ヒトシズクアイ
「ねえ、大学を卒業したらお嫁さんにしてね。それでね、ずっとずっと二人で幸せになろうね」
「うん、俺、大学を卒業したら頑張っていい会社に入って、しっかり稼いで美弥子ちゃんを幸せにする。約束するよ」
「いいよそんなの。あたしはマサくんと一緒に居られたら幸せなんだから」
「そういうわけにはいかないよ。何だかんだとお金は必要だからね。もちろんそれ以外でも美弥子ちゃんを幸せにできるよう努力するのも忘れないよ」
「えへへ、ありがとうね、マサくん。あたしだってマサくんに頼ってばっかりじゃないいいお嫁さんになるよう頑張るからね。約束だよ」
「うん、約束だね。ずっとずっと、永遠になるくらいの……」
〇
またあの頃の夢を見た。何度も何度も、悪夢みたいに繰り返し見るあの頃の夢。
額にかいた汗を手の甲で拭うと、温かいわけでも冷たいわけでもない声が浴びせかけられた。
「あら、遅いお目覚めじゃない。しっかり眠れたの?」
優しくも厳しくもない平坦な態度。
それは当然の事であるはずなのに、俺の胸はひどく締め付けられてしまう。
「しっかり眠れたように思うか?」
「どうかしら。少しうなされてたみたいには見えたけれど」
「うなされてたように見えたなら起こしてくれよ」
「あら、いい夢の可能性もあるじゃない」
そう言って、口元に手を当てて笑う。
あの頃とは全く違う笑い方。それもまた俺の胸を抉る。
分かってる。筋違いの事を考えているって事くらい。
でも、どうしても考えちゃうじゃないか。特にあんな甘ったるい悪夢を見た後なんかには。
俺は寝転んでいたソファから身を起こし、大きく溜息を吐いてみせた。
「あら、大きな溜息。幸せが逃げるわよ」
「……信じてるのかよ、その話」
「少なくとも溜息を吐きながら幸せになれるとは思わないわね」
「そりゃそうだ」
「そうでしょう」
「……それで?」
「それでって何よ?」
「いや、帰らないのかなって」
「あら、冷たい弟ね。いいじゃない、何日かくらい実家でくつろいでても」
「どうせ旦那と喧嘩でもしたんだろ?」
「喧嘩じゃないわよ。ちょっと意見が合わなかっただけ。夫婦にはよくある事よ」
「そんなもんかね」
そんなもんよ、と姉ちゃんは冷笑する。
結婚してから冷笑が増えた気がするのは俺の気のせいだろうか?
分からない。俺は結婚には詳しくない。
と。
不意に姉ちゃんが俺の額に自分の額を当てた。
俺は驚いて思い切り身を引いてソファから落ちてしまう。
また、姉ちゃんの冷笑。
「何やってるのよ、あんた」
「い、いや……、姉ちゃんがいきなりデコをぶつけるから……」
「子供の頃から何度もやってる事じゃない。ぼんやりしてるから熱でもあるのかなって思っただけよ」
「……どうだった?」
「冷たいくらいね」
低血圧なんだよ、と吐き捨ててから視線を逸らす。
意識したら駄目だと分かっているのに、意識してしまう。
いや、駄目ならまだいい。無駄なんだ。無駄だからこそ俺の胸は締め付けられているんだ。
気まずい沈黙がリビングに訪れる。
何も言葉にする事ができない。いいや、それも違う。気まずいと思ってるのは俺だけだ。
それがたまらなく、辛い。
思い出す。
美弥子の唇の感触、美弥子を抱きしめた時の感触、幸せを疑わずにいられたあの頃の事を。
いくら願おうと取り戻す事のできない遠い遠い記憶……。
「ねえ、あんた彼女とかいないの?」
また姉ちゃんが無自覚な質問をしてくれる。
無自覚な上に姉ちゃんは悪くないのだからたまらない。
俺は気付かれないよう溜息を吐いてから、何でもない事みたいに言い返す。
「最近の女子ってのは理想が高いから、俺なんかには見向きもしないもんなんだよ」
「あら、そうなの?」
「姉ちゃんが学生やってた頃とは違うんだよ」
「お言葉ね、そんなに前の話じゃないわよ」
「知らなかったのか? 時代の流れってのは早いんだよ」
「それは感じなくもないけれどね」
姉ちゃんが冷笑して俺の頭をくしゃっと撫でる。
子供扱いはやめてくれっていつも言ってるのに、どうにも手癖は治らないものらしい。
「まあいいじゃない。それなりに身なりを整えて、ちゃんと真面目にしてたら彼女くらいできるものよ」
「そんなもんかね」
「そんなもんよ」
なるほど、そんなものかもしれない。
あまり自信は無いけれど、ちゃんとしていればいつか彼女はできるものなのかもしれない。
頑張れば……、まあ、いつかは。
そこまで考えて俺は溜息を吐いてしまう。彼女ができて、どうする? 彼女ができて、どうなる?
