第一節
第六項
「アデリーペンギンってさ、居るでしょ?」
沈みかけた太陽に照らされて朱色に染まる教室前の廊下を歩きながら、小麦色の肌をしたボーイッシュな少女が僕の肩に肘を置いてそう言った。
「目の周りが白い畜生だろ。それがどうしたんだ」
「あいつらって人間と同じ一夫一婦制らしいんだけど、メスは夫以外のオスに対して売春するんだって」
僕とこのクラスメイト。
「エロいでしょ?因みに理由は何だと思う?」
「そりゃお前、性欲が強いんだろ」
その根源は単純明快。
倭文の実家は古くから西日本の財界を牛耳っており、彼女もまた、幼少の頃からいわゆる華麗なる一族としての立ち振る舞いを求め続けられていた。性的な話などもってのほか。禁忌中の禁忌、タブー以外の何物でもなかったらしい。
だからきっと高校生になってある程度の自由が与えられた結果、抑圧され続けていた好奇心が爆発したのだろう。
しかし、僕は倭文のそんな話にもある程度の理解をしてやるのだ。なんたって彼女は、交友関係の浅い僕にとっては唯一と言うべき友人なのだから。
「ぶぶー!!正解は、巣を作るための石を恵んでもらうためでした!!!」
何が楽しいのか、彼女はその涼し気な鋭い眼を細めて笑う。伏せた睫毛で出来た影が倭文の瞳を黒く塗りつぶした。
「でね、でね。私気づいちゃったんだぁ。オスが売春の対価として支払ってる石って、『自分の妻が身売りの対価として受け取ったもの』だって事に!!!」
なんてものに気づいてんだ。この幼馴染は。
「……僕、寝取られとか嫌いなんだけど」
「言わせてもらうけど。寝取ら「れ」じゃなくて、寝取ら「せ」ね?意味合い変わってくるから、そこんとこ間違えないでよ」
語気を強め、妙に厳しい口調でそう言った。倭文大先生のこだわりだろうか。
「でも純愛が一番だろ」
「甘い!!甘いね。オーラルセックス用のラブローションより甘い!!」
「分からねぇよ」
「おちんちんの匂いとか味を打ち消すくらい甘いらしいよ」
「だから分からねぇって」
僕は元の味すら知らないのだから。そうして呆れたという意思表示に頭を抱えてそう言った。とはいえそれはあくまでもアピールのためであり、実際はこんなどうしようもない話も楽しかったりする。
そんな時、下駄箱で靴を履き替える少女が視界に入った。
「マッチ、またね!」
遠くでそう呼ばれた少女は天真爛漫な笑みを浮かべて手を振っている。
カラスの濡れ羽色をした長い黒髪。対照的に初雪の如く白い肌。ほんのりと赤みを帯びた艶やかな唇。大きく、そして垂れ気味の瞳。
僕が密かに恋心を募らせている「
「好きだよねぇ、コウ君も」
彼女が校舎を出た事を確認し、倭文はニヤケ顔を隠そうともせずにそう言った。
「悪いかよ」
「いやいや、みんな「マッチ」の事は好きだからさ」
マッチとは水門のあだ名で、クラスメイトはおろか先生にすらその略称で呼ばれるほど広く知られている。
「小動物みたいな狸顔で、庇護欲をそそる感じで、華奢で、白くて、どこを触っても柔らかくて、甘い香りがして……なんか、対童貞特攻があるよね」
「悪いかよ。逆マッチが」
「逆、マッチ……」
「大柄で鋭い狐顔だから庇護欲なんて湧かないし、陸上やってるから日に焼けてるし筋肉は固いし。部活で使う制汗剤や汗拭きタオルのせいでずっと清涼感のある匂いだし。」
「待って!!ヤメテ!?私もちゃんと乙女だから!!」
「嬉々として乳首当てゲームをする奴は僕の中で乙女カテゴリに分類されないんだよ」
「だから私にもやって良いよって言ったのに!!断ったクセに!!」
「クラスで言われたら盛りのついた猿でも断るだろ。というかあの一件以降、僕たちが付き合ってるみたいな噂が流れてるんだぞ。そのせいでマッチと付き合えなくなったらどうしてくれるんだ」
