第二章 第五話
何かが崩れるような音が、どこか遠くで、そして近くで聞こえたようだった。
僕に残されたはずの最後の救いは呆気なく僕の手から滑り落ちていった。もうそこに我が家はなかった。隣の家もさらに隣の家も変わらずそこに建っているというのに、我が家だけが姿を消していた。そこは更地となり、土地は売りに出されていた。
当たり前のことだ。数十年もの間、誰も訪れることなく、管理されることなく、空き家となっていたのだから。勝手に取り壊されたところで文句は言えない。しかし———。
痛烈に、僕は吐き気を覚えた。嗚咽を漏らした。あまりの苦痛に僕の体は悲鳴をあげていた。全身から力が抜けてゆく。為す術もなく、そこに立ち尽くすことさえもままならなかった。自分の選択が自分の全てを失うことになろうとは。
来る日も来る日もその吐き気は僕を襲ってきた。お前が犯した罪だと、刑罰を受けろとそう言われているようだった。苦しみは更なる苦しみを生み、逃れたいと全身が悲鳴を上げながらも、それでも僕は、縋るように、その更地から離れることができなかった。
君を失い、家を奪われ、精魂果てた僕はあっという間に見るも耐えない姿へ変わっていった。ヒトになって初めて、僕は容姿が変わっていった。
ただ更地に座り続ける不気味な僕に、近寄る者などおらず、髪も髭も伸び切った姿は「得体の知れぬ生き物」という名前がぴったりだった。
草をむしり、そこから水分を得、虫を食らう、まるで獣のような生活。それでも決して死ぬことはできない。探せど探せどこの地獄から抜け出す道は、どこにもない。ただひたすらに僕はこの刑罰を受けた。自分の犯した罪なのだと言い聞かせた。君を傷つけた罰なのだと。
そして心のどこか片隅で、君は救われていてくれと、そう願うばかりだった。僕のことを綺麗さっぱり忘れ———変わらずあの笑顔を見せていてくれと。
あの日ツリーを買いに出かけていなければ僕はヒトにならずに済んだかもしれない。そう考えたことは数えきれないほどあった。しかしその思いは君と過ごす時間の中で次第に癒えていった。もしヒトになっていなければ君と出会うこともなかっただろう、であればヒトになったことも悪くなかったかもしれない。そうとまで思った。
この世界で長らく孤独に生きてきた僕にとって、君との日々は何にも代え難い宝物で、それがどれほど脆いものであったとしても、決して失いたくない、壊されたくないものであった。僕自身を否定せず、そこに光を注いでくれたのは君だけだったのだから。
けれど僕は自らの手でその幸を壊してしまった。再びツリーを買いに出かけたことによって。どれほど後悔しようともう手遅れだ。時は戻ってはくれない。君を取り戻すこともできない。自分がヒトであることを知りながら、君の人生を破壊するだけの能力を持つと知りながら、君を僕の生の中に呼び込んだのだから。
体の骨の形がわかるほどやつれてもなお、僕は獣の目つきで生きながらえていた。全く手入れのされない更地には、これでもかと意気揚々と雑草が生え踊っている。かつてこの土地に美しい家が建っていたなんて、それもこの獣が人間として暮らしていたなんて、誰が思い至るだろうか。暴れ狂う雑草が今の僕を嘲笑っているようで、なんとも憎たらしい。
苛立ちを覚えた僕は感情に任せて雑草を鷲掴みにし、根こそぎ引き抜いた。火花のように小さく迸(とばし)りの破片が散る。根を奪われ、無造作に空けられた穴には薄っすらと氷の膜が張っていた。
道ゆく者全てに敵意を剥き出しにし、誰も寄せ付けない。こんな姿では、心優しい君でさえも近寄ってはくれないであろう。
君との時間をかき消そうともがけばもがくほど、苦しみが、痛みが、心に刻まれれば刻まれるほど、僕は醜い獣へと変貌していった。
君には尋ねたいことが山ほどある。僕の正体に気づいていたのか。不審に思ったことはないのか。僕と一緒にいて寂しい思いをしてはいなかったか。
しかしそのほとんどを僕は聞けずにいた。君を失うことを恐れるあまり、何も聞けなかった。どれか一つでも尋ねてしまえば、人間とヒトとの関係など呆気なく散ってしまうと思った。
君との日々を、大切に大切に、ただ一つの傷をつけることなく、壊すことなくずっと、この手の中に収めておきたかった。失いたくなかった。それなのに僕としたことが。どんなに聞きたいと願ったところで、もう二度と知ることはできない。招いた結末は思い描いていたものよりも遥かに残酷であった。
どれほど姿が獣になろうとも僕には変わらないものが、変えられないものがあった。それは人間でありたいと願う心。どれほど人間からかけ離れた生物になったとしても、僕は人間でありたかったのだ。
