第三葉:舟渡鳴子(1)
☆☆☆☆☆
久しぶりに、ワタシはそこに居た。
宇宙の暗闇に浮かぶ無数の本棚。いっぱいに詰まった本は、ワタシの宝物。自由に飛んで表紙を眺める。手に取ってパラパラとめくる。ワタシが学んだことだけが、手に入れたことだけがここにある。
はずなのに。
「す~~く素敵~~所だね」
「アナタ誰? どうしてここに?」
微かに聞こえた、誰かの声。声の主は遠くにいて、姿はハッキリ見えない。細長い何かの上に立って、こちらをじっと見つめていた。
「わたしは──」
誰かの言葉は、カンコンと響いた鐘の音でかき消された。
☆☆☆☆☆
「うるっさい! もう起きたって!」
しつこい鐘の音に悪態をついて起きる。向かいのベッドからゴソゴソ身動きする音が聞こえて、『しまった』と焦るところまでがワンセット。
「ん……」
「ごめん、舟渡さん。叫んでうるさかったよね?」
とっくに相部屋だった。中等部の二年間、長らく空いていた部屋の反対側は今や、同居人のもの。殺風景なワタシの側と違って、壁にコルクボード(インスタントカメラの写真とか行事予定とか貼ってある)、チェストに写真立て(幸せそうに笑う三人家族)、ベッドに蜘蛛の巣みたいな海外の民芸品(ドリームキャッチャーと言うらしいが、リアル寄りでやや不気味)が飾られている。
「気にしてないよー。おはよう、櫂凪ちゃん」
目をこすりながら鳴子が起きた。ひよこのイラストが沢山あしらわれた、橙色のパジャマが可愛い。
「おはよう」
「……」
上半身だけ起こした状態で、鳴子は半開きの目を数回瞬き。両手を天に突き出した。
「起きた! 顔を洗いに行こうっ!」
「う、うん」
いつもいきなりフルスロットルで元気になるので、驚いてしまう。
「髪、梳くの手伝おうか?」
ベッドに座り、ヘアブラシ片手に聞かれた。短いから早いのか。
ワタシの長い髪がついたら悪いので、丁重にお断り。
「大丈夫。テキトーに留めるか結ぶだけだし」
「ええー、せっかく綺麗に伸ばしてるのにもったいないよー」
「伸ばしてない。ほっといたら伸びただけ」
後頭部で雑に髪をまとめるワタシを見て、鳴子は自分のふわふわ髪の毛先を、掌で上下に遊ばせる。
「羨ましいなぁー。わたしは伸ばしたら大爆発しちゃうから」
「ワタシからすると、舟渡さんの方が羨ましい。ゆるふわで可愛いし、似合ってる」
「そ、そんなことないよー。櫂凪ちゃんだって──って、時間!」
照れて謙遜する鳴子は、チェスト上の時計を見て立ち上がった。こちらも支度が済んだので、タオル等を持って部屋を出る。
洗面室までの廊下。向こうから歩いてくる数人の下級生。ワタシが咳払いしているうちに、鳴子は片手を上げて元気良く一声。
「ごきげんよう!」
まだ挨拶の
「ご、ごきげんよう」
ワタシが言い終わるかどうかのところで、もこもこパジャマ姿の下級生が会釈。
「「「ごきげんよう」」」
鳴子も会釈して、すれ違い様に軽く声かけ。朗らかな笑顔を添えて。
「良い朝だね! 田辺さん、三矢さん、菱山さん」
「あ、はい」「良い朝ですね」「どうして名前を?」
「毎日すれ違ったら覚えるよ! じゃあ、またね!」
名前を呼ばれた下級生が驚いている。ワタシも驚いている。中二グループだからワタシなんか彼女らと一年間一緒に暮らしているのに、初めて名前を知った。
「よく下級生の名前覚えられるね」
「同級生も上級生も、話せた子はだいたい覚えてるよ!」
胸を張って自慢げな鳴子。
「ワタシは全然だわ。何回か食事の班になった子でも怪しい」
「櫂凪ちゃん、勉強得意なのに意外だね」
家族からもよく言われることだ。たまに帰った実家で学校の話をしないワタシに、両親や妹がいつも繰り返してくる。何度聞かれようと、答えは同じ。
「だって興味ないし」
「えっ……」
驚かれた。さすがに嫌われるかもしれない。もしくは家族みたいにガッカリするかも。いくつか反応を想定して身構えたが、続いたのは想定外の言葉だった。
「じゃあ、勉強に興味があるってこと?」
「まぁ、そうなるかな」
「すごい! わたしも興味が持てたら、櫂凪ちゃんみたいに賢くなれるかなー!」
