夢見の舟を漕ぐキミと
小鷹 纏
第一葉:舟漕ぐ少女
もし、アナタが悪夢を見ているのなら。
その一葉はいつか、訪れるかもしれない。
もし、アナタが悪夢を見なくなったのなら。
その一葉はもう、訪れたのかもしれない。
ささやかな願いを胸に。夢見は今日も、
☆☆☆☆☆
果ての無い暗闇と無数に散らばる光の粒。上下の区別なく静寂に包まれた空間は、まさしく宇宙の景色。しかしそれでいて、あちらこちらに中身の詰まった本棚が浮かんでいる。
紙が捲られる音がさらり、さらり。本棚の存在も音の伝播もあり得ない事象だが、何もおかしくはない。なぜならここは、彼女の宇宙。やや低くだいぶ細い声がボソボソと、さながら点検の文言で呟いた。
「積分法の公式集は~~ヨシ、欠けてない。演習問題の解法は~~」
読書灯を思わせる暖かく小さな光に、一人の少女が照らされている。白のブラウス、焦げ茶色ベスト、薄茶色チェックスカート、黒色靴下。全て校則通りの、きっちりとした着こなし。手には紺色表紙の本を開いていた。
少女は長身を丸め、長い黒髪を耳かけに空間を揺蕩う。
「~~理屈がわかってないと解けないってことね。楽しい」
ちょっとツリ目を満足気に細くして、近くの棚へ本を戻す少女。少し考え、今度は別の、黒表紙の本を手に取った。
「~~あ。単語の意味が抜けてる。もう一周かな」
ページを送り、不満気に眉寄せ。しばらくチェックした後、顔を上げて一息。黒の本を収めて遠くの本棚へと泳いだ。背表紙の幅も素材も違う本が雑多に並ぶ中から、白表紙の本を取り、パラパラと捲る。
「~~ピルエット、フェッテ……」
内容は、バレエの知識。少女の中でこれらは息抜きの記憶に分類される。先の記憶と違って受験には役立たないが、興味を持って覚えたお気に入りであるのは同じ。宝物を数え、愛でる。幸福な微睡み。上機嫌で表情を緩める少女だったが、突然、目つきを険しくした。
「違う……! なんで……!!」
声を荒げる。あるべき情報が別の情報に変化していることに気づいて。バレエの動作や名称が並ぶページが、少女と同じ制服の女子数名と、彼女らの他愛ない会話の文字起こしに塗り潰されていた。
──
『今夏は三週間ほどヨーロッパ旅行に~~』『財団の慈善事業で環境保護活動を~~』『近々縁談があるのだけど、お相手の方ったら~~』
──
並ぶ文字列と澄ました表情のお嬢様方に、少女は苦虫を嚙み潰した顔をする。
「こんなの要らない!!」
力任せにページを破り投げ捨てた。本の隅々まで、同様の上書きがないか血眼で探す。
「ここも、ここにも!! 勝手に入ってくるな!!!」
二枚、三枚と、見つけた異物に恨み言をぶつけて引きちぎった。排除が済んだら即座に本を収めて、別の本へ。何十分も、何時間も作業は続いた。
「はぁ……はぁ……」
取り除かれたページが宇宙に白い帯を作り始めたところで、少女の手が止まる。どこからともなくカンコンと、大きな鐘の音が鳴り響いた。
「ワタシの中にあっていいものは、ワタシが決める! まだ終わってないのに!」
叫ぶ声も、本も、宇宙も。あらゆる要素が形を保てず霧散していく。少女の意識もまた、あやふやになっていった。
「あぁ、もう、どうして。眠──」
──☆☆☆☆☆──
──い、ねむい、眠い、眠い!!!
