かりそめ主従関係
他家の呼び鈴を押す行為は大人になっても慣れない。たとえそれが愛する人の家であっても。
「はい」
ドアフォンから聞き慣れた彼の声がした。宅配便や訪問販売にも対応できるような事務的なものだ。モニターがないので来訪者の顔が判別つかない為だと推測する。私は勇気を振り絞り名を名乗る。声が震えていたのは真冬の夜中だからだろうか。
「かなえだけど。あのさ……」
「はぁ……二度とここに来んなよ。もうたくさんだ」
来訪者を認識した途端、ザラザラした彼の声が冷たく私を突き放す。
一時間前にLINEで何の脈絡もなく『別れよう』とメッセージが送られてきた。それから何度も返信したが未読のまま。もしかしてブロックされた? 居ても立っても居られなくなり彼の家を訪れた。
開口一番に自分を拒絶されても納得できない。できるはずがない。私はただ理由を尋ねたいだけなのだ。なるべく私は冷静を装い会話を引き延ばした。
「ちょっと待って! ちゃんと話し合おう? 私に悪いところがあるなら直すから!」
「お前、いちいち重いんだよ。俺達の関係は終わりなの。はい、さようなら」
プツッ
一方的に遮断された耳障りな音と共にこの恋は終わった。
・・・
「もう連休明けの朝から絶望よ。別れて半年経つっていうのに。あいつの声とか顔思い出しただけで虫唾が走るっていうかさぁ。これが悪夢ってやつ?」
「まぁまぁ。過程はどうあれそんなクズ男と別れて正解。その感情だってあっという間に忘れられるわよ」
「だよね! だけど初めて男と付き合ったトキメキと二年を返せー! って感じ。あー、話したら楽になったかも。さすが親友の
私が軽く拍手すると彼女はまんざらでもないようで、パソコンの画面越しにふんぞり返った。
由芽と私は高校からかれこれ八年の付き合いだ。お互い苦手な勉強を乗り越えて、それなりの青春を過ごしてきた。大学と就職先は別になったものの、頻繁に連絡を取り合い月に一度はリモート飲み会を開催している。しかし今回に限っては、私が『愚痴を聞いてほしい』と急遽予定をすり合わせたのだけど。
しばらく他愛もない雑談をして一瞬の間が空いた後、不意に由芽が真顔になったかと思うと神妙な面持ちで私に語りかけた。
「あのさ、今日かなえから誘ってくれて嬉しかったしすごく楽しかった。で、ついでみたいになっちゃって申し訳ないんだけども」
「え、どしたの」
「まぁ、些細な事よ」
彼女は照れと困惑を混ぜたような表情のまま両手で軽く膝を叩くと、決心したように口を開いた。
「もうすぐ中学の同窓会があるんだけど、そこに来る男子に……す、好きって言おうと思う」
「えーっ! ホントに!?」
「これ以上言わせないでよ! あー、顔熱っ!」
私が由芽と関わってきて告白されていた回数は数知れず。しかしその全てを断り続け『氷の由芽』とあだ名を付けられたほどだ。そんな過去を知っていると、恥ずかしそうに頬を染めている彼女がより可愛く見える。そうなると……
「もしかして今まで彼氏いなかったのって……」
「あいつの事が忘れられなかったから! ノリで好きでもない男と付き合っても仕方ないでしょ」
「由芽って義理堅いもんね。その同窓会っていつ?」
「んー、ちょっと待って」
私が日程を尋ねると由芽はパソコンの画面から離席した。どうやら壁掛けのカレンダーに書かれているスケジュールを確認する為だろう。十数秒後、彼女は右手にソーダ味のアイスを持ちながら戻って来た。
「八月十七日の土曜だった。今が七月十六日だから……一ヶ月後だね」
「なるほど。その日が由芽の戦いになるわけだ」
「大げさだなー。ただ呼び止めて言うだけよ。自己満足になるけど後悔したくないもん」
後悔……
アイスを一口かじりながら闘志を燃やす彼女を見て胸がジワリと冷たくなる。しかしこの感情を表情に出したくなくて取り繕う。
「向こうがフリーなら付き合えるといいね」
「そこまで考えてないけど。かなえも後悔しないように生きなさいよ?」
「……今のところ大丈夫。職場の人もみんないい人だし、親も結婚の事うるさく言わないし、そもそも恋愛はもう少し休みたいなーってさ。そんな事より、告白頑張って! 報告待ってる!」
この発言の後どうやって通話を終了したのか覚えていない。
私は親友に初めて嘘をついた。
・・・
由芽とビデオ通話して三日が経つ。ついてしまった嘘が脳内を巡り、自己嫌悪に苛まれている。仕事は上司の機嫌取りで疲弊の連続だし、親からは盆と正月実家に帰る度結婚を急かされるし、彼氏だってほしい。それに……こじれた性癖。
私はいわゆるМ体質だ。幼少の頃、実家にそういう本を盗み見たのが始まりだと思う。あとは元カレの存在。あいつは自分の気分で誘ってくる。私は男性経験が少ないせいで、それが男らしいと思い従っていたが何度抱かれても満たされる事はなかった。結局一方的に振られるまで疑問の答えはわからずじまい。
仕事帰りの電車でつり革を掴み揺られていると、六十代と思われる夫婦が座席に腰をおろし恋人つなぎをしていた。
微笑ましい……
私もいずれは旦那さんとあんな老後を……なんて皮算用してみる。まだ相手だっていないのに。
『後悔しないように生きなさいよ?』
由芽の言葉が繰り返される。そうだ、時間は有限。相手がいない事を悔いるより、むしろ相手がいない今だからこそできる事をやろう。気づくとずっと興味があった場所の最寄り駅を知らせるアナウンスが流れた。
本当に後悔しない?