目をキラキラさせて、というのは本当にあるんだなと思った。ワタシの言葉の良いところだけを取って、鳴子は明るく言う。……これだ。体感してみて、同じクラスの子達の気持ちがわかった。
鳴子は転校してきて三週間になるが、お世辞にもフレンドリーとは言えない生徒ばかりのこの学校に、見事に馴染んでいる。ワタシと同じ異物にも関わらず、だ。その理由の一つが、この朗らかで素直で、ポジティブな性格。
言動や行動に嫌味が無く、話しているうちに自然と距離が縮まっていく。【さん】付けから【ちゃん】付けに変わったの、いつだったんだろう。気づかなかったし、悪い気もしない。
……あ。何か言ってあげないとマズイか。ワタシみたいになれる、とか。ちょっと無責任過ぎるな。一般論として興味ある方が勉強は捗るけど、皆は見るだけじゃ覚えられないらしいし……。
返答が浮かばず、チラリと顔色を伺う。小声で何か言っていた。
「~~そっか。だから、あんなにたくさん──」
「──だから? たくさん??」
聞き返すワタシに、掌を横に振って慌てる。
「あ、いや! だから、たくさんのことを知ってるんだなって」
「ワタシ、そんな
「たぶん?」
謎に疑問形。その後はいつも通り、別々の朝食班で食事を取った。黙々と食べるだけのワタシと違って、鳴子はちゃんと、班の人とお喋りする。だから部屋に戻るのはワタシの方が早い。一足先に着替えて登校準備。自習室に籠った。
間仕切りされた机が並ぶ、朝の自習室。居るのは、ワタシだけ。ペンの音、消しゴムの音、本をめくる音。ワタシの行動で起こる音だけが聞こえる、心安らぐ時間。受験前は高校三年生が居ることもあるが、朝は大体こんなもの。朝食を急いで済ませても、登校まで三十分あるかどうかなので、おかしくもない。
「ん。もうこんな時間」
ノートや筆箱をスクールバックに詰め込み、自習室を出た。鳴子が来てからは、少し短く切り上げて一緒に登校している。いくらワタシでも、同室・同学年・同クラスの転校生を一人にするほど薄情ではない。
数少ない庶民仲間(?)なのだから、なおのこと。
「お待たせー。……あれ? その格好──」
「──櫂凪ちゃんを驚かせようと思って! お古をいただいたんだ!」
部屋の扉を開けて目に飛び込んできたのは、ワタシと同じ茶色制服姿。待っていたらしく、鳴子は部屋の真ん中で、体を右に左に半回転。膝下丈のチェック柄スカートがふわりと広がった。
茶っぽい髪色と制服の色が合っていて、宣伝モデルと言われても信じるしっくり具合。
「似合ってる。すごく」
「嬉しい! こうしたらお嬢様っぽいかな?」
スカート側面をつまんで片膝を後ろに、膝を折ってカーテシー。
「どうだろ? あんまりそれやってるところ見ないから」
「そっかー」
少し残念がって、スクールバック片手に部屋の外へ。ワタシも続く。
「お古を貰ったって、誰から?」
「貰ったのは同じクラスの~~ちゃん。でも、制服はまた別の人のだよ。~~ちゃん、下の姉妹がいない知り合いに、声をかけてくれたらしくて。お礼は断られちゃったけど、お手紙を送ろうと思ってるんだ。今日~~ちゃんと一緒に写真を撮って添えたら~~」
そこまで人に可愛がられているとは……。話を聞いて驚くと共に予感がした。今日はもしかしたら、【鳴子の凄さを思い知らされる日】なのかもしれない──。
──ワタシの予感は的中した。三限目の体力測定の時間。日差し降り注ぐ校庭で鳴子は、陸上部のエース【
ミュージカルの男役が如く、凛々しくも爽やかな声が響いた。
「鳴子さん、私と陸上をやってみない?」
「えっと、わたしは……」
優雅に片手を差し出す、高身長アスリート体型褐色黒髪ショートカットボーイッシュ少女。それを受けて、ゆるふわミディアムヘア天真少女が頬を染め愛らしく戸惑う。二人とも体操服の半袖半ズボンながら、王子と姫に見える気がした。背景で花が咲いていそうな、少女マンガのビジュアル。
まぁ、戸惑う鳴子が頬を染めているのは、百を超える回数もシャトルラン(二十メートル)を走ったばかりだからだろうけど。……だよね?