「私も被害者なのに・・・・・・でも、元から付き合える可能性は限りなくゼロに近かったし、それが完全にゼロになったっていうだけじゃないかな」
「お前それ宝くじにも同じ事言えんの?」
「そっか、そうだよね、ごめんね。夢を見るのは自由だもんね。それに私たちも宝くじ並みの競争率を勝ち抜いた元精子だし、宝くじを否定するなんて生命に対する冒涜だよね」
そうだけど、そうじゃない。
しかし僕はどういうわけか、彼女の穴だらけな理論に対して何も言えなかった。
「男と女って聞くと普通の恋愛だけど、元精子と元精子って言い換えるとBLだよね」
なんだその汁臭いBLは。
「じゃあシックスナインは友食いならぬ共食いになるな」
「確かに……69で思い出したんだけど、勾玉って互い違いにつなげていけば輪っかに出来るらしいよ。どう思う?」
「英単語とか覚えた方がいいと思う」
「ウロボロスっていう隠語、いいと思わない?」
「たかが連結69の別名が格好良すぎだろ。誰かが勘違いしてウロボロスしようよ!なんて言ったらどうするんだ」
片や自らの尻尾を喰らい円環になる蛇。
方や誰かの男根を喰らい輪姦しあう漢。
彼女はその姿に何を見たのだろうか。きっと碌な物じゃないだろう。
「じゃあ、私はここで」
倭文は放課後も部活で毎日校庭を走り回っているので、帰宅部の僕と行動を共にするのはここまでである。
「じゃあ、また明日」
校舎を出た僕らは互いに反対側へと歩いてゆく。
沈みゆく太陽が眩しかったので少しだけ目をつむり、僕は、少し先を歩くマッチを追いかけた。
そして、その背中に声をかける。
「あ、あの!!」
第五項
僕の呼びかけに振り返った彼女は、やはりどこまでも純粋で透き通っていると思わせる表情をしていた。
「あなたは、えっと、鋼さんですよね?」
名字だけならば覚えていてもおかしくはないが、下の名前となれば話は変わる。クラスメイトとはいえ、進級してから一か月足らずの僕の名前を覚えていた事に少しだけ驚いた。
「うん。突然ごめんね」
急な呼びかけ、そして急な謝罪を聞いても、マッチは朗らかな笑みを浮かべて首を振る。
「なんか、一人で帰ってるところが目に入ったからさ」
つい話しかけてしまった。そう、僕は偶然を装って話しかけた。そういうことにしたのだ。
「ふふっ、寂しそうに見えちゃいましたか?」
そういって彼女は上品にも手を口にやって目を細める。
人たらしと呼ばれてもおかしくはない、魅力の塊の様な笑顔だ。
しかし、マッチという親しみやすい名前とは裏腹に、彼女の容姿は近寄りがたい程の完璧な美少女である。
一人で居たとしても、それは寂しいだとかボッチだとかというよりも先に「周りの女は嫉妬して、男は下心をむき出しに現れるから」人間関係が面倒なんだろうと思ってしまう。
これは教室で偶然聞いた話だが、本当は普段一緒にいるグループで彼女だけが大学へ進級するから一人で帰っているらしい。他の者は部活や委員会に精を出しているという事だ。又、こうやって一人帰る僕もこの学校では珍しく進学を希望している。彼女と同じ大学を。自分でも不純な動機だと思う。
「いや、えっと、寧ろチャンスだと思って」
僕はおっかなびっくりそう言った。
自分でも驚く程に積極的で、そして軽薄な言葉だとも思った。
「チャンス、ですか」
「そう。クラスメイトと仲良くなれるチャンス。マッチっていつも周りに人だかりが出来ているから、新しく輪に入れないんだよね」
「そんな、気にしなくてもいいんですよ?私はいつでもお友達募集中ですから」
「お友達」
そう。倭文には付き合うだなんだと言ったけれど、まずはお友達からなのだ。
