ハート・ボイルド

崔 梨遙(再)

1話完結:1300字

 その男、黒沢影夫。職業は私立探偵。1LDKの自宅兼事務所。男は7時に起きてシャワーを浴び、ブラックのコーヒーを飲んでから黒ずくめのスーツ姿に着替えた。


 男は黒い人気の(販売台数が多い)車種の乗用車に乗り、マンションから目的地に向かった。目的地は、依頼主の男の家。ちょうど、夫と子供を会社や学校に送り出して、主婦がホッとする頃に着いた。


 黒沢は、依頼主である立花の家の斜め前に車を停めた。立花の依頼は妻の椿の浮気調査。黒沢が停まったのは、立花の妻、椿の車が見える位置だ。いや、もっと近い。立花の家の玄関が見える位置まで迫っていた。黒沢は、黒いスーツに黒いYシャツ、シルバーのネクタイだ。ちなみに、季節は夏。黒沢は季節を問わずこの恰好だ。家には、同じ服が何着もある。


 その時、椿は浮気相手と電話していた。


「ねえ、家の前に怪しい車がいるのよ。多分、旦那が雇った探偵だと思う」

「それなら、今日は車を使わずに電車で来たらいいじゃん」

「そうね、そうする」



 椿が家から出て来た。黒沢は身構える。椿が車で出かけると思ったのに、歩き始めた。黒沢は焦った。しょうがないので、歩行者を車で尾行する。誰が見ても怪しかった。勿論、黒沢も自分が怪しいと思われていることには気付いていた。だが、こうなってはしょうがないのだ。


 そして、椿は駅に入って行った。車では電車を追いかけることが出来ない。その時、黒沢は“車から降りて徒歩で尾行したら良かった”と気付いた。だが、もう遅い。黒沢は日報に“本日、異常なし!”と記入した。



 夜、車をマンションに戻してから繁華街へ繰り出す。黒沢は、行きつけのBARに入った。カウンターに、寂しげな顔の美人が1人。OLだろう。


「あちらのお客様からです」


 OLの前にグラスが置かれた。OLは、黒沢に会釈した。黒沢は自分のグラスを持ってOLの隣に座った。OLは、嫌がる素振りは見せなかった。


「なんで寂しい目をしてんの?」

「約束をすっぽかされたから」

「君みたいな美人との約束をすっぽかす奴がいるんやな」

「もしかして、私を口説く気?」

「口説かれてもらえるなら」

「私と飲み比べして、あなたが勝ったら付き合ってもいいわよ」

「ほな、勝負や」


「参った、あなたの勝ちよ」

「ほな、僕のマンションへ行こう」

「近いの?」

「すぐそこやで」


「いいマンションね」

「まずはシャワーから?」

「そうね、シャワーくらい浴びさせてよ」

「ちょっとついてきてくれへん?」

「何? って、トイレじゃないの」

「背中さすってや」

「え?」


 黒沢は豪快に嘔吐した。


「嘘! 何やってんのよ」

「飲み過ぎた」

「私、帰る!」

「嗚呼!」


 吐き終えてシャワーを浴びた黒沢は、セミダブルのベッドの中で、寂しく1人で眠るのだった。黒沢は、仕事のこともOLのことも気にしていなかった。


「明日があるさ」



 翌日、徒歩で椿の家の前で張っていると、今度は椿が車で出かけて行った。徒歩では追いかけられない。黒沢は、また日報に“本日も異常なし”と書いた。


 

 黒沢のハードボイルドな日常はこれからも続く。







  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハート・ボイルド 崔 梨遙(再) @sairiyousai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る