第1話:夢見たネイリスト生活とその現実
ネイルは魔法。
指先をきらきらと輝かせ、さまざまな色彩に彩られ、まるで宝石のように輝く指先。
幼い私にとってネイルは魔法そのものだった。
まるで別人になったような、自分が宝物になったような、そんな感覚。
私が初めて爪に色を塗ったのは、祖母がしてくれた爪紅(つまべに)だった。
「昔はね、こうやって真っ赤なお花を潰して染料にして爪に塗っていたんだよ」
習字の筆のようなもので、貝殻の中から紅を掬って爪に塗ってくれた。
玉虫色に光っていたものが筆に取ると美しい赤色に変わり、私の指先はそれはそれは綺麗な赤に染まった。
「綺麗……」
自分の手なのにうっとりと見惚れてしまった。
「綺麗だろう。自分のことを綺麗にするとね、人は自信が持てるようになる。そして綺麗になった自分のことを好きになれるんだよ。」
いつまでも自分の手を見つめている私に祖母が言った。
「そうなの?私も宝物になれる?」
「なれるさ、自分を大切にしていればね。」
自分を大切な宝物にしてくれる魔法。
私はその魔法に一瞬で心奪われ、いつまでも赤く彩られた指先を見つめていた。
私の名前は結城亜莉子(ゆうきありす)、28歳の生粋の日本人だ。
今は都内でしがない雇われネイリストをしている。
幼い頃から夢見ていたネイリスト。
高校を卒業してすぐ、私はネイルスクールに入学した。
家族の反対を押し切って、猛勉強の末試験を全て一発合格。その間にも大会やコンテストにも出場し、数々の優秀な成績を残してきた。
ネイルアートは私の生きがいだ。
私がデザインしたネイルが雑誌に取り上げられたり、SNSで注目されたりすることも増えた。
特に、自分だけのオリジナル技法を編み出してからは、多くのファンがついてくれた。
私の指先から生まれるアートが、誰かの人生を彩り、元気づける瞬間が何よりも嬉しかった。
しかし、現実は厳しかった。
私はこの歳で––––……
時給900円で働いている。
ネイリストの給料は決して高くは無い。
1日フルで働いても往復の交通費にもならないことなんてザラ。
交通費を借金して、今日も私は職場に向かう。
私を雇ってくれたお店は、自宅から往復3時間かかる場所にあった。
ネイリストは現代の日本には溢れすぎていて、仕事に就くことが難しかった。
就職率100%なんていう謳い文句に騙され、ネイルスクールに120万円もの大金を支払って2年の時間を費やしてきた。
それでも何とか仕事には就けたけれど、ブラック企業よりも過酷なサロンばかり。
それでもいじめさえ我慢すれば給料が貰えるだけ他のお店よりはまだマシだった。
初めてのサロンワークは不安でいっぱいで、何もかもが新鮮でわくわくしていた。
しかし、現場は予想以上に厳しかった。
ネイルスクールで学んだことは現場では通用せず、誰も何も教えてくれない。
例え自分から聞きに行ったとしても
「そんな事も聞かないと分からないの?」
「見て覚えなさいよ」
「どんくさい」
「もっと早く仕上げて」
「いつまでかかってるの?」
「気が利かない」
「使えない」
「役立たず」
毎日飛び交う悪口雑言。
それにへらへらと作り笑いを浮かべて私は必死に耐えた。
そんな中、トレーニングリーダーの真麻(まあさ)さんに私は目をつけられ、毎日酷く叱責された。
「こんなこともできないの?スクールで一体何を習ってきたのよ!グズ!」
「すみません……」
「すみませんじゃなくてさ、結果を出してよ。どうせ悪いとも思ってないんでしょ?40分で仕上げろって言ってるの。それができないならうちにはいらないから」
「はい、すみません。頑張ります……」
「あのねぇ、皆頑張ってるの。周りの500倍は頑張らないとあんたの場合トントンにならないわけ。できないんだったら休日を返上してでも練習しにきなさいよ。」
「でも交通費が足りなくて毎日は通えないんです。席についた時間しか時給がもらえないから……」
「なに?給料もらえるだけありがたいって思えないの?借金してでも毎日通って練習しなさいよ。自分がのろまでグズだからいけないんでしょ?むしろ練習させていただけるだけ有り難い、ありがとうございます、って気持ちになれないの?近頃の若い子は……私の時代なんか徹夜してでも材料費を払って何時間でも練習したわよ。そんなこともできないの?」
