華鏡と初恋

 由緒正しい名家という私の家。

 祖父母や両親は仕事が忙しく、体が弱い私は田舎の別荘で、ばあやたち使用人と暮らす日々。


 まだまだ世界を知らない10歳の私はこれが普通で、当たり前のことと思っていた――――――


「お嬢様、お勉強のお時間ですよ」


 家庭教師の声から逃げるように庭の隅に隠れる私。昨夜の大雨のせいか空気が湿って余計に蒸し暑い。


「昔の人の色恋事が書かれた和歌なんか読みたくないし、勉強もしたくない」


 古文は特に苦手。何を言っているのか、まったく分からない。

 ブツブツ文句を言っていると、首から下げている袋が揺れた。中には代々、我が家に伝わるというお守りの鏡が入っている。丸くて手のひらより少し小さい、和鏡という古い鏡。背面は黒いけれど、キラキラと虹色に輝く桜の華が描かれた、とても綺麗な逸品。


「お嬢様? どこですか?」

「見つかっちゃう!」


 私は家庭教師に見つからないように庭を抜け、屋敷から抜け出した。


 蝉の合唱と暑い夏の日差し。


「あつい……」


 冷房が効いた室内でしか過ごさない私は、外がこんなに暑いと知らず。ふらふらと涼しさを求めて川へ歩いた。


「きれい」


 透明な水が流れ、見るからに涼しそう。いつもなら、ばあやが体を冷やすからダメって止めるけど……


「ひゃぁ」


 思い切って足をつけてみる。予想よりずっとひんやりとしいるけど気持ちがいい。

 私はスカートの裾を持ち上げてジャバジャバと川の中へ入ってみた。


「気持ちいい」


 宝石のように煌めく水面。気持ちよさそうに泳ぐ魚たち。

 そんな光景を眺めながら膝ぐらいの深さを歩いていると、川の水が少なくなり濁ってきた。それから、かすかに唸るような音と地響き。


「……え?」


 急に怖くなり慌てて川岸へ戻ろうとしたけれど、それよりも早く上流から轟音とともに濁流が襲ってきた。


 気が付いた時には足を水にとられ、体ごと流されていた。


 息もできず、石のように転げ流され、このまま死んでしまう、と思った時。


 首から下げている袋が浮かび、鏡が輝く。


 その瞬間、逞しい腕が私を抱えて空を舞い、雲を蹴り、岩の上へ。


「ゲホッ、ゲホッ」


 水を吐き出す私の背を優しくさする大きな手。顔をあげると、そこには幻想的な美しさをまとった青年がいた。


「……だれ?」


 呆然と見上げる私に青年が微笑む。

 風に遊ばれる漆黒の髪。虹色に輝く瞳。まっすぐな鼻筋に、薄い唇。陶磁のような白い肌に、スラリとした体躯。端麗ながらも強さも兼ね備えた姿に言葉を失う。


 それは、まさしく一目惚れだった。


 これまで恋の和歌なんて興味なかった。それが、こんなにも切なく、苦しく、意味が分かるようになるなんて。


「どうしたら、また会えるの?」


 あれから数年。少しばかり成長した私は、月明りの下で鏡を眺めていた。


 濁流に呑み込まれた後、奇跡的に助かった私。いや、この鏡の精霊――付喪神が助けてくれたと信じている。


 それから、私は毎晩、鏡に話しかけることが日課になった。


 その日にあった何でもない日常。それしか話すことはないけれど、返事はないけれど。それでも、私はある意味、幸せだった。恋に恋をして、溺れていた。


 でも、そんな私を家長の祖父は良しとしなかった。


 今は療養のため田舎にいるけれど、成長すれば都会へ戻る。その時に、このような状態では名家の娘として恥となり、家の名に傷がつく、と言ったらしい。


 その結果、私の鏡は山に捨てられた。


「鏡が!? 鏡がない!? どこ!?」


 朝、起きて鏡がないことに気づいた私は形振りかまわずに屋敷内を探しまわった。誰の言葉にも耳を貸さず、ひたすら探し回る私に使用人たちが顔を青くする。


「お嬢様はどうされたんだ?」

「鏡に憑りつかれていたいたのか?」

「まさか。憑りつかれるなんて非科学的な」


 そんなヒソヒソ声を払うように私を育てたばあやが声を低くして告げた。


「大旦那様より鏡を山へ捨てるように言われました」

「山!? どこの山なの!?」


 縋りつく私から顔を背けたばあやがボソリと呟く。


「捨てた者によりますと、龍山の滝つぼに投げ入れた、と」

「あの鏡を滝つぼに……」


 私の意識はそこで途切れた。


 あれから三日ほど寝込んでいた私は、四日目の朝にこっそりと屋敷を抜け出した。


 大昔、龍が住んでいたという伝説が残る山。その龍の巣であったという滝。そんな昔話がある山のため、道はかなり険しく、登山者もいない。

 本当にその滝つぼに鏡が捨てられたのかも分からない。それでも、私は山を登った。


 自分でも、どうかしてると思う。鏡なんて、いくらでもあるし、ここまでする必要もない。


 それでも……私を助けてくれた青年が忘れられなくて。


 そして、もう一度あの鏡を手にするために。


 外に慣れていない私の肌は草や枝で傷だらけ。虫にかまれて腫れあがっているところもある。それでも、ただひたすら歩いた。息があがり、咳込み、何度も倒れそうになったが、足を止めることはなく。


