死に微笑む月夜の記憶

「———殿下」

 

「…ああ、有難う」

 

 

 王族にしては比較的質素、平民にとっては御伽のような埃一つ無い自室。

 本を手に柔らかな椅子に深く腰を下ろすデュークは、音も無く横から現れた珈琲のカップのハンドルに指をかける。

 

 差し出す相手故、一切疑うことなく口元へ運びソレを含んだ。

 

 音楽でも流れそうな程に優雅な時間が絢爛なる部屋を支配する。

 

 

 

 

 

 

「———ゥボァ…!」

 

 

 

 

 

 

 同時、煌びやかな装飾に染まった部屋の中で聞こえるとは思えない奇声を発するデューク。

 

 含んだ珈琲が紙と床にぶちまけられブラウンに染まってしまう。

 

 

「ッ、如何なさいましたか殿下!」

 

 

 すわ一大事か、と血相を変えて駆け寄るユラ。

 

 いっそ吐血しそうな様子を見せてなおカップを落とさなかったのは上流階級の誇示か、流石と言うべきだろう。

 

 よもや誅殺か、とこの光景を目撃した者ならば誰もが疑うであろう中、デュークは体を震わせて彼女を下から睨みつける。

 

 

「オイ…何だコレは…!甘過ぎるなんてものじゃないぞ!」

 

 

 甘い。尋常じゃなく甘い。

 もはや砂糖に肉体を侵される程に甘ったるかった。

 

 独特の苦味ではなく冒涜的なまでの甘みによって眠気が消し飛んだデュークに、ユラは心底不思議そうに首を傾げる。

 

 

「疲れている時には胃にクるくらいには甘いものが良いと…」

 

「…一体どこでそんな事を———」

 

「———アリア様が」

 

「アイツは…!」

 

 

 変なことを吹き込むな…!

 一瞬にして胸が焼き切れそうになるような物などただの劇物である。加えて純粋な毒で無いだけにタチが悪い。

 

 カップを返す彼は怒りを抑え込むように額に手を遣り、心中で怨嗟を吐く。

 

 

「全く…」

 

 

 まだ凡そ子供と言って差し支えない歳であると言うのに、その姿は宮廷内でよく見かける忙殺されかけの大臣のようでさえあった。

 

 心安らぐはずの自室でさえこのようなテロが起きては無理もないだろう。

 

 

「………ふっ」

 

「……突然笑い出してどうしたのですか。まさかあの男に頭を———」

 

「不敬罪で処されたくなければその妄言を止めろ」

 

 

 怒りに顔を歪めたかと思えば突如噴き出したように微笑を浮かべる彼に、本気で心配そうな様相を見せるユラ。

 

 とはいえ微笑それも今のやり取りで消え失せたわけだが。

 

 

「…いや何。ただあんな悪夢のようなことがあったというのに、今もこんな下らないことを言えるのが不思議に思えてな」

 

 

 デュークは汚れた本を机に置き、語る。

 

 

「賢者殿が居たとはいえ、あの怪物を相手にオレやお前達が生きていることが信じられんのだ」

 

 

 彼は傷こそ負わせることが出来なかったとはいえ、あのギーリークとたった一人で対峙したのである。

 

 まるで風に吹かれる種火の如く祓われる魔術。

 剥き出しの狂気に晒され、己の精神まで侵されそうになる絶望感。

 

 

「お前達が来てくれたお陰で何とか勝利することができたがな」

 

「…私が居なくては殿下は空回りしてしまうだろうと思いまして」

 

 

 そういつものように巫山戯た軽口を叩く彼女の声には、何処か誤魔化すような含みが感じられた。

 

 

「あそこに来る前、賢者殿に会っていたんだったな」

 

 

 デュークは彼女達が奴と立ち会った時、メアリスと言葉を交わしていたことを思い出しながらそう問うた。

 

 あの時の様子から、尋常ならざる出来事があったことは察するに容易い。

 

 デュークは足を組み替え重ねた手を膝に落ち着かせる。

 

 

「話してみせろ。王都で何があったのかを」

 

 

 そう促す彼にユラは目を伏せ、了解の意を示す。

 

 

「…はい。あの時、私は王都で魔物共を潰しておりました。そこで———ある残党の一人と邂逅しました」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遠くから、或いは直ぐそこから悲鳴が聞こえてくる。

 野太く、甲高く、幼い旋律達はあまりに無力で、あまりに惨い。

 

