第2話

「ちと、何で傘なんかさしてんのさ」

 突然後ろから声をかけられ、慌てて振り返る。そこにいたのは、同じクラスの美園(みその)だった。

「どうしてって、雨、」

 言いかけて気づく。雨はもう止んでいた。

「どうしたのよ、ちと。いつも冷静なあんたらしくない」

 美園は熱をはかるように額に手をあててきた。

「大丈夫だって」

 傘をたたみながら応じる。いつの間にか駅の目の前まで来ていたようだ。

「私、今日本屋寄るから。気をつけて帰りなよ」

「美園も、あんまり夜遅くならないようにね」

 背を向けたとたん、腕を強くつかまれた。

「あんたの幼馴染、光沙(みさ)が言ってた。小学校の高学年のころ、突然あんた変わったって。特に雨の日にぼうっとしてばっかりになったって。何があったか知らないけど、高校まで引きずってるって、相当な何かがあったんでしょう。私じゃ、相談もできない?」

 振り返ることができなかった。美園は高校からの付き合いだけど、もう一年以上親友で、そんな美園に相談のひとつもできない自分が薄情に思えた。こんな気持ちのままで合わせる顔なんてない。

「…ごめん。放して」

「え」

「腕。痛い」

 美園の手が離れたとたん、私は逃げるように駅に走った。


 吉良と研究をしていて始めて雨が降ったのは、二人になって三日目のことだった。館内で涼んでいる間に夕立が来て、一気に土砂降りになった。雨の日のデータも欲しいと思っていた私は、かばんの中から折りたたみの傘を取り出しつつ、エントランスに向かって駆け出そうとして…止められた。

「行かないで」

 それまでに聞いたこともない、今にも消え入りそうな弱気な声で、吉良は私を後ろから抱きしめた。完全に思考の停止した私はフリーズしてしまう。そのとき、中年のおじさんが館内に入ってきた。開かれた扉を抜け、雨気が一気に博物館になだれ込んでくる。そのとき、吉良の体から陽だまりの匂いが消えるのを感じた。ぐっと私を抱く腕に力がこもる。

「き、ら?」

「ごめん」

 観念したように私を離した吉良を振り向くと、俯いた彼がいた。そして。顔を上げた吉良の目は、紅だった。

「その目、何で」

「僕、人間じゃないんだ」

 彼がゆっくりと差し出した手のひらには、水でできた馬がいた。馬は彼の腕を駆け、肩まで来ると、私を見た。

「こやつが、吉良様の話しておられた人間ですかな」

 馬が、しゃべった。もはや私は、突っ込む気など失せていた。私が受け入れようと否定しようと、これがきっと現実なのだ。だったら私は、吉良のそばにいよう。

「わしが話しかけても冷静さを保っておる。吉良様、こやつ、本当に人間ですか」

 ひたと、吉良の人間とは思えないほど冷たい手が私の頬に触れた。

「うん。暖かい」

「吉良くんの手は、冷たいんだね」

「だから、太陽が出ていないと人間じゃないんだ」

 ああ。だからあの日、陽だまりの中の吉良があんなに暖かく見えたんだね。

「何をおっしゃいますか吉良様。憎き太陽のせいで、魔力を封じられているというのに」

 馬が前足を高く上げ、興奮したようにまくし立てる。

「でもそのおかげで、ちとせに会えた」

 今度こそ、心臓をつかまれた気がした。紅い目の吉良は藍の目のときよりもきれいに笑う。これが本来の吉良の姿なのだ。

 彼の魔力は、水を操る力だった。太陽の出ていない夜の間と、水に有利になる雨の間だけ、彼は不思議な力を使えるのだった。私は何故か彼を嫌いになったり、人外のものを恐れるということをしなかった。むしろ彼の優しさに、好きが大きくなっていくのを感じていた。紅い目の吉良に会うたびに会うたびに、この恋を認めざるを得なくなっていく心があった。

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