 屋敷を抜け出した時には顔を出したばかりだった太陽が山に沈みかけた頃、湿った空気と轟音が私の頬を撫でた。


「……すごい」


 茂った草と木々の先。はるか頭上から落ちる大量の水。


 昔の人が龍の巣と言ったのも分かる大迫力。


 呆気にとられかけて、意識が戻る。


「それよりも、鏡を探さないと」


 目を皿にして滝つぼの周囲を探す。


「岩の隙間に引っかかっているかも」


 すぐ前には轟音とともに流れる激流と水しぶきをあげる滝。山を登り、火照った体を冷やす風と受けながら必死に大きな岩の間を覗き込みながら探していく。

 陽が落ちて、辺りが真っ暗になる。透明だった水は黒くなり、周囲も闇に呑まれていく。


「……どうしよう」


 気温が下がり、一気に体温が下がっていく。


 体も冷えてきた頃、視界の端に明るい色の紐が入った。


「あった!」


 滝つぼの端。岩の隙間から鏡を入れている袋の紐がプカプカと水に浮いている。

 私は苔で滑りやすい岩にしがみつきながら、そろりそろりと移動した。


「あと、すこし……」


 必死に手を伸ばすが届きそうで届かない。

 一日かけて山を登り、手と足は限界。プルプルと震えて、力が抜けそうになる。


「もう、すこ……きゃっ」


 やっと指が紐に触れたところで体が水の中に落ちた。


「ぶはぁっ!?」


 足が届かない。どうにか浮上しようとするけど、疲れ切った体に冷たい水が体力を奪っていく。


「たすっ……だれ、か……」


 引きずり込まれるように滝つぼへ体が沈んでいく。水面に歪んだ満月が私を見下ろしている。


 そこに、ふわりと浮かび上がる鏡。袋から零れ落ち、クルリとまわる。


(……きれい)


 遠ざかっていく意識の中、鈍色の鏡面と、金色の満月が重なり――――――


『主よ……』


 低く澄んだ声が頭に響く。


 目を開けると、体がものすごい速さで水面へ移動しており、あっという間に夜空へ突き抜けた。


「え?」


 水しぶきが舞う星空の下。幼い頃に見た青年が、私を見下ろしている。


「あなた、は……」


 水滴で星々よりも煌めく漆黒の髪。柔らかく見守る虹色の瞳。人形のように整った端正な顔。何度、会いたいと願ったか。やっと、会うことができた。


 聞きたいことも、話したいことも、たくさんあったのに、喜びで声も出ず。


 二人で空を駆け、あれだけ苦労して登った山を一気に下っていく。幻のような、夢のような、不思議な感覚。このまま、ずっと二人で空を飛んでいたい。


 でも、現実はそうもいかず。


 遠くに別荘が見えてきた。その周りでは灯りを手にして私の名を呼び、探す人たち。


 その光景に私は思わず青年の腕を掴んだ。


 私をしっかりと抱えた逞しい腕。ただ、そこから感じる温もりはない。


 そのことが人ではないことを私に伝える。


「……このまま、あなたと一緒に……って言ったら、どうなる?」


 返事がない代わりに虹色の瞳が細くなった。ただ、その表情は儚く、悲しげで。


 その理由は私も分かっている。


 私は逃げるように空を見上げた。吸い込まれそうな暗い闇に浮かぶ、今にも零れ落ちそうな星々。


「私ね、ずっとあなたに会いたかったの。会って、お礼を言いたかったの。ありがとう、私を助けてくれて」


 その言葉に応えるように青年が私を抱きしめた――――――


「お嬢様!」

「おい、いたぞ!」

「お怪我はありませんか!?」


 気が付くと私は屋敷の前に一人立っていた。


「え?」


 さっきまで青年と空を飛んでいたのに。いつのまに地上に降りたのか。


 呆然としている私を使用人たちが囲む。その人たちを押しのけて、ばあやが私を抱きしめた。


「……心配しました」


 その温もりに自然と涙があふれる。


「ただいま。ごめんなさい」


 私は胸にある鏡を握りしめた。


『……ありがとう、主』


 微かに、だけど、はっきりとその声は聞こえた。


 後日。


 祖父が鏡を捨てろと命令したことを知った祖母は大激怒。離婚寸前の大騒ぎにまで発展したとか。

 家長として威張っていた祖父だが、実は婿養子であり、裏では権力が祖母を握っていた。そもそも、祖母の家系は女しか生まれず、長女が子孫繁栄の御守りとして鏡を継承してきたという。


 祖父もそのことを知っていたはずなのだが、軽視しており……


「すまなかった」


 祖母にきつくお灸を据えられ、私に土下座をして謝った。

 あれから再び三日寝込んだ私の前で額を畳みにこすりつけている祖父。

 病み上がりには衝撃的な光景に絶句していると、私の隣に来た祖母が小さな声で言った。


「ごめんね。私たち華鏡家の娘の初恋の相手はこの鏡と決まっているのに」

「え? おばあさまも、恋をしたの?」


 驚く私に、祖母は少女のように可愛らしく微笑んだ。

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