彼女と交際するにしても、友達から始め、手順を踏み、男女混合の仲良しグループで出かけ、そしてだんだんとお近づきになり、そうやって、ややあって、ようやく告白をする。
これが現代高校生の、最も汎用的な男女交際の始め方だ。
大人みたいに酒の力を借りて、一発やってからお互いを意識するとか。
昔の人みたいに許嫁が至りだとか。漫画みたいに角でばったりぶつかって因縁ができたりだとか。
ラッキースケベで互いの体に触れ合うだとか。
そうしたものはあくまでも例外で、ファンタジーで、創作物の中だけでの出来事なのである。健全な高校生が健全でプラトニックな交際を始めるには、どうしても前者の手順を踏むしかない。それでしか資格を得られない。
そして僕らはまだ友達ですらない。ただのクラスメイト。
「どうしかしましたか?」
そう言って彼女は僕の顔を見上げて言う。
しかし、友達というあまりにも面倒で、格式張っていて、それでいてもどかしい言葉を聞いて放心していました。とは、言えなかった。
「何でもないよ。……それにしても、お友達っていう響きって、なんだかいいよね」
だから、僕の口から出てきた言葉は、純度百パーセントの嘘八百だった。
「私もそう思います。それに、お友達というのはどれだけ居ても良いものですから!」
別の世界に生きているとさえ思っていたマッチと表面上だけでも意見が合い、僕の心臓は思わず飛び跳ねる。
「そうそう、人数は多ければ多いだけいいよね」
友達のいない僕が何を言っているのだろうか。同じことを思ったのか、マッチも言葉を失っていた。
「……鋼さんって、そういうタイプだったんですね」
「似合わない、かな?」
僕はそう言って頬を掻いて見せる。
「いいと思います!!……でも、そういうタイプなのは寧ろ倭文ちゃんの方だと思っていました」
ギクリと心が痛む。
彼女の様な生粋の陽キャと性格の合いそうな人間を想像して、僕はいつの間にか倭文を模倣していた。そのことに気が付いてしまったのだ。
何せ、本当の僕はありえない程の陰キャである。陰鬱で、鬱屈で、物静かで。
倭文とは付き合いも長い上に殆どが下ネタだから喋れている風だけれど。
でも、そうでもしないと彼女の様な人間とは仲良くなれないと思ったのだ。それにもしも本当の自分を晒して嫌われたら、僕は絶対に立ち直る事ができないだろう。
「まさかっ。あいつと仲のいい僕が、あいつとかけ離れた感性を持っているわけがないだろう?」
「そうですね。確かにそうです……なんだか、私はあなたの事を誤解していたのかもしれません」
「クラスの端っこで丸くなって、ボソボソ下品な話してる人間だって?」
「ありていに言えば、そういう感じ、なのですかね。ちょっと分からないですけど!」
「確かにそうなんだけどね。なんていうか、僕だって人間関係が一新されれば新しく友達を作ろうって思えるんだけどさ。でも小学校からずっと一緒の友達が居たら、そいつと仲良くしてれば良いやってなるんだよね。大人数は楽しいけど、でもやっぱり友達を作るのって大変だからさ」
そう言って僕はおどけて見せた。そして、自らの本音が出てしまったことを少しだけ後悔した。
「倭文ちゃんとは幼馴染だったんですね。じゃあ付き合っているという噂は……」
「根も葉もない噂でしかないし、実は僕らも困ってるんだよね」
そこまで言って考える。
神崎倭文。現在僕が勝手に模倣をしている人間はマッチと正反対の様な奴だけれど、しかし紛うことなき生粋の陽キャである。
なのに、どうして、僕と付き合っていると思われても、殆どの時間を僕との会話に費やしてるのだろうか?
友達だから?幼馴染だから?気が合うから?話が合うから?馬が合うから?水が合うから?息が合うから?ノリが合うから?ソリが合うから?