 それら全てが彼女の端正な眉を歪ませるのには十分であった。

 

 彼女は己の眼下に倒れ伏す男の首を掴み、持ち上げる。

 息は無く、何の抵抗もなく軽々と持ち上がる遺骸はまるで内臓を詰めただけの人形のようであった。

 

 

「…魔道具か」

 

 

 眼前程までに持ち上げた目の前のソレを凝視する。

 

 施される意匠、形は記憶に新しく、つい先程彼女を地に伏した存在が被っていたものと全く同じものである。

 

 素材は無骨な金属であり、目元どころかどこにも穴は空いていない。

 何よりそれに覆われた向こう側はまるで見通すこともできず、魔力を通して尚霧がかかったようにぼやけている。

 

 正体を隠す為だけに存在するような代物だ。

 

 

「あの男もそうだったが、認識阻害とは…厄介だな」

 

 

 忌々しげにそう言う。

 

 紐がついているわけでもないというのに如何にして固定されているのか、顔の輪郭を模るようにピッタリと嵌る仮面。

 

 彼女は邪魔だと言わんばかりにその縁に手をかけ、剥し———

 

 

「———ッ!!」

 

 

 ———その瞬間だった。

 閃きと共に仮面が男の顔面ごと削がれる。

 

 鮮血が舞い、仮面に埋まったまま輪切りとなった顔面が道の端へと転がった。

 

 ユラは自身へと向けられていなかった殺気に遅れて気づき、その首から手を離すとともに魔術を展開する。

 

 

「———不躾というやつじゃないか」

 

 

 石を叩く音も無く、土埃に影が浮かぶ。

 投げかけられた声は低く、無惨な死体と化した者とそう変わらない。

 

 

「人の秘密はそう暴くものじゃないだろう」

 

 

 そうして現れるのは———やはりというか、ここに来るまでに数度と見た、全く同じ姿をした仮面の男であった。

 

 

「次から次へと…まるで虫のようだな」

 

 

 ユラはそう悪態を吐きながら即座に腕に鋼を纏う。

 

 更なる質量を得た拳を握り込めば、獣が唸るように籠手が軋む。

 

 

「結構。侮られるならば本望だ」

 

 

 自嘲か或いは彼女への嘲笑か、半笑いを思わせる声音でそう返す。

 軽くナイフを振るえば紅の剣身から銀色の光が覗く。

 

 

「血の気の多い…冥銭かねは用意しているか?冥土へ行くのもタダじゃないらしいが…」

 

 

 彼は軽口を交え、彼女に呼応するように指で挟んだナイフを回し逆手に構える。

 

 ———両者共に流れるように臨戦態勢へと入った。

 

 

「無用な心配だ。必要無いからな———」

 

 

 そうして返答間も無く、砕け散る石畳の上からユラの姿が消える。

 

 男が揺れるように身を翻せば、突風と共に拳が眼前を通過する。

 

 

「粗暴な女はモテんぞ———《迷妄の霧リドルドロ=フォモス=ハーレン》」

 

 

 男が唱えると同時、彼を中心に魔力を帯びた濃霧が渦巻く。

 

 視界を一色に染め上げる霧は距離を狂わせ、狭い市街地であろうともその位置を惑わせる。

 

 

「…ご丁寧な芸だな」

 

 

 一寸先さえ見通すことを許さない濃霧が探知を阻害する。

 

 ユラは目を細め、鋭く研ぎ澄まされた神経を霧の奥へと差し込む。

 

 相変わらず足音は無く、彼奴の動きで霧が揺らぐこともない。

 

 ———振り返りざまに腕を振るう。

 

 粗雑に薙いだ鉄腕は、しかし直前まで迫っていた凶刃を正確に捉え、大きく弾く。

 

 見れば、零距離になって漸く姿を現した男が纏わり付くような濃霧の奥で嗤っていた。

 

 

「俺達の本領は奇襲、搦手、ついでに隠密…馬鹿正直に正面から切り掛かる訳がないだろう」

 

「他の者は素直だったがな」

 

「それは目立ちたがりの馬鹿だっただけだろう」

 

 

 霧から放たれる蹴撃を往なし、続く直線的な蹴りに拳を合わせる。

 弾かれた男は再び濃霧の向こうへと姿を消し、場が仕切り直された。

 

 

「(…埒が明かないな———)」

 

 

 この特異な濃霧は気動によって揺らがない。

 その事実に、ユラは苛立たしげに眉を顰める。

 

