君はあの夏を覚えているか。

黒影紳士@泪澄 黒烏るいすくろう

第1幕 輝きに満ちた夏の日に 一頁


なぁ…君。

未だ…覚えているか。


あの夏の日の…

高い…高い…真っ新な青空。


遥か遠くに見える、真っ白な入道雲。


太陽は輝き…

全てが美しかった。


君の笑う横顔…。


僕は…永遠にあの日の君の笑顔を、一枚の写真を胸に焼けつける様に…


今も…鮮明に覚えています。


ーーーーー


「じゃあ…出掛けて来るから」


妻がそう言ったので、僕は手を振り微かに笑いました。

確か…そうだ。

化粧をして、髪を整え…それから…どんな服を着たっけ?

…そう、そうだった。

多分…佐天かサラサラした生地のスカートを履いていたと思う。


「明日…少しお友達とランチに行きますね。貴方、一人で大丈夫?」

と、昨晩の夕食(ゆうげ)には言っていた。

「そうか。…子供では無いんだ、大丈夫だよ。偶には息抜きをした方が良い」

僕はそう答えるだけだった。


息抜き…か。


僕はラジオのスイッチを入れ、目を閉じて聞いていた。

パーソナリティが語るでもない、クラシックのチャンネルだ。

特にクラシックが好きだと言う訳は無い。

洋楽でも何でも良いが、僕はチャンネルを変えないだけだ。


古い…ラジオでね。

チャンネルは未だに摘みを捻り調節するタイプなんだ。

レコードも付いているから、このままなんだよ。

別段、最新の物が買えない訳でも無い。

だが…其れでは意味が無いのだ。

他のどのラジオでも…僕は使い辛く感じてしまってね。


他には息子が一人。

もう結婚もして大きく成った子供もいる。

元気に暮らしているらしいが、此処数年会っていない…。


…会えないんだ、僕は。


恐らく…此の先もずっと…。


会う日があるのならば、僕が危篤になり死に掛けた頃であろう。

喧嘩の一つ、した訳でも無い。

妻が良く電話して気に掛けてはいる様だ。

そして電話を切ると、決まって楽しそうに息子や孫の話を話してくれた。

良い妻だ。

…何にも文句も付け様の無い程、良い妻でいてくれる。


…僕さえ…気づかなければ…。


良い…本当に良い…妻に違い無い。


僕は今日も自分に言い聞かせた。

気の所為だ。全ては…気の所為だ。

何も確かめる術等無いのだ。

確かめられたとしても、僕は確かめない。

だから何も不自由無く、信じて生きていれば良い。

今の暮らしに安心して、生きているだけで良い。


誰かが言うではないか。

変革やら、自己改革が如何のと。

そんなもの…万人が望む訳では無い。

小さな幸せで十二分だと生きている事を、誰も責める理由にはならない。

変わりたくは無いと望み、変わらない。

其れの何が悪いのだと言うのか。

それがさも、消極的なマイノリティ意見にしろ、何の罪にもならない。


僕は自分に今日も言い聞かせた。

それもまた己が望む事。

自分らしさとは、前向きだけとは限らない。


…僕は僕が望んだ今日を全うしている。


妻がランチに出た後、ラジオをのんびり聴いている。

こんな長閑な時間…今までに在っただろうか。

だから、多くを望む必要も無いと思っていた。

インターフォンが鳴った…。


何時も妻が出掛ける時は言われていた。

鍵は掛けておきますから、誰か来ても出なくて結構ですよ…と。

出ても如何せ近所の妻の井戸端会議仲間ぐらいだ。

郵便ならば玄関に置き配にしてある。

分からないのに出るだけ面倒なのだから、出なくて良いと気にしない様にしてくれる妻には感謝すらしているよ。


「親父!」


ラジオの音楽に混ざって、誰かがそう言った。

ふと暫く会っていない息子を想ったが、そんな筈は無い。

此処には来ないのだと、思い直した。


会わないんじゃない。

会えないんだ。

会いたいと…何度思った事だろう。


妻は時々、息子夫婦や孫と会いに行くと声高に喜び出掛けて行った。

「…それは…良かったな」

僕はそう言って、何時も聴いているラジオに聞き入るだけだ。

其の後の妻の会話も気にもせずに、夢中になって音楽を聴くのだ。


只管に…只管に…。


耳が…聞こえ無くなれば良い。


そんな滅相も無い事を考えた事がある。

もし…そんな願いが叶ってしまったのなら、僕には何も無くなってしまうのだ。


…僕には…既に、視力さえも無いのだから…。


もし、視力が有り、この耳が代わりに聞こえなくなったとしたら?

そんな事を考えた事もある。

成った事も無い様な事は語らずに足らず、分かりはしないが…此の視力同様に、不便な物やも知れぬと考えはする。


僕はあの夏…失明した。

妻と結婚して丁度、15年目の夏だ。

息子は未だ、今の嫁さんとデートに出掛け、夢中な頃合いだった。


失明したから会わなくなったのではない。

息子の結婚式にすら行かなかった。

自ら言うのも虚しい限りだが、失明してから妻は僕と言う存在自体を世間様からも、隠したいのだ。

恥じているのだろうな…そんな…夫を。


孫の顔も、声も知らない。

目が見えないと言うだけなのに、声も…知らない。


望まなくとも、耳も既に無いのかも知れない。

そう…思う時がある。





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