ヴォドニークの小箱

鐘古こよみ

1・白ユリ姫



 ヴォドニーク

 ヴォドニーク

 小箱に何を隠しているの



     *


 おばあちゃんは胸に陶器製の小さな瓶を抱えていた。

 丸っこくて、口のところはすぼまっていて、掌に乗る大きさ。

 白地に青い絵の具で草花の模様が描かれていて、よく見ると白い部分は、ユリの花の形をしている。

 口には蓋代わりに、ろうの塊が詰め込まれていた。

 わたしが見ていることに気付くと、おばあちゃんは耳元で小瓶を揺らしてくれた。 〝ちゃぽちゃぽ〟と、ほんの微かな音がした。


「お水が入ってる」

「ヴォドニークの沼だよ」

水の魔物ヴォドニーク?」

「そう。最初は深く大きかった沼も、長い年月が経つうちに、どんどん小さくなってね。干上がる前に、私のおばあさんが最後の水を汲んだんだ。沼に棲むヴォドニークと白ユリ姫の魂を、助けたかったんだよ」

「そのお話、聞いたことない」

「おや、そうだったかい。じゃ、話してあげようかね」


 森の中には疲れた顔の人たちが座り込んでいた。

 みんなみんな、わたしたちの村から一緒に逃げてきたのだ。

 ドイツ人の傭兵部隊がやって来る。

 そんな報せを聞いて、少しの荷物と子供を抱えて、着の身着のままで逃げてきたのだ。病気や怪我で歩けない人たちは、置いてくるしかなかった。

 傭兵部隊が去った後には、草の根一本残っていないらしい。


 わたしとおばあちゃんは、大きな樫の木の根元に寄り添って座った。

 わたしの額についた泥を、皺だらけの乾いた指で擦り落として、おばあちゃんは眠る前のお祈りのように、低い声で話し始めた。


「私たちの村の近くには昔、領主の貴族様のお城があった。

 そうさね、二百年ばかし前のことだよ。

 今じゃ跡形もないが、塔や跳ね橋や矢狭間のある、小さな石造りのお城でね。

 領主様とその妻や、騎士と道化師や、月色の髪のお姫様が住んでいたのさ。

 なぜ今はないかというと、大きな洪水が起きて、全てが流されちまったからだよ。近くに大きな川があるわけじゃなし、不思議だと思うだろう。

 これは、どうしてそんなことが起きたのかって話なのさ。

 月色の髪のお姫様の、本当の名前はわからない。ただ〝白ユリ姫〟とだけ伝わっているから、このお話の中でも、そう呼ぶことにするよ。

 白ユリ姫は、とてもかわいい、森を愛するお姫様だった……」


 おばあちゃんの肩に頬を寄せて、わたしは目をつむった。


     ◆


 白ユリ姫が生まれて間もなく、母親は死んでしまった。

 領主である父親はすぐに後妻を娶り、白ユリ姫を乳母に預けて、近くの村で育てさせた。村の子と一緒に育った白ユリ姫は、七歳の時にお城へ戻ることになった。

 貴族の娘として、貴族の家へ嫁ぐために、行儀作法を知る必要があるからだ。


 けれども、お城へ戻った白ユリ姫を、後妻と腹違いの妹は冷たく迎えた。

 父親はいつも出掛けていて、帰ってきた時も忙しい。

 召使いも、騎士たちも、道化師すらも、知らん顔。


〝夕暮れ姫〟

 間もなく白ユリ姫は、お城の者たちから、そう呼ばれるようになった。

 森や湖へ出かけたきり、夕暮れになるまで帰ってこないからだ。


〝カエル姫〟

 そんな風に呼ぶ者もあった。泳ぐのがとてもうまいからだ。


〝迷い姫〟

 そう呼ぶ者もいた。慣れないお城の中では、いつでも道に迷っていたから。


〝魔物姫〟

 そう陰口を叩く者もいた。森で草花や虫や小鳥と、話す姿を見たから。


 ――だって私はお城の中より、樫の木の洞や苔むした岩の上や、お魚の隠れている青い淵が好きなんだもの。


 白ユリ姫は、なんと呼ばれようと気にしなかった。

 お城より森で過ごす時間の方が多いまま、やがて十歳になった。


 朝目覚めると、丈夫な毛織の赤いスカートを履き、亜麻糸で織ったブラウスを着て、左右に容れ物の縫い付けられた白いエプロンを身に着ける。

 月色の髪には、黒地にアネモネの花の刺繍が施された、幅広のリボンを巻く。

 そして木靴を手にぶら下げて、裸足で森へ出かけるのだ。


 エプロンの左の容れ物には、布に包まれた青リンゴと丸パン、チーズの塊。

 右の容れ物には、美しい白ユリのブローチが入っていた。

 

 そのブローチは、姫にたった一つだけ与えられた、母親の形見だ。

 透かし彫りの細工が施された銀の土台は黒ずんでいるけれど、真ん中にエナメルの白い輝きを持つ、大きなユリの花が咲いている。

 周囲には星々のように、小さな明るい宝石がちりばめられていた。


 岩陰から湧き出る細い清流の傍らで、柔らかな苔に覆われた木の根に寝そべって、ブローチの透かし彫りに木漏れ日を通して見るのが、姫は好きだった。

 そうすると、宝石の数が増えたようで、いっそう夜空の星々に似るからだ。


 その日も姫は、そうしてブローチを頭上に掲げ、木漏れ日を探していた。

 すると何かの拍子に、手が滑ってしまった。

 慌てて起き上がると、ブローチは跳ね転がって、清流の中に落ちたところだ。


 傍らに大きな蝦蟇がまがいた。

 その蝦蟇はあろうことか、大きな口を開けてブローチを咥えた。

 そして向きを変え、清流の向こうの繁みの中へと、行ってしまうではないか。


「待って! カエルさん、待って!」


 姫は大急ぎで立ち上がり、木靴を履くと、清流を飛び越えて蝦蟇を追いかけた。

 下草の生い茂る木立の合間に、無我夢中で分け入る。

 蝦蟇の姿は見えなくても、繁みが揺れるお陰で、後を追うことができた。


 突然、繁みの先に、碧々と深い色の水を湛える沼が現れた。

 草の間から蝦蟇が飛び出す。

 その身体を捕まえようとして、草の塊に足を取られた姫は、頭から沼の中に落ちてしまった。


 煌めく銀の泡粒が次々と、サファイアの天蓋めいた水面に飛んでいく。


 この沼は見た目よりずっと深いのだわと、白ユリ姫は思った。

 それにシンとして冷たく、生き物の温もりがない。


 きっと魔物が棲む沼なのだ。

 水の魔物、ヴォドニークが。


 あまりの冷たさに体が重くなり、姫の意識は遠のいた。

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