「うるさい! もう起きたって!!」
容赦なくガンガン鳴る鐘。正確には、スピーカーを通して増幅された鐘の音。元がどんなに綺麗な音色であろうと、起床時間の目覚ましになると憎たらしい。
「寒っ……、上着……」
身をよじってできた布団の隙間から、冷ややかな空気が侵入してきた。適温ベッドが放つ春眠の誘惑を断ち切り、上半身を起こす。パジャマの涼し気な水色と白色のストライプ柄が、余計に肌寒さを演出している気がする。
視覚的にも温かくするため、パイプベッドの頭上フレームにひっかけてた、紺色のカーディガンを羽織った。脚の寒さは諦めるしかない。
「はぁ、めんど……」
髪が伸びるのは、どうしてこうも早いのか。ブラシをかけていていつも思う。ついこの間まで肩にかかるくらいだったのに、気づけば胸の高さ。
とりあえず、後ろにまとめてクリップ留め。
チェスト天板上の置き時計をチラリ。午前六時三十三分。ヘアバンド、タオル、歯ブラシを持って、急ぎ足で部屋を出る。よくワックスされたフローリングの廊下が、電灯を反射して眩しい。
進行方向からパタパタと、二~三人分の足音。この時間だから後輩。咳払いで準備する間に、相手側が先に挨拶した。ぴったり揃った声で。
「「「ごきげんよう」」」
「ご、ごきげんよう」
もこもこパジャマの(恐らく)中二グループが、すれ違い様にしゃなりと会釈。花の香水(?)っぽい香りがした。時間の無い朝だろうと常に優雅で、とても年下とは思えない。
午前六時三十五分ちょうど。ズラリと並ぶ洗面台の一番奥で、さっさと洗顔&歯磨き。顔を洗っている時に挨拶されたので、誰かわからない。
「ごきげんよう」
「ごきげんようー」
だけど、そもそも覚えていないのでどうでも良い。適当に挨拶を返し、支度が終わって即、洗面室を脱出。時間がないのもあるけど、そもそも話すことがない。
午前六時四十五分。食堂。一人分の朝食を受け取り、今週の食事班でまとまって席につく。高等部から中等部まで班の全員が揃ってから、最上級生の音頭で食前のお祈り開始。
「父よ、あなたのいつくしみに~~」
信仰していなくても、しきたりなので合わせる。祈りが終わって食べ始めてすぐ、上級生は班の全員に話を振った。ワタシにも。義務でしかない会話。
「~~さんは、新しいクラスには慣れたかしら?」
「えぇ、まぁ。顔ぶれはほぼ同じですので」
新学期になってクラスが変わろうと、ワタシにとってはどこも同じ。この学校で、ワタシとワタシ以外の関係は決まっている。
「進学クラスだものね。でも、人は日々変化するのだから、同じ人でも同じではないわ」
「貴重なお話、ありがとうございます」
ありがたいご指導に分かりやすく感謝を示しつつ、さっさと食べ終えて席を立った。
「お先に失礼します」
「たまにはゆっくりしたらいいのに」
「一秒でも長く自習したいので」
いつものように形式的な誘い文句が来て、いつものようにきっぱり断る。誰もいない部屋に戻り、着替え等済ませて自習室に籠った。
~~
『朝礼~分前です。残っている生徒は速やかに~~』
スピーカーから流れる放送。いくら寄宿舎でもこんなギリギリまで残る人はいないから、ほぼワタシ宛のメッセージ。荷物を持って
「なんでこんな立地にするんだか……!」
日々の登校で体力を養うため、らしいが。学校敷地内に住んでいるのに坂を上らなきゃなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「はぁ……、はぁ……」
微妙な体調。寝不足。体力不足。アンチ運動。一瞬で息が上がった。坂道を駆け上がり、やっとの思いで校舎本館前広場に到達。石造り風の校舎頂上で大きな鐘がカンコンと鳴る。いかにも西洋ルーツの学校らしい光景。
初めて聞いた時は多少感動したけど、三年目ともなれば『
「──いる??!!」
「……」
本館玄関前に誰かいる。知らない白セーラー服の女の子。他校生っぽい。ちょっと茶色のミディアムヘアが、羨ましいゆるふわ感。左側で留めた緑のヘアピンも良いアクセント。女の子はジッと敷地内地図を見ていて……。違う、見てない。瞼を閉じて肩を小さく上下。もしかして……、立ったまま寝てる?
さすがに構ってる時間はない。……ない。……。……あー、もう!
「もしもーし。あのー、具合とか、大丈夫ですかー?」
「……」
「もしもーし!」
「ふがっ?!」
ビクリと体が動き、瞼が上がった。
あ、垂れ目だ。
「ごめんなさい! わたし、寝てました!!」
開眼からシームレスなお辞儀。ふわりと髪が揺れる。校則がゆるい学校なのか、天然クセっ毛なのか。純朴そうだし、天然クセっ毛かも。
「~~し、中~~の職~~を探し~~。目覚ま~~腕~~電池~~」
顔を上げ、真っすぐ見つめて身振り手振りで話し。……可愛い。パッチリ目だけど垂れ目だから圧がなく、顔立ちも髪型も声もほわほわの癒し系。背はワタシよりちょい下で、女子としては高め。薄っすら日焼けしてるのに、肌は綺麗で超健康的。出るとこも──。
「──あのー、聞こえてますかー?」
「へぇ?! あ、ごめんなさい。中等部の職員室なら、本館入ってすぐ左に……」
「あ、そっか! 本館が中等部で、新館が高等部! 前に来た時も説明を受けてたのに、すっかり忘れてました!」
