ノアの憂鬱

 駅の北口を出て五分、平日でも気を抜けば他人と肩がぶつかるほど賑わいのある商店街を、速足で直進する。アーケードの切れ目、二車線道路との突き当たりを左に曲がれば目当ての建物はすぐだ。コンクリ打ちっぱなし風のスタイリッシュな外観は、俺みたいな冴えない大学生には少々不似合いだと思う。


「お疲れ様ですー」

「……っす」


 音楽スタジオノアの挨拶ってなんで「お疲れ様」なのか。初めは戸惑ったが、もう慣れた。多分、趣味で楽器背負ってる奴らもっぽさを味わえるから、とかなんだろう。

 フロント店員の挨拶に軽く会釈を返しながら、足を止めることなく奥の階段へ。上って左手に、ちょっとしたカフェ並みの広さをした待合スペースがある。音楽とは一切関係ない下世話ばなしを繰り広げる数人のグループを横目に、隅のテーブル席へと急ぐ。


「だからなんで居るの」

唯人ゆいとさんに会えるかなと思って」


 白を基調とした半袖のセーラー服が、くすんだ蛍光灯の下で無垢に光っていた。お育ちのよいお嬢様がたが通う高校の制服。パーマやカラーとは無縁の艶やかな黒髪は、低めの位置でポニーテイルに。零れた細いおくれ毛が、しっとりと瑞々しい首筋へ視線を誘導する。

 そんな格好でこんなところに一人で居るなよ、今しがた通り越してきた行儀がよさそうとは言えない男どものグループを一瞥しつつ、胸中で悪態を吐く。


「スタジオの予約が十九時しちじだって知ってるんだろ、二時間前は早すぎる。せめて俺が到着したあとの時間にしてくれ」

「それって来るの自体はいいってことだよね、やったー。ていうか、唯人さんだって二時間前に来てるじゃん」

「…………」


 それは君が来てるってわかってるからだ、とは言わない。わざとらしくひたいに皺を寄せ、溜め息を吐いて。俺は背負っていたベースを下ろしてから、テーブルを挟んだ彼女の斜め向かいに腰を下ろす。ベースのソフトケースに付いた外ポケットから手書きの楽譜を取り出し、譜読みするフリをする。

 彼女は両手で頬杖をついて、口角を上げた表情のままこちらを見ている。まったく何が楽しいんだか。



 彼女――早見光希はやみみつきと初めて言葉を交わしたのは、もう一年以上前になる。

 今日とは別の音楽スタジオにて。バンド仲間たちとの約束時間より早く着いてしまった俺は、待合スペースで彼らを待っていた。


「あの、トリプルワイの人ですよね? 兄の、早見陽介ようすけの忘れ物を届けに来たんですけど。まだ来てないですか」

「え、ああ……」


 アマチュアの、それも初心者の大学生が見よう見まねで始めたバンド名で呼びかけられて、俺は面食らった。

 だが、顔を上げて合点がいく。バンド仲間の一人とよく似た人懐っこそうな丸い瞳が、こちらをじっと見ていた。


「あー……、まだだから、よかったら渡しとくよ」

「すいません、じゃあ」


 彼女は肩にかけていた黒い合皮の通学カバンから、楽譜の入ったクリアケースを取り出した。陽介のやつ、リハ日に譜面忘れたのかよ。

 楽譜を受け取って、テーブルの上に置く。兄への届け物という任務を果たした彼女は、けれども帰る気配を見せなかった。


「あのー、やっぱりまだここにいていいですか」

「……楽譜はちゃんと渡すよ」

「あ、ごめんなさい、信用してないとかじゃなくて」


 俺の返事を待たずに、彼女は向かいの椅子に座った。


「学校から帰った途端に届け物の要請があったから。慌てて出てきたのに、すぐ帰るのもったいないなーって。こういうとこ初めてで、面白いし。唯人さんの邪魔はしないようにしますから」

「……なんで俺の名前?」


 そういえば声をかけてきたときも、俺が兄のバンド仲間だってどうしてわかったんだろう。初対面のはずだ。


「ライブ、何回か観に行きました。あとおにいが、唯人はすごいっていつも言ってて」

「ふーん……」


 なぜか目を輝かせている彼女の後ろに、音楽スタジオというものの雑然具合を見る。

 この辺りは大学が多いからか、俺らと同じく趣味でやってる若者客が多い。彼らはたいてい楽器や機材によって大荷物で、ちょっと背を曲げたような格好で入店してくる。待合スペースでは真剣な音楽議論という名の雑談が延々なされて、高頻度で開閉される喫煙ルームからは常に煙草のにおいが漂ってくる。


 面白い、ね。物珍しさだろうか。健全な女子高生が来る場所じゃないと思うけど。

 まあ今日だけなら仕方ない、そう思って、その日は他のメンバーが来るまでの三十分間をなんとかやり過ごしたというのに――。


 それからひと月後のスタジオ練習の際、彼女は再び現れた。



 “トリプルワイ”は、俺と、陽介と、もう一人のメンバーである康之やすゆきとで、大学に入ってすぐ結成したバンドだ。全員イニシャルがYだからという安直なネーミング。格好良い名前かといえば……アレだが、「ちょいダサいくらいが親近感がわいていい」と、根拠があるんだかないんだかわからない持論は陽介のもの。