俺の心の中には美弥子がいる。物心付いてから美弥子への愛しさを刷り込まれてしまっている。ついでに言うと美弥子への性欲も。
来年から高校生だってのに、今更思い返すのも恥ずかしいけど美弥子でしか自分を慰めた事がない。
それくらい、俺の全ては美弥子で占められているんだ。決して叶えられない美弥子への想いで。
「さてと」
不意に壁掛け時計を見た姉ちゃんが思い出したように呟いた。
「混む前にジャスコに買い物に行くけど、あんたお昼食べたいものとかある?」
「……ソーメン」
「ソーメンでいいの? もっとがっつりいきなさいよ」
「そういう気分なんだよ」
「まあ、いいわ。それならソーメン買ってくるから、ちゃんとお昼までは家に居なさいよ。お母さんにも頼まれてるんだから」
「はいはい」
「じゃあ、また後でね」
姉ちゃんが手を振って振り返る。
そのうなじが目に入り、抱きしめたい気分になって……、やめる。
姉ちゃんが玄関から出ていくのを目で見送ってから、再びソファに身を沈ませた。
「何なんだよ、もう……」
愚痴らずにはいられない。
この気持ちに……、いや、この記憶に気付いてから何年もこんな感じだった。
頭がおかしくなってしまったのかもしれないが、こんな事誰にも相談できるはずがない。
俺は美弥子が好きだ。美弥子と結ばれたい気持ちを押し留められない。だけど、その美弥子はもういないんだ。
目を閉じればはっきりと思い出せる美弥子の感触。それは俺自身が触れた事のない美弥子の記憶の残り香だ。
つまり……、前世の記憶。
自分で考えてて頭が痛くなるけど、そうとしか言えないんだからしょうがない。
前世の俺と姉ちゃんは恋人同士で、だけど不慮の事故で二人とも死んでしまって、こうして生まれ変わって……、俺だけ前世の記憶が残ってるってわけだ。
どうして分かるのかって言われても、魂でそう分かるからとしか言えない。何なら単なる俺の妄想だと思われても一向に構わない。
小学校五年生の頃、不意に夢の中で思い出してからは頭から離れなくなった。
問題は……、俺の中に美弥子への恋心が強く残ってしまってるって事なんだ。
姉ちゃんの事は嫌いじゃない。姉ちゃんって事だけが恋の障害なら、もしかしたら姉ちゃんに告白していたかもしれない。
だけど、姉ちゃんはやっぱり姉ちゃんで、俺の好きな美弥子じゃないんだ。前世は美弥子だけれど、今は美弥子じゃないんだ。そもそも姉ちゃんの名前は理央でかすりもしないしな。
それが辛い。泣き叫びたいほどの衝動に駆られてしまう。
言ってみれば、出会う前から心から愛した人を喪っているようなものだから。しかも、下手に愛し合った記憶が余計に傷を深めてしまう。
だから、切ない。切なさで唇を噛み締めた事も両手じゃすまないくらいなんだ。
「永遠の約束か……」
遥か昔、俺じゃない俺がしてしまった短慮な約束。
神なんだか悪魔なんだかに叶えられてしまった前世の俺の願い。
いっそ俺の頭がおかしくなってしまっただけならどんなにいいだろう……。
そう思いながら、俺は中学生最後の夏休みの朝を過ごしていく。
多分、いやきっと、一生どころか永遠に、こうしてたった一人愛して喪った女の事だけを思い続けて生きていくんだろう。
俺の中に、一粒だけ残った愛だけを抱いて。
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