【鏡の国のマリー】
夢咲咲子
Act1.「消えた友人」
古来より、鏡には不思議な力があると信じられてきた。
鏡はこの世とあの世を結び、邪を遠ざけ、時に魔となり人を惑わすこともあるという。
もし今、あなたが自分の姿を思い浮かべるなら、それは鏡に映ったあなたではないだろうか? あなたはその見慣れた鏡像を、あなた自身だと信じ込んでいる。
鏡に映る姿を自己と認識できる生物は、そう多くない。人間やチンパンジーなど一部の動物のみであると言う。それは果たして高知能の証明なのか、野性的な勘が鈍った結果なのか。
もしあなたに少しの勇気があるのなら、左右逆のあなたに問いかけてみてほしい。
あなたは誰で、そこがどこなのかを。
*
――わたしの通っていた中学校には、全国どこにでもあるような七不思議があった。語り手によっては七に満たないことや、七を超えることもある適当な怪談話だったけれど、その中でも特に曖昧でブレの大きい話が『家庭科準備室の合わせ鏡』だった。
4時44分44秒に、家庭科準備室の姿見で合わせ鏡をすると、未来の自分が見える。運命の相手が見える。鏡に吸い込まれる。悪魔が現れる。呪われる……エトセトラ。随分と使い勝手の良い万能七不思議じゃないかと、当時のわたしはクールを気取って鼻で笑っていたものである。
高校受験を前に現実逃避しがちなクラスメイト達は、競って家庭科準備室に忍び込んでは無事に帰還し『なあんだ、つまらないの』と安堵の顔で落胆を装っていた。
そんな彼女達に『ほらね』『やっぱりね』と冷めた反応をしていたわたしも、内心ではソワソワしていた。でも素直になれなかった。少しでも大人ぶりたい年頃だったのだ。それでいて小心者で、膝下丈のスカートに甘んじているような、垢抜けない中学生だった。
そんなわたしとは違い、小学生の頃から何も変わらない天真爛漫な友人は、見た目だけは色めいて所謂ギャルにつま先を踏み入れていた。
長いカーディガンから少しだけ見え隠れする程度のスカート。ライオンみたいな色の、痛んだパーマ髪。テカテカの赤いマニキュア。耳にはピアスを煌めかせ、近付くと甘い香水の香りがした。
果物とも花ともつかない、匂いと臭いを行き来するキツイ香りを漂わせ、彼女がわたしの耳元で密やかに囁いた言葉。それは、大人になった今でもよく覚えている。
『みんな、見てる時間が違うんだよ。鏡の中の4時44分44秒は、こっちの8時16分16秒に違いないんだから』
“あたし達で試してみようよ”という怪談好きの彼女の提案によって、その日の夜は忘れたくても忘れられない夜になってしまった。
七不思議を実践した彼女は、語られていた噂の一つを証明するように――わたしの目の前で、鏡に吸い込まれ消えてしまったのだから。
彼女が失踪した日……あれは中学三年生の七月、夏休みに入る少し前だった。秋の大会に向けて励む運動部員達で、学校には夜になっても人気があり、わたし達が夜間に潜り込むことも容易だった。
わたしと彼女は既に部活を引退しており、受験勉強から逃げている限りは、放課後は暇を持て余していた。七不思議は暇潰しとしても、受験前最後の青春イベントとしても手頃で、“子供っぽい友人に付き合っているだけ”という口実も得たわたしは、ようやく七不思議探検への参加権を手にしたのだ。
わたし達はクッキング部の後輩に頼み込み、予め鍵を開けておいてもらった窓から侵入した。そして、時々聞こえる廊下の足音や声にビクビクしながら、その瞬間を待っていた。
人目も気にせず胡坐をかいて。スクールバッグの上にクッキーをパーティー開きして。イヤフォンを半分こし、彼女が好きなアイドルの曲を聴いて。本番よりも楽しい待ち時間を謳歌していた。
もちろん悪い事をしている自覚はあった。だから、楽しかった。あの日のわたし達は、その夜がかけがえのない思い出の一つになると予感していたのだと思う。けれど、そうはならなかった。何物にも替え難い時間は、何を引き換えにしても、もう戻らない。
8時16分16秒、わたしの一番の友人は、この世から消えてしまった。
――以降の記憶は、曖昧である。
居なくなった友人は、誘拐事件に巻き込まれたのだろう……というのが世間の見解だった。わたしは犯人を目撃したショックで、妄想に取り付かれているのだろうと。
わたしは大人達に問い詰められ、同情され、クラスメイトからは好奇の目を向けられていた……気がするが、暫くの間ショックで呆然自失状態だったらしく、あまりよく覚えてはいない。
あれから十年以上たった今、わたしはすっかり自分を取り戻して地に足を付け生活していた。けれどあの日の出来事は、思い出すと痛む古傷のように、今もなおわたしを苦しめ続けている。
鏡を見ることが怖くなり、手鏡一つ持てず、外で鏡を見かけると、太陽を嫌がる吸血鬼の如く避けていた。
*
「う、わっ」
体が大きく揺れ、椅子の上から落ちそうになる。わたしは慌てて机にしがみ付いた。大きな地震でも起きたのかと思ったけれど、わたし以外は揺れていない。
働かない頭でぼーっとしていると、デスクのパーテーションの向こうから、小さな顔がひょっこり覗く。
「マリーさん、居眠りしてましたね?」
同じ部署の後輩A子だ。A子は意地悪なにんまり顔で“マリー先輩”こと、わたしを見ている。
マリーというのは、わたしの本名ではなく愛称だ。多忙の新人時代、お昼のパンを買う暇もなく、社内で配られるお土産のお菓子を昼食にして『パンがなくてもお菓子がある』と言っていたことが、かの有名なマリー・アントワネットを彷彿とさせたらしい。同期も先輩も上司も、後から入ってきた後輩にさえ、もれなくマリーと呼ばれるようになってしまった。
「寝てないよ。ちょっと目をつむってただけ」
「嘘ばっかり、涎ついてますよ」
「え! うそ!?」
わたしはギョッとして口元に手をやるが、そこに湿り気はない。A子は小動物を思わせる大きな目を細めて「引っかかったあ」と無邪気に笑っている。わたしは胸焼けにも似た感覚を覚えて、わざと何の反応も示さず目の前のパソコンに目をやった。
パソコンの端に表示されてる時刻は……19:45。寝る前の自分が頑張っていたのか、仕事の進捗は良好。今日はそろそろ切り上げて、駅ナカでちょっと良いお惣菜を買って帰り、ドラマを見ながら晩酌をしよう。半身浴とパックをして、アロマを焚いてぐっすり眠ろう。
「そろそろ帰ろ~っと」
「お疲れ様でーす。あ、この後残ってるメンバーで飲みに行きますけど、マリーさんは?」
「いや、遠慮しておく」
一瞬、今日は華の金曜日だっただろうか? と思ったが、そんなことはない。まだ週のど真ん中である。明日の朝、同僚の何人かがグロッキーな顔でデスクに突っ伏している姿がありありと想像できた。そしてわたしはそれを、やれやれと呆れた目で見ているのだろう。
わたしは廊下に出て、ぐっと伸びをする。と、連動してあくびが出た。顎が外れる寸前までの気持ちの良いあくび。滲んだ涙を指で拭い……嫌な感触に“しまった”と顔を顰める。
恐る恐る手を見ると、指にはアイシャドウとアイライナーがべっとり付着していた。どうせ先程の居眠りである程度崩れていただろうが、流石にこれは酷過ぎる。……けれど、夜の会社のトイレでメイク直しをする気が起きなかった。苦手なのだ、鏡が。明るい朝に、出社してから化粧をする人々に混ざらなければ、鏡と向き合えない。
「おや、マリーちゃん。今帰りかな?」
何もないところから突如出現したような、気配の無い声。わたしは飛び跳ねる勢いで振り返った。
そこには背の高い痩身の男性……Sが立っている。彼はわたしの新人時代の教育係で、マリーというあだ名の名付け親でもあった。
整った顔立ちと人あたりの良さから女性社員に人気がある彼は、教育係を終えても何かとわたしを気に掛けてくれて、世話を焼き、ちょっかいも出してきた。だから……わたしが彼に憧れ、自分に都合の良い解釈を抱き始めたのは、自然な流れだといえる。
(なんでこのタイミングで現れるかなあ~っ)
こんなボロボロの状態を、世界一見せたくない相手だ。
「残業かい?」と微笑む彼に、わたしは両手で顔を覆い「はい、ええ、イエス」と答える。Sは「相変わらず面白い子だね、君は」と笑った。
「もし良かったら、一緒に帰らないかい?」
「……先輩は、皆と飲みに行かないんですか?」
「うん、僕はね。マリーちゃんと二人がいい」
「あ、う……え?」
わたしは彼の凄まじい威力を持った爆弾発言に、あ行しか喋れなくなる。恥ずかしさと、それ以上の喜び。しかし度を越した感情は居心地が悪く、不快感にも似ていた。
沸騰したヤカン状態のわたしはきっと、目も当てられない惨状に違いない。
「は、わ、ちょ、……っとお手洗いに行ってきます!」
と、早足でトイレに逃げ込む。後ろではSの爽やかな笑い声が響いていた。
「はぁ~……!」
ドアの取っ手を握り締め、わたしは深い溜息を吐く。
なんだあの先輩、あんなの反則じゃないか、どうしよう。心臓が徒競走の後みたいに暴れている。ドキドキして逃げ出すなんて、わたしは思春期の少女か? 子供の頃から恋心が全く成長していない。圧倒的な経験不足である。