話を聞いてなくて慌てた。声も上ずってたと思う。納得する女の子を見ていて、考えが浮かんだ。
「せっかくだし、ワタシが案内しましょうか?」
「いいんですか?!」
「はい。色々と都合が良いので」
「都合?」
キョトンと首を傾げる女の子。
都合とは、言い訳の都合。
「遅刻ギリギリだから、案内したって言ってごまかそうと」
「なるほど! じゃあ、お言葉に甘えます。……そうだ!」
掌に拳を乗せるポーズからの、ニッコリ笑顔。コロコロ変わる表情も、邪気の無い言動も、この学校にはいない素直さで。
「わたし、
手を取って自己紹介された。温かい手。
「ワタシは……、
知り合いを作る気はないけれど。名乗らないのも変なので、できる限り笑顔を作って返答した。表情筋が突っ張って使い慣れなさを伝えてくる。白けた余韻が残る前に、さっさと先導&案内しよう。
「……時間もないし、行きましょうか」
「うん! ありがとうございます! 櫂凪さん!」
「えっ、あぁ、うん……」
いきなりの名前呼び。名乗っただけでずいぶん距離が近い。とりあえず、玄関を入って靴箱を教える。来客は職員と一緒の列だから……。
「来客用の靴箱はここです。スリッパは、中に入ってるはず」
「……」
返事がない。気になって見たら、女の子は目を瞑っていた。
「どうかしました?? お腹痛いとか──」
「──zzz」
コクリコクリと上下する頭、ゆらりゆらりと前後する体。『舟を漕ぐ』とはよく言ったもの。……じゃない。また寝ている。
「ちょっと、起きて! 職員室行くんでしょう?!」
「んあっ?!」
ワタシの声で目を覚まし、女の子は反射の速度で頭を下げた。
「ごめんなさい! わたし、また寝ちゃってました!!」
「別にいいですけど、寝不足ですか?」
「そうと言えばそう、なのかな?」
質問に疑問調の返し。何もわからず気になるが、今度こそ、それどころではない。
「ちょっと時間ないから、急ぎますね」
「あっ、うん! ホントにごめんなさい!!」
「えっと……、そうだ。靴箱。来客用はここで、スリッパは中」
「う、うん……。あのね」
もう一度説明すると、言いづらそうにモジモジしながら返された。
「わたし、来客じゃなくて生徒なんです!」
──
純白のスカーフを首に巻いた茶色制服の少女が、
「ごきげんよう」
ガラリ、と。戸を開ける音でかき消される小声で挨拶。クラスメイトの視線が集まるのを軽い会釈で切り抜け、窓際最後方の席につく。直後にカンコンと本鈴が響いた。
少女前席の生徒が、太い紅色紐で結った一つ結び髪を揺らして振り返る。
「あら、今日の夕顔の
マロ眉下のツリ目を半月にして、一言。
少女は慌ただしく荷物を整理しながら、ちょっと反抗する。
「そのあだ名、止めてって言ったでしょ、
「いいじゃない。メアお姉様がおっしゃっていたのだから」
「ワタシが気に入ってないの。というか周りが勝手に言ってるだけで、ご本人はおっしゃっていないし」
【夕顔の君】は少女の名前ではない。少女の名前は【
「まあ、贅沢ね」
顎を上げてぴしゃりと言い、前席の生徒【
「はいはい。庶民の分際で、いただきものに文句言ってすみませんねー」
ぶっきらぼうに返答する櫂凪。伊欲家の収入は、公営住宅の入居基準を満たす程度。そのため重役出勤のくだりから皮肉めいている。沙耶の態度・言動は意地悪なものに他ならないが、会話しているだけまだ有情。クラスメイトのほとんどは、櫂凪とまともにコミュニケーションを取らない。
「……」
沙耶は櫂凪の言葉に反応せず、話は続かなかった。冷たい対応だが、いつものことなので櫂凪は気にしない。半目のまま、朝礼用の教典や一限目の教科書を机に広げる。
「(
Srジョアンナとは、クラス担任と校内修道院のシスターを兼業する【
櫂凪が考える間にも教室の戸が静かに開き、黒いシスター服で白髪の
「これより朝礼を始めます。起立」
柔和な口調の号令。
生徒全員、乱れなく椅子から立ち上がる。
「皆さま、ごきげんよう」
「「「ごきげんよう」」」
発声を揃えて。礼は顎を引いて背筋を伸ばし、太腿に添えた手の指先が膝上に届くくらい深く。正確で整った挨拶が交わされた。
「皆、素敵よ。着席してちょうだい」
生徒が着席。普段なら簡単な説話と経典読みが始まるが、この日は違った。生徒に背を向け、白チョークを取るジョアンナ。黒板上方に『サプライズ』の文字が書き込まれる。
説明より早く、櫂凪は意味を察した。
「(あぁ、だからSrジョアンナは……。今朝の子だろうなぁ)」
「今日は皆にサプライズがあります。どうぞ入っていらっしゃい」
ガラリと戸を開け、白セーラー服の女子が入室。頬を染めて教卓前に立った。ジョアンナが説明を始め、その間に女子は黒板に大きく記名。
「諸事情で少し遅れましたが、新しい仲間が編入してきてくれました。自己紹介、よろしくお願いね」
「は、はいっ!」
ちょうど書き終えたタイミングで、自己紹介が促される。女の子は息をすうっと一つ吸って、ほわほわ声ながら明るく元気に言った。
「本日からお世話になります! 舟渡鳴子です! よろしくお願いします!!」
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