昨日の道、早朝の景色
「———失礼致します。ロードレッド様、お食事のご準備ができました」
早朝、木材の小粋な音が四度鳴る。
入室の許可を出せば、開かれた扉から聞き慣れた声が己を呼んだ。
執事長であるハーネスのものだ。
従者の指揮系統を司るということもあり酷く時間と所作に厳しい彼は、毎度必ず同じ時間———丁度己の腹の虫が鳴き始める頃に厳格な声と共にやって来る。
数十年間、ずっとである。
「ありがとう、すぐに向かうよ」
ロードレッドは彼の声に、感謝を忘れる事なく返事を返す。
向かうも何も、腹が空いているのだから食事にあり付かない理由はない。
彼は手に持っていたものを棚へとそっと置くと振り返り、小さな微笑みを作る。
すると彼の応答に一礼をしつつ、ハーネスは少しばかり遠慮するような様子で問う。
「…ミレイ様のお食事は…」
「…いや、私が持っていくよ。少しでも顔を合わせたいからね」
それは一ヶ月前から繰り返されている、不毛な言葉のやり取りだ。
けれども彼は決してこの問いを欠かすことはなかった。
そして、ロードレッドもまたそれを咎めることはしなかった。
それが彼なりの配慮であると理解しているのだから。
彼は了解を意を伝えると、それ以上口を開くことなく静かに退散せんと引き下がる。
「ハーネス」
そうして彼がドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を閉ざそうとした時であった。
ロードレッドの声が彼を呼び止める。
「何でございましょう」
その返事は流暢でありながら日頃の厳格さとは違う、ぎこちない、彼にしては不恰好なものであったように思えた。
芝居がかっていると言えばそれまでだが、これから何を聞かれるのか、何を問いたいのか、彼はよく理解していたのだ。
ロードレッドはそんな彼の機微を察しながら、何でもないことのようにあることを彼へと話す。
「昨日…散歩をしていてね、歩き損ねた道があったんだ。それが…酷く綺麗な道でね」
第三者が聞けばきっと理解できない。
この場にいる二人だけがその意図を共有できる問い掛けだ。
だからこそ、その言葉には大きな意味があるのかもしれない。
「…すまない。変なことを話したね。雑談のつもりだったんだが…」
居た堪れなくなったのか、先の話を掻き消すように支度に戻ろうとするロードレッド。
だが———
「ロードレッド様」
今度はハーネスの声が主人の名を呼んだ。
真っ直ぐな声がロードレッドの足を止める。
「私は貴方様の歩まれた道も、十分に綺麗であったと…そう、愚考致します」
空々しさとは無縁な、過去が投げ掛ける確かな導であった。
ハーネスはそれっきり、一言断りを入れると今度こそ扉の向こうへと身を引いた。
ロードレッドは一人残された自室の中で、つい昨日見た小さき勇者との会話と、そこに垣間見た意思の表明を思い返す。
「…勇者とは、そういう運命にでもあるのでしょうか…グラム様」
手放した物を眺めながら、彼はそう呟いた。
アルブレイズ家がロングレアにて保有する別荘の一つ。
ロードレッド・ロングレアがグラム・アルブレイズとの交友を交わした証として建てられた館はその潔白と澄み渡る志を象徴した純白に彩られている。
朝日が顔を出して間も無く、メアリスは隅の椅子に腰掛け、何かを目に映しながら窓の外を眺めていた。
「———メアリス様」
朝の明瞭とした脳に易しい丁寧な声音が彼女を呼ぶ。
彼女は館内に漂っている食欲を唆る香りに彼の用事に当たりを付けつつ、チラリと其方を見遣る。
「ああ、ありがとう。ただもう少し眺めていたくてね」
「…と、言いますと」
彼は窓から外を眺めているメアリスの側へと寄り、彼女の反対側から覗き見る。
そこには———
「おや…」
微かに聞こえる風切り音。
未だ涼しさ残る早朝の中、小粒の汗が黎明を超えた陽光に煌めく。
流転する魔力は風の如く、纏う気迫が熱を噴く。
偉大なる太陽の見守る下。
本邸に負けず劣らず広範な庭園の中心で純白を纏う少女が模擬剣———ではなく、《
「夜明け前からずっとだよ」
「ホッホ、随分と熱が入っておられるようで」
父親の死、王都の事変、友人の失踪。
数えれば数えるだけ溢れる不吉な出来事は、確かに未だ子供たる彼女には身を打つような経験だろう。
若い彼女の闘志を煽るには十二分と言える。
「君が手ずから、という事はしないのかな?」
「私では導師足り得ませんからなぁ」
「…そうかい?」
メアリスから見て、彼の練度もかなりのものである。
老化による筋肉の弛緩はあれど体幹にブレはなく、分厚い愛想の奥に潜めた警戒と殺気は並の暗殺者では並び立てない隠密能力を滲ませている。
だが———
「私には