そんな一瞬の迷いもホームに足を踏み入れた途端消え去っていた。
・・・
駅の改札を出ると外は暗くなっていた。金曜日のせいか構内を行き来するサラリーマンやOLは浮足立っているように見える。
ホームページにある地図を見ながらしばらく歩くと目的地に到着した。看板もなく一見するとどこにでもありそうな雑居ビルだ。本当に場所があっているのか半信半疑になっていると、一人の男性がビルに吸い込まれていった。スーツをはじめ、革靴、バッグ、腕時計の小物にいたるまで高級そうだ。一瞬視界に入っただけなのに見惚れてしまう。私はまるで魔法使いの呪術にかかったように自動ドアを潜り抜けた。
その場所は、ハプニングバー。
案内に従い受付まで歩を進めると、スタッフが会員証の提示を求めてきた。元カレと別れてすぐの頃、酒に酔った勢いで登録したが今の今まで忘れていたものだ。確認を終え自分が初めてだと伝えると、丁寧にシステムについて教えてくれた。無理に相手の要望に応えなくていい事、雰囲気を楽しむのも歓迎だという事、嫌だと思ったらスタッフに伝えてほしい事……他にもあったがだいたいこんな感じだ。
注文したジンジャーエールを受け取り周りを探索していると、入り口で出会った男性と再び遭遇した。薄暗い照明と相まって官能的な空気を纏う姿は、昔観たトレンディ映画の俳優のようだ。私の視線に気づいたのか男性はこちらを見てニコリと微笑んだ。
「こんばんは。初めてですか?」
「はい。どうも緊張しちゃって……」
「大丈夫ですよ。僕もそうでしたから」
彼はコノエと名乗った。バツイチ独身の四十歳で仕事終わりによく来るらしい。ニックネームで呼び合う事が多いそうだが私は本名を伝える事にした。軽く自己紹介すると、私はどうしてここに来たのかを話した。彼はとても聞き上手で、支離滅裂な話し方もかみ砕きながら嫌な顔せず包み込んでくれた。私の性癖の踏み込んだ話題になると、カウンセリングのようにしてほしい事とNG事項を質問された。その場限りの関係だと割り切り応答していくと、メモを取り出しそこにメールアドレスを書き出した。いわゆる捨てアドだ。
「また会いたくなったらここにメールしてください」
「え、あの……」
「それとも……この後がいい?」
低音の声で囁かれ私はこくりと頷くしかなかった。
あぁ、堕ちていく……
・・・
『こんにちは。次はいつ会えますか? 私はいつでも大丈夫です』
送信エラー
『こんばんは。会いたいです。連絡待っています』
送信エラー
二日後。
アドレスを何度も確かめて送ってもエラーばかりが返ってくる。もしかして削除してしまったのか……念の為バーにも何回か足を運んだが会えなかった。
確かに彼には『その場限りの関係でいい』と伝えた。でも目が合った瞬間から深みに嵌ってしまった。フルネームすら知らないし、唯一のつながりであるアドレスも意味をなさない。
「う……うぅ……」
自室のベッドに顔を埋め嗚咽をもらす。
もう一度キスして。もう一度触って。もう一度名前を呼んで。もう一度嘘でもいいから好きと言って。もう一度嘘でもいいから私で感じて。嘘でもいいから……
そうか……私が欲しかったのって『痛み』じゃなくて『愛』だったんだ……
人の体を交えないとわからないなんて私はバカだ。大バカだ。
やり場のない悲しさと悔しさは涙となって枕に吸い込まれていく。
プツッ
頭の片隅であの音が聞こえた気がした。
・・・
「同窓会の結果だけど……奥さんいるから気持ちには応えられないって」
「そっかぁ……」
「でもすごくスッキリした! あと向こうも『伝えてくれてありがとう』って言ってくれたの。それだけで報われたよ」
「うん、折り合いが付いたみたいでよかった」
あれから約ひと月の時が流れた。結局この間に起こった出来事は由芽に話していない。たくさん泣いて反省して吹っ切れたので不要だと判断したからだ。でも代わりに新たな目標を宣言する。
「あのさ、由芽を見習ってこっちも『悔いのない人生』を少しずつ進めていこうって決めたの。私、転職する。その為に資格の勉強を始めてて」
「それは思い切ったね! スキルアップとか?」
「実は、上司が面倒で……」
「かなえから職場の事聞いたの初めてかも。もっと聞かせて!」
まださらけ出すのは怖いけど嘘をつくのもやめた。これで過去を振り返らないで歩めるかな。
でも。
もしバッタリとあの人に会えたらその時は……
なんてね。
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