 普段は大学の軽音サークルに割り当てられた練習室を使っているが、時々気合いを入れるためにスタジオに入る。たいてい金曜の夕方か夜で、俺以外は授業との兼ね合いで約束時間ギリギリに到着することが多い。


 だから、彼女と二回目の対面となったリハ日も、一番にスタジオへ着いたのは俺だった。さすがに一人では入りづらかったんだろう、彼女は建物の入口横に立っていた。


「陽介、また忘れ物?」


 知った顔を見つけて安心したのか、俺に気づいた彼女はふっと口元を緩ませた。俺からの質問にふるふると首を横に振って、


「違うんです、こないだのライブの最後の曲、唯人さんが作ったって後からお兄に聞いて、それで」


 急にせきを切ったように話し出す。


「私あの曲すごい好きで、これは直接伝えなきゃって思って。唯人さん音楽始めたの大学からなんですよね。それであんな曲作れるなんて、お兄がすごいって言う意味が改めてわかったっていうか」

「初心者のわりにはすごいってこと?」


 まさかいきなりそんな話をぶつけられるとは。照れ隠しもあって咄嗟に卑屈な返事がこぼれたが、彼女は嫌な顔ひとつしなかった。


「そういうことじゃなくて。私感動したんですよ。夕焼けと夜の間みたいな空の色が、目の前にぱあーって浮かんだの」

「ふーん……」

「あと、ベースが最初からじゃなくてBメロから入るのもいい」

「おー、わかってんね」


 こだわりポイントを指摘されて、つい、素が出てしまった。

 彼女は大きな丸い瞳をいっそう大きくしたあと、なぜだか誇らしげに笑った。



 その後、スタジオ練習のたびに彼女がやってくるから。あんなところで一人待たせるわけにはいかないと、俺は毎回急いで向かう羽目になって。少しでもマシな場所をと、周辺では一番新しくてキレイなスタジオを取るようになって。

 譜面を広げる俺の傍ら、彼女は静かに時間を過ごす。時折ぽつぽつと会話をして、向こうが小さな菓子なんかを差し出してくるから、代わりに自販機でジュースを奢ってやったりする。


 そうこうするうちに、もうすぐ大学三年の夏が終わる。そろそろ就活のことを考えないといけない。彼女だって来年になれば高三、受験生だ。



 高校のときに好きだったものなんて、一瞬で忘れてしまうことを俺は知ってる。

 現に俺は、中高と続けたバスケをすっぱり辞めた。それなりに真剣にやってたつもりだったけど。


 高三の夏、俺らの最後の大会に、前年卒業した女子マネージャーの先輩が応援に来た。先輩の髪は金に近い茶色になっていて、一緒にいた彼氏は試合なんかまるで興味なさそうに先輩のほうばかり見ていた。そのとき俺の心はすっと冷えて、そんな自分自身にも辟易として。

 思い返せば俺がバスケを始めたのは、出来のいい年齢としの離れた兄にならったから、というより「お兄ちゃんのように立派になってね」という母の期待に応えるためだ、そんなことにまで気がついてしまった。


 大学のサークルはバスケ以外ならなんでもいい、そう思っていたところに、新入生オリエンテーションで隣だった陽介からバンドに誘われた。

 試しにやってみたらハマった。やっと、母や兄とは関係なく、自ら楽しめるものを見つけられたと思った。


 俺の作る曲は、王道のポップスを組み合わせた、いわばパッチワーク的なものだ。人にウケるコード進行や詞の言い回しなんていうのは調べればいくらでも出てきて、俺みたいな初心者はそういうのを頼りにどうにかそれらしく形にするしかない。「感動した」なんて言われるような代物じゃないんだけど。

 とは言っても労力はかけているし。時々少しだけ、自分なりのアレンジを入れてみる。シラフでは言えない本音を紛れ込ませる。だから、そうして出来た曲を汲んでもらったのは、素直に嬉しかった。


 でも、今だけだ。彼女はこれから受験を経て高校を卒業し、新しい世界を知る。ベースを手離して就活用のスーツに身を包む俺は、無個性でなんの魅力もないだろう。

 幻滅されるくらいなら、忘れ去られるくらいなら、最初から興味なんて持ってくれるなと。



 俺が買い与えた紙パックのいちごオレにストローを差す彼女は、ご機嫌に鼻歌でも歌い出しそうである。その様子を、俺は楽譜越しにちらりと見る。


 今俺の手元にあるのは、詞が書きかけになっている楽譜。就活が本格化する前に最後のライブでやろうと思っているものだ。彼女に見えないよう、詞の続きを書き足していく。いつものように、どこかで聞いたありきたりな表現を並べて。

 最後のライブ、彼女はどんな表情かおで観てくれるんだろう。俺の曲にどんな感想を抱くんだろう。そんなことを密かに考えながら――。


 何度も使い古された陳腐な嘘に、ほんの少しの本音を混ぜていく。どうか、気づかないでくれよ、と思う。

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