ヒトとしての生を受け入れ生きる者がいる。収容所から出ることを望まず、その土地で新たに家を建てヒトとして生きる者。能力を制御し、その姿形に気を配り人間のように生きる者。けれどそのどれもが僕には当てはまらなかった。
僕は気がつけなかった。能力に囚われるあまり、自分も人間と同じ人という生物であることに。人間でなければ、この地球上で堂々と息をする権利などないのだと、自分で自分の首を締め上げたのだ。
僕は自分を責め続けた。自分が自分ではなくなる感覚の中で、誠実に罰を受け入れようとする僕と、そうはさせまいと暴力的になる能力。その狭間でもがき続けた。
決して野放しにしてはならないと言い聞かせる。しかしやせ細った思いなど、虚しさの中で全ては能力に奪われてゆく。抗おうとする気力と体力を、この忌々しい能力は簡単に奪い去ってゆく。吐き出す場のない後悔、波のように湧き立つ怒り。どうすることもできない絶望。抱えきれない思いは次第に形を変えてゆく。
僕自身の中に留まらなくなった能力は、矛先を君との時間へと変え、周囲の町へと広げ、ついには人間全てに対しての憎悪へと突き進ませていった。
心の底から人間でありたいと願い、ヒトという存在に呑み込まれまいとしていたことが嘘のように、僕の心は憎しみで煮えたぎり、黒い影に支配されていった。
意思とは裏腹に日々強靭になってゆく力を抑えようという気持ちはもう、微塵も残っていなかった。更地が固く、冷たくなってゆく。好き勝手に生え踊っていた奴らは、根から先まで凍りつき、身動きひとつ取れなくなった。氷柱へと姿を変えた雑草は、刺々しく、針のように地面から伸びていた。
この様子を誰が目にするなど、もうどうだっていい。彼らが恐れ慄こうが、僕を罵ろうが、頼む、もう、好きにしてくれ。
それは大きな空に明るい日差しの差し込む、美しい夏の日であった。照り返す太陽の中、あの小さな広場では子どもたちが元気に駆け回っている。
突然吹っ切れたように僕は、その能力に抗うことをやめた。肥大化する能力とは裏腹に、日々やつれて骨々しさを増す身体。服を脱ぎ捨て、上裸になり、僕は唸り声を上げた。この世の全てを破壊させるが如く、叫び声を上げた。身の毛もよだつ、野獣のような声だった。
人ひとり目をくれることもなく、負のオーラを全身に纏った僕は、この小さな町を駆けずり回った。全ての力を解放した。
僕の迸(とばし)りが一人の幼子を捉える。抱える母親の腕の中で悲鳴をあげる幼子。我が子の異変に怯える母親。その悲鳴は木霊する様に大きく、町中に響き渡った。
あっという間に町一帯は氷に覆われた。家、道、広場。花、木、川。全てのものが一瞬にしてその生を失った。逃げ惑う人々。収まるところを知らない僕の能力。凍りついた町は、そこに住む全ての生き物の幸を奪っていった。
一つの小さなショーウィンドウが僕の目に映った。凍りついたそのガラスの向こうには可愛らしいワンピースが飾られていた。僕の目には君にプレゼントしたワンピースと全く同じ色に映った。
それを捉えた時の僕の顔が脳裏に焼き付いて今も離れない。その姿にかつての僕の面影はなかった。憎悪に満ち溢れた目は鋭く釣り上がり、やつれた顔肌は不気味なほど艶やかに、青白く光っていた。骨の形がくっきりと露わになった胸板に、一切の手入れを怠った髪や髭が縦横無尽に僕の皮膚を覆う。
じっとショーウィンドウを見つめていると、ジリジリと微かにガラスが震える音がした。
僕が踵を返して歩き始めた途端、そのガラスは一気に崩れ落ちた。それを合図にしたかの如く、家、店、電話ボックス、ありとあらゆる建物で同じことが起こった。
人間の頭上にはガラスの雨が降り注ぎ、辺り一面に破片が飛び散った。氷の道と化した路面と撒き散らされたガラスが混ざり合い、町中に鋭い棘が舞っているかのようだった。
ポタリポタリと気味の悪い水玉が作られてゆく。逃げ遅れ、僕の能力の餌食となった者、凍りついた路面やガラスの破片に殺られる者、その全てが作り出した水玉は異様な光を放っていた。しかしそれすらも僕には生々しい赤には見えず、ただの黒い点にしか見えなかった。
一体どれほどの人間を脅かしたのだろう。大好きだった町は僕の手によって呆気なく壊されていく。かつて子どもたちと戯れた小さな広場は見る影もなく、あのクリスマスツリーの店は完全に凍りつき、ぎこちなく置かれていた看板は一切の文字が読めなくなっていた。
この町の全ては、跡形もなく、悍ましい姿へと変貌を遂げた。またしても僕は大切なものをこの手で破壊してしまった———。
次に目を開けたとき、僕の目が捉えたのは、一つの黒いかすり。再びあの白い天井を見つめていた。
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