とりあえず身なりを整えてから戻ろう、と恐る恐る洗面台に立った。
……わたしは、本当に鏡が苦手だ。存在自体に全身が拒否反応を示す程。その銀色の反射光が視界に入るだけで寒気がし、空間認知を歪める鏡像空間には眩暈がした。誰かと一緒で、お喋りでもしながらであれば多少和らぐけれど、流石にSを女子トイレに引き込む訳にはいかない。腹を括って、鏡を見る。
「……」
――鏡の中には、二十代後半の女が映っていた。一日の仕事を終えた後、それも居眠り明けとは思えないほど、女は品良く小奇麗に整っている。しっかりコテで巻かれた髪。てろっと光沢のあるブラウス。華奢なネックレスを胸元に一粒。何も入らなそうな小さなショルダーバッグを肩から下げている。ちゃんとしすぎているくらい、ちゃんとしていた。雑誌にでも出てきそうな、憧れの働く女性像だ。
それはわたしが、学生時代に憧れていたクールな大人の女。危うい蕾の時期を超え、花が開いて実を結び、程よく熟れた大人の女。なりたい大人に、わたしはなれたのだ。
滲んだアイメイクだけが、マイナスポイントである。わたしは目の端のアイラインをティッシュで拭き取り、修正作業に入った。
(どうしよう、S先輩に誘われるって分かってたら、もっとオシャレな服にしてきたのに)
パンツスタイルよりもワンピースの方が良かったかな? 鏡の向こうには、嬉しそうに困る器用なわたしが居た。その表情は、今のわたしの心情と寸分違わず一致しているように見える。しかしどこか違和感を感じて、ついまじまじと見続けてしまった。すると、少しずつ少しずつ違和感は大きくなり、やがて、
……睨んでいる。
血走った眼で、顎を引いた自分が。今にも呪い殺してやると言わんばかりの顔で、鏡の中からわたしを睨んでいる。
わたしは咄嗟に自分の顔に触れた。その動作で、そこに映るわたしが、最早わたしではないことを確信する。鏡の中のわたしの手は顔には無く、その指は鏡面を引っ掻いているからだ。カリカリと嫌な音がしないのは、その指の爪が全て剥がれてしまっているからだと気付き、真っ赤な指先に「う、」と声が漏れる。
最初はわたし自身に見えていたお揃いの顔は、見る間に姿を変えた。……輪郭が、髪が、目、鼻、口、全てがぐにゃりと歪み、全くの別人になる。粘土みたいな石灰色の肌は、ひび割れて粉を吹いていた。脂気の無いゴワゴワの髪は複雑に絡み合い、それに縁取られた顔には、深く落ち込んだ目。薄い唇の奥には、ガタガタの歯が見え隠れしていた。
「ひっ」
わたしは飛びのき、じめっと冷たい床に尻もちをつく。鏡の中では依然、知らない女がこちらを見下ろしている。
駄目だ、これ以上見てはいけない。
わたしは目をつむり、落としてしまったバッグを手探りで引っ掴むと、笑う膝に何度も転びそうになりながら、何とかトイレを飛び出した。
無我夢中で廊下に出たわたしを、Sが迎える。彼の穏やかな笑顔は平和過ぎて、薄気味悪い程だった。
「君は入る時も出る時も忙しないね。元気で何より……おや、どうかしたのかい?」
Sの声は、泣いている子供をあやすみたいに優しい。わたしは泣いている大人になりかけながら、彼に答えるべき言葉を探した。しかし適切なものが見当たらない。何度か紡ぎかけるものの、どれも言葉になる前にほどけてしまった。
(……これは、わたしのトラウマが見せるただの幻覚なんだ。人に話すことじゃない)
そう。わたしにとって“こういう体験”は、初めてではない。
ここまでハッキリ存在感のある幻覚は久しぶりだったけれど、鏡を見るとそこに恐ろしい存在が見えてしまうのは、以前からずっと続いている現象である。
わたしはそれを、中学時代に友人を救えなかった事に対する、罪悪感の現れなのだろうと解釈していた。だとすれば、あの恐ろしい幻覚は鏡に取り込まれた友人で、自分に恨み言を言っているのかもしれない。……それはそれで、彼女に対して酷いことをし続け、罪を重ねているように思えた。
「何でもありません、大丈夫です」
「でも顔色が悪いよ。心配だ。今夜はやめておく?」
「いえ……行きましょう」
いくらただの幻覚とはいえ、あんな体験をした後に恋だの酒だのと浮かれていられるほど、わたしは図太くなれない。だからこそ、一人になる事が恐ろしく、Sを利用したのだった。
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