しかし、だとしても。いや、だからこそクラスに女友達の一人や二人居てもおかしくは無い筈なのだ。彼女は女性にモテるタイプの女性だし、僕と違って友達を作るのも然したる労力ではないだろう。
では、なぜ?
そんな思考が脳中で反駁し続ける。
―――しかし、分からない。
僕は10年以上も彼女と一緒にいて、性格も口調もトレース出来て、それなのに、その内面だけは知りえないのだ。確信をもって断言ができず、憶測でしかその内面を知りえることが出来ないのである。情けない話だが。
「僕さ、実はマッチの事が好きなんだ」
どういう経緯でそう言ったのかは、自分でも分からなかった。
間違いだったのかもしれないし、階段を徐々に上るのが億劫になって二足飛びになったのかもしれないし。
或いは、脳裏に浮かんだ幼馴染の顔を振り払うためだったのかもしれない。
ただ一つ言えることは、次の瞬間。
視界の端に映った一台の車が、唐突に。こちらへ向かって突っ込んできたこと。
そして、僕は咄嗟にマッチを付き飛ばして、彼女の代わりに車で撥ね飛ばされたこと。
それだけは、自信と確信を持って事実だと言えた。
第四項
目が覚めると真っ白い天井が視界に入った。
僕はどれほど眠っていたのだろうか。一瞬だったような気もするし、随分と長い間だった気もしている。
どう頑張ってみても、体は殆ど動かない。
僅かに動く眼球を必死に見開き、霞む視界と脳みそで現状を確認する。
白い天井、白い壁、白いカーテン。こじんまりとした椅子。そして、脇から伸びる二本のケーブル。これは僕の体につながっていた。
どうやら僕は病院にいるらしい。
やけにノッペリとしたテレビらしき物体だけは、見覚えがなかった。
「あら、目が覚めましたか」
板の様な液晶を眺めながら微睡んでいると、扉が開き女性特有の高い声が聞こえてきた。僕は細目を開けてその人物がナースさんだという事を確認してから、どうにかこうにか首を振る。
「まだ麻酔が残ってるので動けないと思いますが、直によくなりますよ。テレビ付けておきますね」
彼女はそういうと、僕の眠るベッドの下から黄色い液体の溜まったタンクを回収し、部屋から出て行ってしまった。
日中だという事もあり、テレビから流れるコメンテーターはやはり面白くない事を言ってスタジオを賑わかしている。
なんだか、横長な画面だなぁ。
液晶の左上に見える時刻は5月の4日、実に丸一日も眠っていたらしい。
そういえば、マッチはどうなったのだろうか。
僕がこんな目にあったのだから、なんとか助かってほしいところだけれど。大きな怪我でもあれば笑いものだ。
なんとか無事で居てほしいし、そしてあの時の告白の返事が聞きたかった。
直後に事故が起きた事でどうにも押しつけがましい感じの告白にはなってしまったが、それでもこの一件で彼女との関係が良い方向へ向くのであれば、というかあわよくば付き合えたなら。
そう考えることはやめられなかった。
というか、どうして僕はあのタイミングで告白をしたのだろうか。何か嫌な思考を振り払おうとしていた筈なのだけれど。
どちらにせよ我ながら随分と恥ずかしいことをした。
痛々しい記憶に煩悶し悶絶していると、先程のナースさんが白衣の若い医者を連れて帰ってきた。
「目は覚めていますね。まずは、ご無事で何よりです……確認のために幾つか質問させて頂きますが、よろしいですか?」
彼はそう言って眼鏡を人差し指でクイと上げる。
僕は覚束ない口取りで返事を返した。
「では最初に、ご自身のお名前とご年齢、家族構成と住所をお願いいたします」
「沙魚川 鋼、18歳、両親と姉の4人暮らしで、宇迦之村 3番地5号 御魂荘102号室に住んでます」
しかし、医者はカルテを難しい顔で睨んで、頷くばかりである。
「じゃあ次に、事故の経緯は覚えていますか?」
「知人と一緒に学校から帰っていると、車が突っ込んできました。僕は咄嗟に彼女を庇ったのですが……」
「……えぇ、はい。あなたの助けた人は無事ですよ。代わりに貴方は3メートルも宙を舞ったそうですけど。幸運にも内臓や骨には異常もなく、軽いかすり傷を済んだ見たいですね」
だがその返事には一拍の間があった。
「それでは最後に、現在の西暦をお答え下さい」
「・・・・・・2009年の5月ですよね」
「どうやら事故のショックで記憶が混乱している様ですね。カルテと情報が食い違っていますが、名前は合っているので完全な消失ではないでしょう。今は経過を観察しましょうか」
彼はそう言ったきり部屋を出て行ってしまった。
だが、病院の持つ情報が違うというのはどういうことだろうか。
「あの、本当はカルテに何て書いていたんですか?」
一人残ってメモを取っていたナースに、僕は問う。
「本当は言ったらダメなんですけど……秘密ですよ?貴方は沙魚川 鋼さん、年齢は34歳で現在は奥様と共に住んでおり、お子様が4人。住所は―――」
その後の話は覚えていない。というか聞こえなかった。
なにせ僕は、備え付けのナースコールを思い切り押していたのだから。
ややあって、正気を取り戻し。僕は先生に囲まれながら説明を受けた。
僕は昨日、16年前と似たような状況で事故にあったらしい。直後に記憶が混乱するというのはままあるらしいが、記憶が僕の体と共に飛んだのは、やはり16年前の事故が原因だと言われた。
この17年の間に何があったかは僕の妻の方が詳しいだろうと言われ。そうして現在、僕は見ず知らずの女性を待ちぼうけている。
何が何だか分からない。全く持って理解不能だけれど、しかし記憶喪失というあまりにもファンタジーな状態に、僕は存外順応しつつあった。
それが漫画大国である日本の学生だからか、それとも単に僕の脳みそが現状を受け止めきれていないからかは分からない。
ただ幾ばくか細くなりハリも無くなった腕を眺めていると、本当に自分の体がおっさんになったと言う事は理解ができた。許容は出来ないけれど。
なんだって、僕が失った時間は16年だ。
16年といえば、僕が生まれてから事故を起こすまでの時間をもう一度繰り返せるほどの長さである。
失うにしても忘れるにしても、あまりにも長く、そして大きすぎた。
とはいえ、どういう訳か僕はそんな現状を映画でも見るような感覚で受け止めている節がある。あくまでも他人の人生、あくまでも画面の向こう側の出来事。
実際に16年間は僕の預かり知らぬところで僕の人生が誰かによって進められていたのだから今の体は他人と言い換えても、それはあながち間違ってはいないのかもしれない。
そんな心構えだからか、僕は今からやってくるという見ず知らずの妻と出会える事を少しだけ楽しみに待つ余裕すらあった。
―――さて、現れるのは僕の知っている人間か知らない人間か。
確率的に言えば知らない人間である可能性の方が高いのだけれど、なんというか、それが水門 真智であればいいな。なんて事をぼんやりと考えている。
なにせ僕は昨日、というか16年前の昨日に。水門を事故から助けたのだ。
それを笠に着て彼女を手籠めにするする様な事はしたくないけれど、とはいえ直前に僕は告白をしていたわけだし、向こうがお礼もかねて試しも付き合ってあげると言い出す可能性も、やはりゼロではないのだ。
もしもそれで上手く行き、高校卒業と大学生活で分かれずにいたのなら結婚だって視野に入る。
過去の自分という、もはやどこにも存在しない人間に対して強く祈っていると、廊下の向こうから何者かがあわただしく走ってくる足音が聞こえてきた。
僕はベッドのフレームに預けた背中を伸ばし、できうる限り真剣な面持ちで彼女を待つ。それにしても、今の僕は身なりを整えているのだろうか。直前になってそんな思考が浮かんできた。
向こうにとっては毎日出会う相手とは言え、僕からすれば初対面の可能性だってある
