地獄からの声
「はぁ…はぁ…!」
ゴミの散乱する冷たい路地裏を必死に走る。
幼い命を乗せた力無い脚はガラスや木片、そこに混じる砂土に傷付けられ、無視できないような出血が足跡を作る。
だが彼はそんなことなど厭わず、背後から怪物が迫り来るかの様に駆けた。
荒い息遣いはか細く、弱々しい肺と心臓に鞭を打ちながらいつもやってきたように酷使する。
躓きそうになってもその足を止めるわけにはいかない。
己の弱さを理由に立ち止まる事は、苦痛の享受に他ならないのだから。
狭い視界の奥に久しく見ない光が差す。
いっそ憎らしい人々の喧騒が聞こえ始める。
老いも若いも混在する人の海は少年からすれば檻の外で騒ぎ立てる獣の宴の如く。
普段なら煩わしく感じるそれも、しかし今だけは目指す先に目的が見え始めた証拠である。
少年は眩く思える光の中に放り込まれる様に呼び込んだ。
「———うぁ…!」
「———ってぇなガキ!」
出口の正面に居た大きな何かに衝突し、弾かれる様に地面に投げ出される。
直後に低い声音で紡がれた罵声がボールのように転がる少年へと飛ばされた。
「どこ見て歩いてんだ!」
地に頬をつける少年が見上げれば、そこには丸太のような腕を携えた巨漢が睨みつけるように此方を見下ろしていた。
牛車や馬車にでもぶつかったのかと錯覚したのだが、あながち間違いでもなかったようである。
「っ…!」
傷だらけの身体に小汚い服を纏った己を、男は蔑むような目で見下す。
それが少年にとっては日常的なれど、屈辱的でならなかった。
まるで象と鼠のような対比が描かれる中、少年は立ち上がりながら私怨と反骨心から睨み付ける。
「…何だテメェ…?」
少年の反抗的な視線が気に障ったのか、男の様相に苛立ちが浮かぶ。
明らかに己よりも弱い立場のものが怖気もなく立ち向かうというのは、己が舐められているという他ない。
男はその額に血管を隆起させながら、如何なるつもりか、少年の方へと手を伸ばす。
「(こんな奴、相手にしてる暇は…!)」
ただその日を生き抜かんとしぶとく生き残ってきた少年は、今だけは明確な目的がある。
こんな破落戸を相手している暇などないのだ。
「———ぐお…ぁ…!」
少年は己の小さい体を生かし、決死の思いで男の懐へと頭から突っ込んだ。
彼の頭頂が接触した瞬間、巨漢は搾り出すような情けない悲鳴を上げる。
少年はこの瞬間ほど己の矮小な肉体に感謝した事はないだろう。
彼は背後で股間を押さえながら膝から崩れ落ちる巨漢を無視し、人集りの隙間を縫うように駆け出す。
「(どこだ…!?どこに———!)」
危機を脱した彼は忙しなく首と視線を動かしながら目的の人物を探し出す。
だが周りは体の大きな大人ばかりで、背の低い彼では満足な視界を確保することも叶わない。
「(白い、髪の———)」
段々と焦燥が募る。
ただ人を探すだけ、それが彼に与えられたたった一つの仕事であった。
それを熟すことこそが、自身を、そして家族を救う唯一の道であった。
「ハァ…ハァ…!」
彼が彷徨う間も刻一刻と時間は過ぎて行く。
目的遂行に与えられた寿命は消費されて行く。
心臓が破裂しそうな程に激しさを増す呼吸が、まるで秒針が刻まれる音のように聞こえる。
「(見つけ…ないと…!)」
走るのは得意な筈だった。
物を盗んで逃げることもあれば、命を狙う奴から逃げることもあったから。
そうしなければ生き残れなかったから。
ゴミ漁りは得意だった。
慣れなのか何なのか、食べれるものとそうでない物を見た目と臭いで判断するのはいつの間にか出来ていたことだった。
だというのに物を探すなんて簡単なこともできない己に嫌気を通り越して失望しそうになる。
やはり己のような弱者は陰で腐った塵を喰らって生きることが相応しいのではないだろうか。
短くなる呼吸。
身体に回る酸素が薄くなり始め、足の動きも鈍くなり始める。
無理に動かした身体に殺人的な疲労が現れ始め、徐々に視界がぼやけて行く。
「ニー、ナ…」
結局は地獄送りだ。
それがこの世なのかあの世なのかは分からないが、どっちだって構わない。
ただ、妹だけは幸せになって欲しかった。
少年は儚い想いを胸に、血を吐きそうな喉から妹の名を絞り出し、その場に膝を付いた。
———その時であった。
「………………ぁ?」
少年の視界の中に、まるで人の形を浮き彫りにしたかのような白い影が顕れる。
人通りは変わらず、今だって目の前には通行人の身体がいくつも存在している。
だが遥か奥に存在している筈のその影はそれらが存在しないかのように少年の目に映り込んでいた。
「———居たッ、アレだ…!!」
少年は思わず叫んだ。
何故だか分からない。だが彼はアレこそが目的の人物であると確信したのだ。
少年は錆びついたブリキ人形を無理矢理動かすように身体を持ち上げ、走り出す。
砂漠の中心で渇きに喘ぐように必死に酸素を吸いながら一心に影を追う。
非力な腕で人混みを押しのけ、罵声を飛ばされようと、少年の赤い足跡に悲鳴を上げられようと構わず這うように進む。
次第に影は大きくなり目の前へと迫っていた。
「ぐっ…ぅ…」
そうして眼前へと躍り出ると同時、少年は誰かの足に躓き、その場に転がる。
空気が吐き出され、鈍い痛みから苦悶の声が漏れ出した。
だがここまで来てそんなことに弱音を吐いてなど居られない。
顔を上げれば、影の人物の足は少年に驚いているのか止まっている。
彼はこの瞬間を逃す訳にはいかないと、上半身を立て、身体を引きずるように這い寄った。
影がこちらを向く。
何か言葉を発しているようだが、何を言っているのか分からない。
ただ困惑していることだけは少年にも伝わった。
彼は最後の力を振り絞り、後ずさる影の足首を掴む。
そして天を仰ぎ、その存在へと神に祈るように縋り付き、跪いて言う。
「———たす、けて…ください…———」
その瞬間、少女は目を見開いた。
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