「その……、スタート合図を待ってる間に眠っちゃうから……」
「心配しないで。フィールド競技であれば、スタートに難があってもきっと大丈夫。跳躍も投擲も、鳴子さんならできるよ」
断る鳴子に、涼香はひと押し。そう言いたくなるのも頷ける。鳴子は走る種目では涼香に僅差で及ばなかったが、握力や反復横跳び、ボール投げでは
涼香の再びの誘いに対し、鳴子は答えと同時に頭を下げた。
「ごめんなさい! わたしっ、人の注目が集まるの、苦手なんです!」
あ、そっか。陸上のユニフォームって、動きやすさ重視過ぎるから……。男の人が苦手らしい鳴子からすれば、注目が集まる服装は嫌なんだろう。スタイルも良いし。事情を知らない(かもしれない)涼香に伝わるかな……。
様子を心配していたら、涼香は眉をハの字に困り顔で笑った。
「それなら仕方ないね。強引に誘ってごめん」
「気にしないで! なんだか運動を褒められたみたいで、嬉しかった!」
「褒めるとも。私についてこられるなんて、中等部では鳴子さんが初めて。良く鍛えているね」
バリッとしたふくらはぎを見て、感心する涼香。鳴子はちょっと照れつつも嬉しそうにする。それはセーフなんだ。
昼休み。ワタシにとっては最もツマラナイ時間。でも、鳴子にとっては違う。
「櫂凪ちゃん! 一緒にご飯食べない?」
「遠慮しとく。早く図書館行きたいし。無理して誘わなくていいからね?」
「無理してないよー。いつか一緒に食べたいから、また誘うね!」
購買で一番安い総菜パンを買って、教室へ戻る道すがら。同じく購買を利用する鳴子はいつも、ワタシを昼食に誘った。鳴子だけなら応じても良いが、そうならないから毎回断っている。
教室に戻ってからは、それぞれの席へ。給食でもないのに、食事は必ず教室で取らないといけないのが煩わしい。皆、誰かしらと席をくっつけて一緒に食べているが、ワタシはそうしない。
水筒の水でパンを流し込んでいたら、前で机五つ分の島を作っている沙耶が振り向いた。
「櫂凪。いい加減その品の無い食べ方を止めてちょうだい」
「沙耶に迷惑かけてないでしょ」
「馬鹿ね。貴女がそれで喉に詰めて、救急車でも呼ばれてみなさい。夕霞女子学院が世間から笑いものにされてしまうわ」
そこまで言って、沙耶はジロジロとワタシの買ったパンの包装紙を見てくる。
「……栄養費、出てるんでしょ?」
「それが何?」
「減らされでもした?」
「違うけど」
「じゃあ節約?」
「してない。領収書提出の後払いだし」
「間違ったダイエット」
「してないって」
沙耶は溜息をついた。
「はぁ。だったらもっと食べたら? 貴女、やたらに背が伸びたんだから。そんなんじゃ育たないわよ」
体をねじってワタシを向く沙耶は、わざとらしく胸を張って見せる。伝えたいのは、プロポーションの良さ。平坦痩せ身のワタシと違って、沙耶には確かなメリハリがある。
「別にどうでも。アンタと違って婚活に興味ないし」
「ふんっ。わかってないわね。増えて栄えるは生物の基本。ウチの優秀な遺伝子を次世代に残さなきゃ、世界の損失だもの。それに、一代限りじゃないから先のことを考えられるの。家も国も、そういうものでしょ?」
ドヤ顔。沙耶にとって勉強や趣味の武道は、自分の魅力(知力、体力、忍耐力、健康な肉体など)を高め、アピールするためのもの。優秀な旦那を捕まえて跡継ぎを作り、家を発展させるんだとか。中三とは思えない、なんとも高尚な考え方だ。
同じ増えるでも、増えて困窮している我が家とは大違い。狭い部屋を思い出して気分が下がった。
「はいはい。ご立派なことですね、沙耶様は」
「ええ、立派よ。と言うか、本当にわかってないみたいだから、もう一回言ってあげる。健やかさや逞しさの力を軽視しないこと。あらゆる場面で役立つのだから。今後はしっかり食べなさい。貴女一人に施してとやかく言う小物なんて、この夕霞にはいないもの」
返答を待たずに、沙耶は前に向き直った。……パン一個にしてるのは、早く食べ終えて図書館に行きたいからなんだけど。それに沙耶が違うだけで、ワタシが学費その他を免除されてることを嫌う人は、そこそこいる。
食べ終わったので、鞄を持って席を立った。教室前方の扉から出る時、一瞬だけ、近くに席を固めるグループと目が合う。机に化粧品を広げる、派手な茶色巻き髪の【
