スクリーン
和泉茉樹
スクリーン
◆
私は彼女とテーブルを挟み、食事の最中だった。
朝で、他のテーブルでも男女が食事の最中だった。店内は静かで、ささやかな話し声はしかし聞こえるようで聞こえない。食器が触れ合う音の方が印象に残った。
「次はいつ来てくれる?」
彼女の言葉に、私は少し宙を見た。
「そうだな、二週間後には、また」
「二週間後」
「帰りがけに予約しておくよ」
そう答えながら、私は目の前のスクランブルエッグのようなものを口へ運ぶ。
卵の味など忘れてしまったはずだが、これは卵だ、という感覚がある。
「またメッセージを送るわね」
彼女の言葉に、私はただ頷き、目の前の皿のウィンナーのようなものを見た。手をつける気になれずにいる私に、彼女が微笑む。
「それは合成肉よ。大豆由来の」
そうか、と答えたものの、ウィンナーのようなものを食べるのは諦めた。
食事が住み、二人で店を出る。屋外に出たわけではなく、まだ巨大な建造物の内部である。通路を並んで進み、私は古風なエレベータの前で振り返った。
私が何も言わずにいるのに、彼女が少し寂しそうな顔に変わった。
「二週間後を、楽しみにしてる」
「僕もね」
すっとお互いが近づき、すぐに離れる。エレベータが来た。
乗り込む私を彼女はじっと見ている。その瞳に宿る感情を探そうとしても、何も見つからなかった。そこにあるのはただの光の反射に過ぎず、感情などというものは表出するわけもない。
視線と視線がぶつかり、彼女は穏やかな笑みを見せ、私はいったいどんな顔をしていただろう。彼女の瞳に映りこむ私は、視認するには小さすぎる。
エレベータのドアが閉まり、私は少し壁に寄りかかった。
すぐに目的の階になり、ドアが開いた。進み出ると、そこにすぐカウンターがある。背広を着た男性が自然な微笑みで待ち構えている。何の言葉もなく、私と彼の間で料金がやりとりされた。基本料金は事前に払っているので、追加料金だけだ。昨夜に注文したアルコール類と軽食。
「彼女は」
私が背広の男性に声をかけたのは、だから気まぐれに近い。
「この建物を出られないのかな」
「さようでございます、お客様」
「一歩も?」
「さようでございます」
そうか、と私は頷いた。
目の前の男性に対して、きみはどうなんだ、とは聞かなかった。それこそ、聞いたところで仕方がない。
「食事だけど」
勢いにままに、わかりきっていることを訊ねていた。
「本当に肉は使っていないんだろうね」
「さようでございます」
そうか、と私は頷き、今度こそカウンターの前を抜け、表の通りに出た。雨が降っていて、薄暗かった。空気はどこか濁っていて、不快にじめついている。意味もなく高層建築の威容を見上げ、私はまっすぐ地下への階段を下り始めた。
そこへ携帯端末へのメッセージの着信があった。スマートグラスに表示が出て、彼女の名前がそこにある。視界で指を動かすことで、メッセージを開封する。
はるか昔で言うところの、後朝の文だ。
無機的なフォントのメッセージが視界を流れていく。足は止めず、地下街を進んでいく。通勤する人々が流れを作っていくのに混ざった。
彼女からのメッセージには個性がある。当たり前だ。個性など、如何様にも作れる。彼女の体、彼女の言葉、彼女の体温、彼女の吐息。
人間と変わらないのだ。
人間が人間として作られていることに対して意味がないように。
彼女もまた人間として作られている。
ただあのフロアから出られないだけのこと。見えない壁があるように。彼女は決して、外へ踏み出さない。こうしてメッセージが届くことがあり、時に音声通話が繋がっても、彼女はあのフロアを出てこない。
全てはそういう装置なのだ。私が望めば、例えば食事から全て動物性のものを外すこともできる。卵ではない卵、肉ではない肉が提供される。
彼女さえも、装置の一部。
彼女が私に見せる全ては、そのように作られている。
昨夜のことも、今朝のことも、全てがそういう巨大な装置。
それが虚しいとは思わなかった。誰もかれもが、日常の中で何かに組み込まれ、演じているのと大差ない。それは時には不規則な事態すら、何かのシナリオのようにしてしまう。
特別な夜、特殊な夜さえも、過ぎてしまえば予定調和の一部だ。
約束されたものなどないはずなのに、人間は勝手に約束し、そこへ全てを収束させることができる。自分を騙し、錯覚されることさえもできる。
もしかしたら、と思考が先へ進む。
いつか、彼女はあのフロアを抜け出して、私の元へ来るかもしれない。そんな事態さえも、ある種の演出として出現するかもしれなかった。あるいは金を積めば。彼女の心を掴むのではなく。
感情の所在など、考えるだけ無駄か。
彼女は私にメッセージを送ってきた。
全ては定められた場所を、定められたように進んでいるようだった。私の人生というシナリオは、私の予想を外れることがない。
地下街を抜け、改札から地下鉄のホームへ。
列車に乗れば私はいるべき場所へ戻り、二週間をやり過ごし、ここへ戻ってきて、あの建物の、あのフロアで彼女と再会する。
それさえもいつか、意味を失うかもしれない。
逢瀬を無意味を感じ、あのフロアのこと、あの店のことを忘れる。
そもそも、全てに意味などないのかもしれない。
全ては作り物のセットなのだから。
列車が入線してきた。
彼女の瞳。わずかに潤み、澄んだ色。有機物で作られた本物の瞳。
記憶の中で、あの瞳を繰り返し思い出した。
彼女にも感情はあるのだろうか。あるとしても、それもまた装置の一部か。
彼女の世界に足を踏み入れる私もまた、装置なのか。
列車から大勢が降り、入れ替わりに大勢が乗り込んでいく。
この世界の全てが装置でもおかしくない。
そう思うと、この世界や自分に何の意味もない気がした。
彼女の全ても、私の全ても、長い長い映画の一場面。
列車が走り出しても、私はそのスクリーンから逃れることはできないのだ。
列車の規則的な揺れの中で、不規則に私は揺られた。
(了)
スクリーン 和泉茉樹 @idumimaki
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