僕は生来の気質が面倒くさがりだし、就いている職種によってはみすぼらしい格好をしていてもおかしくはない。
髪を整えるくらいは、いや、せめて顔を洗うくらいはさせてほしかった。
そんな事を考えていると、勢いよく扉が開かれて一人の女性が入ってきた。
「奥様、病院では歩いてください」
それは、およそ僕が予想できる約10年後の姿にほど近い容姿の。
神崎倭文、その人であった。
第三項
どうしてお前が?まさか、倭文がここにいるわけがない。こいつだけは何があってもあり得ない。こいつはそういうのじゃなくて、悪友みたいなやつだ。もしくは腐れ縁。男友達。悪友。決して異性とか、少なくとも恋愛対象だけでは決してない。何かの間違い、手違い、ノーカン。ノーカウントだ。
『あなたは長谷川 鋼さん、年齢三十四歳、子供が四人』
「子供……」
僕の脳裏に先ほどの看護婦さんの言葉が反芻した。
ない。ない。それだけは絶対にない。最大たる障壁であるこいつの性格が治ったのならいざ知らず。いや、十六年もあれば治った可能性もあるのか。或いは彼女は僕の結婚相手ではなく、事故の話を聞いて駆け付けたとも考えられる。倭文の足の早さと住んでいる場所を鑑みれば、そこら辺のタクシーよりも先にたどり着いたとて驚きも無い。何より彼女とて僕の様な貧弱な青瓢箪などは御免だろう。
奥様と呼ばれてた気もするが、気のせいだ。
疲れたような、安心したような、怒っているような。とにかく彼女はベッドに寝転がる僕へと駆け寄り、覆いかぶさるようにして抱きついてきた。こいつは僕を絞め殺そうとしているのか!?或いは何かの冗談かと思って体を引きはがそうとするも、あまりにも強い抱合でビクりともしなかった。
「良かった。病院へ担ぎ込まれたと聞いて気が気じゃなかったんだかね」
・・・・・・本当に、ない。の、だろうか。
冷静に、俯瞰的に見て、顔は悪くない。少々性格のきつそうな近寄りがたい雰囲気だが、幼馴染で否定的という色眼鏡を抜きにしても美人であることは否定のしようもない。高校の時にやっていた陸上部は卒業後やっていないのか肌もすっかりと白くなり、髪も伸びて人妻特有の色気も醸し出している。四肢は記憶と変わらず引き締まっていて、長い。元から高かった身長もさらに伸びている。体も少々ガッチリムッチリとしているが、それは不精無精の怠惰による結果というよりもアスリート的、健康的な体つきと言うほうが近かった。あと、部活をやめた成果は胸にも多少は出ていた。
・・・・・・本当に?本当に無いか?無理と言えるか?断言できるか?僕は僕が分からない。全く持って信用できない。というか、これはこの年中発情したスケベ女郎に無理やり犯されたと考えるべきではないだろうか。そうだ、僕はこいつに組み伏せられても逃げられる気がまるでしないではないか!
だが小刻みに振るえる肩に触れていると、僕の力はどんどんと抜けてしまう。
「心配かけてごめん」
たまらず声が零れた。居たたまれずに漏れたのかもしれない。痛ましかったかから。
彼女の頬を伝って落ちた雫が僕の額を濡らした時、しかし彼女は「イヤ」と云った「・・・・・・ありがとう、心配してくれて」
すると倭文の震えは止まって、代わりに抱合の力が強まった。僕の体からはミシミシと嫌な軋みが鳴り響く。
「五人目を作ってくれたら、許してあげる」
がその後すぐに倭文は僕の耳元で囁いた。すねた子供のように、さりとて子供は使わない湿った声で。
本当に、この十六年で何があったんだ。何が起こったのだ。
分かることと言えばただ一点、ナースや先生に囲まれて居なければ、彼女がこの場でおっぱじめていたであろうことだけである。
嗚呼、神様。僕が何したってんだ。
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