視線を外して扉に手をかけても、何も言ってこない。毎日嫌がらせしてきていた中一の頃とは、えらい違い。教室を出て扉の外へ。ちょっとだけ会話が聞こえた。
『アイツ、上から目線でマジ調子ノってる。
『えっと、その……』
『実んちの寄付金、アイツに使われてんだよ??? それであの態度は絶対、調子ノってるって!!!』
『う、うん……』
『あ、そうだ。いいこと思いついた。この後さ~~』
気弱な声の子に、何やら言う真理華。小声だしどうせツマラナイ話なので、構わず図書館へ。圧をかけられていたのは多分、【
ワタシが何もされなくなったのは、中一の途中から背が伸びて、真理華よりずっと高くなったから、かもしれない。痩身のままだと迫力が無いって言いたかったのか。
考えてみれば鳴子も転校翌日、真理華にちょっかいをかけられていた(冗談にカムフラージュして肩を強く押されていた)が、ビクともしないで普通に笑っていた。それ以降、真理華は鳴子に絡んでいない。……なるほど。
昼休み以降、真理華の嫌がらせを警戒してみたが、変わったことはなかった。
「む」
終礼が終わり、教室後方のロッカーを開けて気づく。ない。面倒だな。空きロッカーにも……、ない。ベランダは──。
「──櫂凪ちゃん、一緒に帰ろう!」
「あー……、探し物あるから、舟渡さんは先に帰ってて」
声をかけてきた鳴子に、掌だけで返事。残念ながら聞き分けてもらえず。
「探し物って?」
「体操服。失くした」
「……誰かにイジワルされた?」
意外にも直球で聞いてきた。心配されたくないので、軽く返す。
「恐らくね。たまーにあることだから。気にしないで」
「気にするよ! わたし、聞いてこようか?」
鳴子がちょっと、鼻息を荒くする。聞くってことは、目星がついてるのか。ほわほわしているようで耳聡い。
ワタシも鳴子と同じ相手に視線を向ける。三つ編みお下げ髪で丸眼鏡の小柄な女子と、目が合った。女子は……、小野里さんは自覚があるのか、ビクリと肩を震わせた。
体操服隠しの実行犯なのは間違いない。が、聞く気にはなれなかった。
「ほっといていいよ。別にやりたくてやってないだろうし」
「……。櫂凪ちゃんがそう言うなら聞かない。許してあげて優しいね!」
首を横に振って返事。
「ううん、普通に恨んでるよ。一秒でも長く勉強したいのに、こんな無駄な時間をさ」
不憫だから攻めないだけで、それなりに腹は立っている。つい語気が強まってしまったせいか、鳴子は視線を落とした。
「ご、ごめん」
「なんでよ。舟渡さんは悪くないから」
「……」
目を瞑って考え込んでいる。……違った、寝てる。
「おーい、寝てるよー」
「ッは! ねぇ櫂凪ちゃん、こっちに来て!」
目を開けるなり、鳴子はワタシの腕を取った。力が強い。
「ちょ、いきなりなに?!」
「いいからいいから!」
ぐいぐい引っ張って、教室の外へ。目的地は最寄りの女子トイレ。
「舟渡さん、我慢してたの??」
「ち、違うよ! たぶん、ここに──」
綺麗に清掃されたトイレの一番奥。鳴子は腕まくりをして、掃除用具入れの扉を開いた。
……は?
「──ワタシの?!」
水を張った床拭きモップ用バケツに浮かぶ、体操服袋。もちろん、ワタシの。入ってるのはいい。でも、どうして……。
「なんでわかったの???」
「あっ、えっと、それは……、勘?」
回答に困る鳴子。本人が疑問にする通り、勘と言うには、見つけるまでに迷いが無さ過ぎる。事前に知っていたとか、見ていたとかでないと説明がつかない。だけどそうだとしたら、教えるメリットが──。
「──ふ、舟渡さん、汚れてるから!」
「勘だなんて、変だよね。でも……」
考えは吹き飛んだ。鳴子は迷いなくバケツに素手を突っ込み、体操服袋を回収。中身と袋を用具入れの流し台で水洗いして、ぎゅっと絞る。
「本当に、わかっちゃっただけなんだ。わかったら、やらなくちゃって、それだけ。……こんなの、気持ち悪いよね?」
苦笑い。困っているような、苦しんでいるような。なんとも言い表せない含みを感じる表情だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます