バトンタッチ

月音うみ

『バトンタッチ』

「オンユアマーク」


「セット」


パン!!!


灼熱の太陽。

水色のユニホームを着た人物が私の自慢のお姉ちゃんである。

ポニーテールを激しく揺らしながらバトンを受け取り、目の前を走っていく。

「お姉ぇちゃ〜〜〜ん!! いっっけぇ〜〜!!」

二階の観客席から身をのりだすようにして私は叫んだ。

お姉ちゃんが腕を大きく振る。

高身長を生かした大きな歩幅で確実に前の赤いユニホームの選手との距離をつめていく。

全国中学総合体育祭4×100m走決勝、結果は第一位南川崎中学校。

そのメンバーのアンカーの欄に私と同じ苗字が書かれていた。

黒髪を一つに結び、スラリとしたスタイルに無駄の無いしなやかな筋肉、焼けにくい体質もあって本当にスポーツをしているのかを疑ってしまうほど素肌は雪のよう。

猫のような顔つきに、くしゃっと笑った時に吊り上がる目尻が姉でありながらなんとも可愛らしい。

この前の雑誌の取材では「ここまで麗しいスポーツ美少女が実在していたとは!? 颯爽とレーンを駆け抜ける新時代の新星」と取り上げられていた。

チームのキャプテンを務めるお姉ちゃんが表彰台で手を振る。

同じ部活動生徒だけでなく、男女構わず他校の生徒からも黄色い悲鳴が上がる。

全国大会の舞台の表彰台上でもお姉ちゃんはお姉ちゃんだった。

表彰状を片手にその太陽のような笑顔で私に手を振る。

「あゆみ!! お〜い! とったよ!! 凄いやろ!」

「ほんとすごかね!! お姉ちゃんカッコよか!」

小学六年生で成績はそこそこ、体育も足の速さは真ん中、地味で昼食の豚カツ定食の付け合わせのキャベツの隣に置かれたミニトマトのような居ても居なくても気付かれない、クラスに大きく影響を与えるような存在ではない自分とは真反対だった。

身長も姉ほど高くなく、しいて似ている箇所といえば笑った時に目尻が吊り上がる猫顔というくらいだった。

それでも私はお姉ちゃんが大好きだった。


これは姉に憧れ陸上競技を始めた私、前川あゆみが全国高校総体に出場するまでの物語である。



お姉ちゃんが卒業したばかりの同じ南川崎中学校に私は入学した。

「前川さんの妹さんだね。君が入学すると聞いた時からずっと楽しみにいていたよ。君も陸上部に入部するのかい?」

陸上顧問の先生が話かけてきた。

「そのつもりです。姉を超える陸上選手になるのが夢です」

「いいじゃないか。その気持ちで頑張ってくれたまえ。応援してるよ」

「ありがとうございます」

部活動の見学期間が終わり、ついに部活動一日目が始まった。

現陸上部のキャプテンの三年の先輩が声を出す。

「よーい、はいっ!」

準備運動をした後のスタートダッシュ練習まではペースに遅れずに付いていくことができた。

問題は毎週水曜のメニューである地獄の坂ダッシュだった。

南川崎中学校名物、六十度の200mはある校舎まで続く急勾配な坂道ダッシュ。それを三本×三セット走り切るというものだった。

一本走っただけで血の味がじんわりと広がる。

二本目は残り50m地点で足が上がらなくなり、三本目になるとそれはもう必死だった。

それまで運動クラブにも所属したことがなかったあゆみにとっては坂道の先を見上げることですら必死だった。

「あゆみちゃん、大丈夫?」

先輩が心配し声をかけてくれる。

「はい! まだいけます!」

「最初から全部できなくてもいいからね。自分のペースで」

「はい! がんばります」



そんな練習の日々が続いた頃、事件が起こった。

高校一年生になったお姉ちゃんの高総体県大会、決勝の200m走。

隣のレーンの選手が走行中白線を超え、その選手と競りながらカーブを走っていたお姉ちゃんの前に足が出てきたことにより姉は転倒してしまう。

再び走ろうとするお姉ちゃんは足を動かせず、ゴールすることができなかった。

病院での検査の結果、右足首の靱帯断裂ということが判明した。

高校生選手でありながら、某スポーツ用品会社がスポンサーとして付いていて、未来はプロデビュー確実と言われていたお姉ちゃんにとってその医師からの診断の言葉の衝撃は測りし得ないものだったと思う。

手術を終え、リハビリをするかおりであったが「もう以前のように走れないかもしれない」と医師から言われたことに対してかなりショックを受けている様子だった。


「お姉ちゃん、足の調子はどう?」

「あっ、あゆみ来てくれたんだ」

「うん、まぁなんとかね。あはは」

向日葵が夏を終え太陽を見ることができなくなったかのような弱った笑顔だった。


あんなお姉ちゃん見たことない……。

私が小学生の時、テストの漢字五十問テストで赤点を取った時も、夏休みの宿題を後回しにして母から酷く叱られた時も、お姉ちゃんは側で「大丈夫! なんとかなるよ」とその笑顔で何度も励ましてくれた。

「お姉ちゃん。陸上続けるよね……?」

恐る恐る私は病室の外を眺めるお姉ちゃんに声を震わせながら聞いた。

「そうだね……」

お姉ちゃんは答えなかった。

あの時その言葉の続きをお姉ちゃんが言わなかったのはきっと姉の優しさだと思う。

どれだけ私が姉に憧れ陸上を続けているかを知っていたからだと思った。


お姉ちゃんは以前のように笑うことが減り、段々と塞ぎ込むようになってしまった。

「本当はまだ陸上を続けたいと思ってるんじゃないの……?」

その一言を言うことはその時のあゆみには出来なかった。


私は余計に陸上練習への熱が入った。

「お姉ちゃんのためにも私が頑張るんだ……! そしたらきっとまた笑ってくれるかもしれない」

そう思って必死に練習を続けた。


「お姉ちゃん、今度の大会で私初めて百メートル競技に出るんだよ」

「そうなんだ……頑張ってね」


「お姉ちゃん、百メートルのタイムが一秒縮んで十四秒台になったよ」

「そう………」


「お姉ちゃん、次の大会で私4×100mリレーの一年チームのスタメン選手に選ばれたよ! それでお姉ちゃんと同じアンカーをやることになったんだけど、それでね!」


「……もうっっっ! うっさいのよ!」


お姉ちゃんがいきなり唸りを上げるかのように叫んだ。

「来るたびくるたび、陸上がタイムがって。怪我してもう走れない私の気持ちなんて考えたことないんでしょ!? もう放っといてよ」

「放っておけないよ!」

「どうしてよ! もう私、陸上はやめたの! わかるでしょ? もう一度レーンに戻ったってあの頃のようなタイムは出せない。 陸上選手の前川かおりは死んだのよ。陸上なんて続ける意味なんてもうないのよ!!」

「ならどうして泣いてるの!? 本当はまだ陸上続けたいんじゃないの!?」

かおりが指摘され頬に手を当てる。

「私お姉ちゃんがリレーのアンカーで部活のキャプテンだったからとか、雑誌で取り上げられるほどの陸上選手だからって憧れていたんじゃない! 初めてお姉ちゃんの試合を観に行った日、お姉ちゃんのチームはビリから二番目だった。それでも全力で走り抜けてく姿と、走り終わった後に肩を支え合いながらみんなで悔しがっている姿を見て、私もこんな風になりたいって思ったんだよ」

「もう、そんなこと覚えてないわよ」

「お姉ちゃん、私に言ってくれたよね? 大丈夫! あゆみならなんとかなるって、その言葉があったから運動もそこそこだった私がリレーのスタメンに選ばれるまで頑張れたんだよ。今度の大会で絶対優勝するから絶対見に来てよね!」

あゆみは踵を返すように病室を出た。

「あんな卑屈なことを言うのはお姉ちゃんじゃない!!」



大会当日になった。

「かおりー!! 頑張って!」

父と母が試合前に待機場所に応援しに会いに来てくれた。

「お姉ちゃんは……?」

「試合見に行こうって言ったんだけどねぇ」

「そっか」

私の練習場へと歩く足取りはいつもより重かった。


「なぁに、暗い顔してんの」

同じチームメイトでアンカーの私にバトンを繋ぐミカが声をかけてくる。

私は姉のことを話した。

「それなら尚更ふざけた走りはできないね。表彰状持ち帰って観にこなかったこと後悔させてやりましょうよ」

「そうね、絶対優勝しよう」

ミカの言葉に励まされ、あゆみの背筋はしゃんと伸びた。



「オン・ユア・マーク」


「セット」


パン!!!!


決勝が始まった。

一走者目、二走者目とうまくバトンが渡った。

三走者目、幼馴染で親友のミカにバトンが渡る。大きく腕を振りながらもうすぐグリーンゾーンまであと5mというところだった、ミカは足首を挫くように体のバランスを崩した。

ミカの顔が一瞬こわばった。なんとか体制を保ったミカであったが、その少しの瞬間の隙に後ろから来ていた選手四人に抜かされて8組中6位になってしまった。

「ハイ!!!」

泣くのを堪えた精一杯のミカ声だった。

あゆみにバトンが渡る。

ミカのミスをリカバリーするために得意の超高速スプリントを生かしてズンズンと前の選手との距離を縮める。

あゆみは五人を抜いた。

残り30mになった時残り一人との差は約3m。

はぁ、はぁ、はぁ

足に乳酸が溜まり足の回転が遅くなり始めた。

「ああ、追いつかない……。もっと坂ダッシュ、先輩の後ろに食いついておけば……! やっぱり、届かないのかな」

そう思った時、聞き覚えのある声がトラックに響いた。

「あゆみーーー!! 最後まで! 走り抜け!!」

ゴール付近の客席でお姉ちゃんが身を乗り出して叫ぶのが感覚的に見えた。

あゆみは腕を思いっきり、大きく振った。

「あと少し! あと少しで! 届く!!」


「私ならできる!!」


んあっ!!

あゆみは前屈みになりながらゴールラインを超えた。

ほとんど同着だった。

「どっちが…… ?」

息を切らし、靴も履き替えず電子掲示板を見つめる。


「お願い……!!」


「続きまして、先程行われました。4×100mリレー決勝の結果を報告します。1着、6レーン、南川崎中学校、49秒87、……、……、鈴木ミカさん、前川あゆみさん。2着……」


「あゆみ!! やったね!!」

観客席側を見上げると、お姉ちゃんが目に涙を浮かべながらこっちを見ていた。


「えへへ! とったよ一番!!」

歯を見せて猫目の目尻が余計に吊り上がるようにニシシッとVサインをして私は笑った。

「ちゃんとあゆみの走り見てたよ! おめでとう!!」

お姉ちゃんも同じ目尻を釣り上がらせながらVサインを返した。

その時の姉の笑顔はあの太陽のような光を取り戻していた。



優勝した日から二週間。

「お姉ちゃん、母さんが湯ご飯できたって」

「うん、あとプランク1セットだから待って」

お姉ちゃんは走ることを諦めず、毎日努力している。

「さすが私のお姉ちゃん、いつか一緒に走ろうね」と心の中で思いながら私は夕食のカレーの匂いが漂う階段を駆け降りた。


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