『ミライを求めて』
彼の絵が好きだった。
高校二年の夏。成績も上がらず、部活では人間関係に悩まされ、全てが嫌になった頃。家にも帰りたくなくて適当に降りた駅、うろついた先で見つけた小さな展示場の入り口で、貼られたポスターに目を奪われた。
『
狭い室内、埋め尽くすように飾られた小さな絵。無数のキャンバスから放たれた色彩が、衝動が、私の心を掴んで離さなかった。
「どれか、気に入ったのありますか」
話しかけてきた男性が作者本人だと知ったのは、気に入った作品を一つに決めきれなかった私がひたすら目に入る絵のよさを語りまくった後で。
顔を真っ赤にさせて、「僕が描いたんです」と言った彼に、私の心はまたしても鷲掴みにされたのだった。
彼の描く世界は、キャンバスが小さければ小さいほどに凝縮されるみたいだった。大きなキャンバスに描くこともあったけれど、吸い込まれそうな巨大な
彼のSNSをフォローして、彼の作品が飾られると分かればどこへでも行った。
部活は辞めてアルバイトを始め、彼の絵を世に送り出す一助になればと経済学部への入学を決めた。彼の作品に出会って、私の人生は間違いなく一変した。
私のバイト先の一つである雑貨屋に、偶然彼が来たことがあった。彼の作品にどこか雰囲気が似ている雑多な店内で、彼の瞳に私が映る。
「
私の口から彼の名前が出るより先に、私の名前が宙を舞った。
「なんでここにいるの」
「え? バイトしてて」
「ここでバイトするなら」
彼の瞳が、真剣な眼差しが、私を見つめて、射抜いて。
「僕のところで働いてよ」
そうして私は、彼の手伝いをすることになった。彼は精力的に個展を開いていたから、やることはたくさんあった。
どこへでも通い詰めていたおかげで、スタッフさんたちとはもうほとんど知り合いだったし、私はすぐに馴染んだ。
馴染みすぎてしまった。
就職活動をしないまま、彼に雇われたままでいることを選んでしまうくらいには。
彼から告白されたのは、大学の卒業が決まった夜だった。
「卒業したら、ずっと僕と一緒にいてくれ。君が、好きなんだ」
嬉しかった。自分の中の世界にしか興味がない人だと思っていた彼から求められたことが。
私だって、あの日、高校生だった夏の日、彼に初めて会った時からずっと、彼のことが好きだったから。
私は舞い上がって、大喜びで告白を受けた。晴れて恋人になった私たちは、幸せに暮らしましたって、ハッピーエンドで終わりたかった。
だけど。
彼は、絵が描けなくなった。
その言い方は正確じゃない。絵を描くこと自体はできる。今までと変わらずに。けれど、今までの彼の絵から感じられていたパワーが、誰の目から見ても明らかに失われてしまったのだった。
どう考えても、私のせいだった。
彼のことも、私のことも知っているスタッフさんたちは、優しさからか私には何も言わなかったけれど、誰もが思っていたはずだ。だって、本当に、私と思いを通わせあったあの日を境に、作品が変質してしまったのだから。
しかし、彼はそれを認めようとしなかった。彼が一番分かっていたはずなのに、私を離そうとしなかった。
流しっぱなしのテレビで話題に上がるデートスポットに私を連れて行っては笑い、紹介されたレストランに連れて行っては喜んだ。
愛の言葉をまるでシャワーみたいに降り注いで、キスも、その先も、彼の全てで私を愛してくれた。
彼の絵が、好きだった。
「嫌いになったの」
彼を支えられない私が。
「もう、そばにいたくない」
これ以上そばにいたら、もう本当に、彼は彼でなくなってしまう。
「別れて」
彼が、好き。
「もう、顔も見たくない」
彼の絵が、好き。
「さよなら」
彼が、くしゃくしゃに顔を歪めて、大粒の涙をこぼして、私の足元に崩れ落ちて、
私は彼の手を振り払い、左手の薬指からシルバーの指輪を外して投げ付ける。
絶望に歪む彼の顔をそれ以上見ていられなくて、ほとんど一緒に暮らしていると言ってもいいくらいに日々を過ごした彼の家から駆け出した。
私が持ち込んだり買い足したりしたものは全部捨ててしまった。
殺風景な、最低限の生活に必要なものしかなかった彼の家を取り戻すために。私が色付けてしまったものは全部、消しゴムで消して、白で塗りつぶして、何も、なかったみたいに。
彼の心を乱したものは、何一つ残してはいけない。可能ならあの日の彼に、私と出会う前の彼に、世界中にたった一人みたいな顔をして、宇宙の果てを彷徨い歩く彼に戻ってほしかった。
家族もなく、親族もなく、残された遺産を使ってただ、脳内に広がる無限をキャンバスに吐き出すだけだった彼に、戻ってほしかった。
だってそれが、私の好きな彼だから。
私の愛した彼だから。
私の好きな、絵を描く、彼だから。
「あああああぁぁぁぁああああーーーーーッ」
嫌だ。嫌だよ。どうして私が。
どうして彼を手放さなくてはならないの。
だってこんなに好きなのに。こんなに愛しているのに。
どうして私が、彼の世界を壊してしまうの。
「あああああーーーーーうわぁぁああああーーーーッ」
私の好きなあなたの世界で、私も生かしてほしかった。
私を閉じ込めて、塗りつぶして、取り込んでくれたらよかったのに。
愛して、私と、幸せになりたいと願ってしまったから。
普通の人間みたいに、願ってしまったから。
私が。
「ううぅーーーーッ、あぁあああ……あああああ……!」
声が枯れるまで、涙が涸れるまで、泣いた。誰もいない河川敷、服が汚れるのも構わず座り込んで、大声で、泣いた。
もう声も涙も出なくなって、そんな私を置き去りして朝日が昇って、眩しさに閉じた瞼の向こうに彼の姿が霞んで、消えた。
それからしばらく、彼の絵が絶対に目に入らない田舎に逃げた。安い家賃のワンルーム、いつだって出ていけるくらいに少ない荷物を抱いて、惰性で生きていた。
死んでもいいやと過ごしていても、人間意外と死なないもので。
スマホもテレビも見ない私を、近所の人たちは何も言わずに受け入れてくれた。
管理できてないから好きに使ってとアパート裏手の畑をくれて、ほとんど自給自足に近い生活を送って二年。新しい人間関係も少しだけどできて、気持ちも落ち着いたと思っていた。夏。
近くを走るバスにふらりと乗って、遠い最寄駅で降りた私の目に飛び込んできたのは、彼の、絵だった。
あの頃とは違う、今まで見てきた絵とも違う、私と付き合い始めて失われたものを取り戻して、だけど新しい、彼の、絵。
駅の掲示板に貼られていたのは、展覧会のポスターだった。こんなところにまでポスターが貼られるなんて、私と別れた後、彼はどれほどの成功をおさめたのだろうか。
大判のポスターの隅、彼の写真が載っていた。少し痩せた彼の首には、嫌いだと言っていたネックレスが下がっていて。どういう心境の変化だろうと思った私は、細い銀の鎖にぶら下がる、二つの指輪を見てしまった。
それは、私が投げ付けた指輪だった。二人で選んで買った、ペアリングだった。
ぶわり、目からは勝手に涙が溢れて、ぼろぼろと地面を濡らす。
彼は、昇華したのだ。私の存在も、私との別れも、何もかもを飲み込んで、
その上で、私を呼んでいる。
ポスターに描かれた絵は、展示会のメインになっているこの絵は。
「会いたい」
私を、呼んでいた。
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