メアリスが不思議に思っていると、彼は明確に答えた。
「私の…敢えて我流と言いますが、それは享受されたわけでも、理を掴んだわけでもなく、ただ経験の中で身体が慣れただけなのです」
慣れれば戦える。
積み上げられた経験が最適解を導き出す。
だがそこに必ずしも「理」は不要だ。
赤と青を混ぜ合わせれば紫になるが、その原理は知らなくても結果だけは知っている。どちらも答えには変わらない。
彼は死なない為に戦いの型を身に付けたのだと云う。
「それでは他者に伝授するにはあまりに
「…まあ、魔術のようにはいかないか」
彼の持論にメアリスは合点を示す。
魔術は才能こそ試されるが、記号があり、式があり、最適解がある。
目に見える答えがあるだけで、人は己の道を幻視し、さも光明が差したかのように感じてしまう。
実際は寄り道、蛇行も良いところだと云うのに。
「私が今まで見た中では、アインス様の理が最も美しいように見えますな」
メアリスはそのどうにも含みのある言い方に彼の顔を伺う。
だが黒々しさの見受けられない好々とした顔に怪しむ余地はなく、ジト目で向けられるメアリスの視線に混ざった疑念をヒラリと翻す。
「彼ねぇ…」
出会って間もないメアリスからすると、彼女が大きな変化を見せるのは大抵あの男が絡んだ時である。
まるで主人に飛びつく犬のようにさえ見えるのだから大貴族の長とは何なのかと問いたくなる程だ。
それが何でもない子供であればまだしも、所縁ある勇者の血筋であっては最早頭痛を覚える事案であった。
「…彼は…うぅむ」
白く細い腕と植物と化した肢体を器用に組んで唸る。
理解は出来るが納得し得ない。
というか理解している自分に納得したくない、と言った様子であった。
というのも、彼女自身彼の実力は人並み以上に把握しているつもりである。
例えばその異常な肉体強度や密度。
例えば彼女でも見落しかねない術理や膨大な魔力操作。
奇妙なのは、それだけの実力に反して魔術がからっきしであるように見えることだが、それはきっと不要なものを削ぎ落とした結果なのだろう。
だがそれでもなお彼女の胸に引っかかることがある。
一つは目的を隠していること。
昨日は面倒になって思考を放棄したが、気がかりであることには変わりない。
そしてもう一つは———悪意が感じられないこと。
あれだけ露骨に動きながらその真意が読み取れない。
もし善意での行動ならばなぜ目的を打ち明けないのか。
そんか彼の行動全てがメアリスにとっての暗鬼と化す。
「…仮に利害が一致したとして…それでも手を貸す理由にはならない。無機質な利害の共有なんてものはただの鎖だ。お互いにとって、ね」
「ホッホ。まあ私も心を砕いてお話しする、などということはできませんな」
腰に手を組み、老いに負けず直線を描いて直立する彼がカラカラと笑う。
陽気な彼を見ていると、思考の海に身を浸からせている自分が沼にでも囚われているのではないかと錯覚してしまう。
「ただ…アインス様も何かしら抱えておられるご様子。アリア様はそれが知りたいのでしょう」
ジークの見解に、それは松明も無しに闇に飛び込むようなものだろう、と云う声は内に止める。
そんなことは彼も、そして彼女もきっと理解しているであろうことだからである。
「《勇者》の名を冠するのならば、それくらいの度胸はありませんとな」
「…存外、厳しいんだね」
「勇気も無謀も、蛮勇が許されるのは青き頃のみ。若気の至りにございましょう」
私にはもう後がございません故。
メアリスには縁遠いブラックジョークを惜しげもなく披露する彼に、人間の儚さを勝手知ったる彼女は苦笑する。
「…のらりくらりとしてきた私が言うのも憚られるが、主人を導くのも従者…なんて云うのは野暮なのかな?」
「勇者の決断に水を刺すなどとてもとても…痩けた案山子など主人の手足として動くので手一杯でございます」
戯けたように嘯く様に、不満そうな顔を隠さないメアリス。
たが、何となく彼の言いたい事は察せられたようである。
仄めかして濁す彼に年甲斐もなく無骨を貫き、答え合わせのように口に出す。
「…選択は自由、ただし退路も拠り所も有り、と。……難儀だね」
「何のことですかな、ホッホッホ」
そうして取り止めもないやりとりをしている二人がふと外を見る。
すると、そこにはこちらに気が付いたアリアが元気そうに手を振っている姿があった。
「…ジーク君、今日は何か予定はあったかな」
「特には」
「なら、また何か食べに行くのも良いかもね。この街は料理が美味い」
「畏まりました。ではその様に」
メアリスは頬杖を付きながら柔らかい笑みを溢し、そう言った。
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