あれほど美しかったササユリ野原は見る影もなく、湧水の跡は涸れ果て無骨な岩肌がむき出しになっていました。


男はそこに竹筒を置き、姫神様に祈りました。


「姫神様には申し訳ないことをしてしまったというのに、私たち母子を今日までお助けくださって、ありがとうございます。 このようなものでは慰めにもならないかもしれませんが、どうぞお収めください」


男が両手を合わせ、そう言い終わると、ごおっという地響きが鳴り、岩の上で竹筒がカタカタ震え出しました。


驚く男の目の前で、涸れたはずの水が再び湧き出し、勢いをつけて下流へと流れ始めました。滾々と湧き出る水はやがて大きな流れとなって、かつての田畑や村の家々を飲み込んでいき、やがて青々とした水をたたえた美しい湖ができました。


そこにかつて豊かな村があったことを知る人は、今はもう誰もいません。

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