真麻さんは大きなため息をついて私を詰め続ける。
私は言われた通りに施術しているはずなのに、同期の広子さんは同じものを作っても褒められる。
対して私は、どんなに頑張っても認められない。
『辛い……』
そう思わない時間がないほど、仕事は苦痛だった。
大好きで、念願だったネイルの仕事にやっと就けたのに。
私は夢を叶えられたはずなのに。
毎日朝が来ることが嫌で嫌で仕方なかった。
今日も仕事が始まる……それだけで泣けるほど、私は精神的に追い詰められていた。
それでも、私の心の支えはお客様だった。
「まぁ素敵!こんなに綺麗にしてくれてありがとう」
「本当に綺麗ね」
「いつもありがとう」
仕上がった後のネイルを見て喜んでくださるその姿と笑顔。
お客様の笑顔が、私の唯一の救いだった。
お会計が終わったあとお見送りしている時に私がしたネイルをずっと見つめて笑っているその姿。
嬉しそうに笑う横顔をみて、私はそれまでのどんな辛さも乗り越えることができた。
今日までネイリストとしてやってこられたのはお客様のおかげだ。
それでも、職場に向かう私の足は震えるほど、精神的に追い詰められていた。
ある日、仕事の帰り道。
自宅近くの横断歩道で信号待ちをしている間、私はぼんやりと考えごとをしていた。
何のためにネイリストになったのか。
なぜこんなにも毎日が辛いのか。
『明日、仕事いきたくないな……』
私のなりたいネイリストってこんなのだったっけ。
私ってなんのためにネイリストになったんだっけ。
私がなりたかったのはこんなネイリストだったのだろうか。
そんな疑問が生まれる中でも、私はネイリストであり続けたいと強く思っていた。
ふと、犬を連れた飼い主がスマホをいじっているのが目に入った。
子犬のトイプードルが飼い主の周りを駆け回っている。
リードが伸びっぱなしで危ないなぁと思いながらその子の様子を見つめていた。
すると突然、その子犬が横断歩道に飛び出した。
子犬の前には大型のトラックが走ってきている。
飼い主はスマホに夢中で気づいていない。
トラックも子犬が小さすぎるのか、速度を緩めようとしない。
私は咄嗟に体が動いた。
危ない!
無意識のうちにトラックの前に飛び出し、子犬を抱きあげると飼い主の方に放り投げた。
次の瞬間。
ドンッ!!
衝撃は体を突き抜け、私の視界は一瞬で真っ白になった。
宙に浮いた感覚がしばらく続き、次に感じたのは背骨が折れるような激痛。
そして、口から溢れ出す大量の血。意識が朦朧とする中、飼い主の怒声が聞こえた。
「犬を投げるなんて!可哀想に私のメロちゃんが!」
ああ、ここでも怒られてばかりだな。そう思うとおかしくて、小さく自分を笑った。
私、こんなところで怒られながら死ぬんだ。
ネイリストになって、もっとお客様に喜んでもらいたかった。
おばあちゃんが私にかけてくれたみたいに、お客様にも素敵な魔法をかけてあげたかった。
自分を綺麗にする大切さ、自信を持って自分が宝物になったっていう喜び。
あの感動をお客様に伝えたかった。
そうやって思っていたから今までどんなに辛くても耐えることができた。
同僚や上司とはコミュニケーションはうまくいかなかったけど、それでもお客様とは毎回楽しくお話しができていたし、話すのが苦手な私をお客様が育ててくれた。
その恩返しもできなかったなぁ。
お母さん、決していい母親とは言えなかったけど、殴られても蹴られても私をここまで育ててくれた大好きなお母さん。
ああ、もう会えないんだ。ごめんね、先に逝く不幸を許して。
おばあちゃん、私、自分を大切にできなかったよ。
誰も大切にできなかった。
誰の宝物にもなれなかったし、誰にも大切にしてもらえなかった。
ああ、ネイリストになりたかったな。
あんなに頑張ってきたのにもう終わっちゃうんだ。
そんなことを思いながら、私の意識は真っ暗な闇の中に消えていった。
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