 そうして、少しでも男の動向を探るべく霧から逃れんと地を駆けた。

 

 ———撹乱する彼女を追うように襲い来る霧に紛れ、男の手から離れたナイフが彼女の命に喰らい付くが如く閃く。

 

 それを刃の輪郭に沿うように躱すユラ。

 

 

「———コレは…ッ」

 

 

 だが回避の瞬間、首筋を撫でる細い感覚を捉える。

 

 ———霧の奥にあの男の影が重なった。

 

 それと同時、急速に軌道を変えたナイフが弧を描き始める。

 

 

「…随分と仮装と小細工が好きらしい———」

 

 

 高速で旋回したナイフが狙うのはユラの首筋である。

 彼女がそれを見逃すはずもなく、伸ばされた手が迫る凶刃を掴み取った。

 

 しかしその意識の隙間、男はナイフへと注がれる視線を盗みドーム状に霧が展開する。

 

 僅かに遅れ、ユラは糸を掴み取り勢い良く糸の先にいる存在を引き寄せた。

 

 

「な———」

 

 

 そうして飛び込んでくるは———糸の掛けられた瓦礫。

 あの一瞬で男は己と同じ質量の岩塊とすり替わったのだ。

 

 瞠目するユラ。

 ———その背後に霧を裂く影が現れる。

 

 

「———…コレでも反応するのか」

 

 

 背後から奪い返したナイフで流れるように斬り上げるも、寸前で翻され空を切る。

 

 舌打ちをする男へと反射的に放たれる鉄拳のカウンターが彼の頬を浅く切り裂いた。

 

 男は即座に離脱し、再び霧の奥へと沈んでゆく。

 

 

「(ならば———)」

 

 

 ———ユラは踏み出した右脚で地を割る。

 

 すると地底から溢れ返るが如く槍が飛び出し、霧に覆い隠された一帯を一瞬にして剣塚へと変えた。

 

 石畳が抉り返され、瓦礫が宙へと投げ出される。

 釣られる様に霧が掻き消え、視界が明瞭となる。

 

 

「(ッ———威力が…)」

 

「———荒技が過ぎる。霧がなければ胸に風穴が開いていたところだ」

 

 

 鮮明となった感覚に従い呆れた様な声のする方へと睨みを利かせれば、天を衝く槍の先から見下ろす男が居た。

 

 ———その左手は半ばから先を失っている。

 

 乱雑に放たれた槍に穿たれ、離脱するために瞬時に切り落としたのだ。

 

 

「…霧の魔力で探知しているのか」

 

「便利なものだろう。『霧』の神秘は『闇』に次ぐ『喪失』の力だが…何事も使い様だ」

 

 

 魔なる力を抑え込み、迷える者を深みへ誘う。

 それこそが霧に宿る神秘。

 

 魔術においては水と霧は似て非なる物として扱われるが、この二つは結界という側面を持つという点では同じ物である。

 

 水もまた魔を封じる力は一際強力であった。

 

 

「器用だな。『霧』は己の魔力や知覚まで惑わすと聞くが…」

 

「…それはまあ…場数だな」

 

 

 喪った感覚を補って余りある場数を経験していると、男は言う。

 ユラはその言葉に嘘は無いのだろうと受け止める。 

 

 男の動きは、或いは各国の精鋭部隊を凌ぐ程のものである。

 三下などとはほざいてはいるが、ユラは決してそれを真に受けない。

 

 

「(霧の魔術…搦手の苦手な殿下に薦めておくべきか)」

 

 

 こんな状況でも尚、想い遣るは己の主人ただ一人。

 

 きっと彼の御方ならばどれ程癖の強い魔術であろうとも使いこなすのだろうと、そう信じて疑わない。

 

 

「どうする。まだ続けるのか、その腕で」

 

 

 はなから逃すつもりのない———首を差し出せと命ずるユラを仮面の奥で嘲笑うように言う。

 

 

「…そんなに大事か、腕は」

 

 

 男は柳の如くユラリと身を起こし、寸断された左腕を水平に持ち上げると、残された右手でナイフを握り込み左肩へと添えた。

 

 

「手札が減っただけだろう、所詮———」

 

 

 ———そう吐き捨て、錘でしかなくなった腕を肩から切り落とす。

 

 そうして肩を赤の滲む外套で覆い隠し、己の血を浴びたナイフを右手に構えた。

 

 垂れる血は槍を伝い、血管の如く拡がり、濡らす。

 

 

「死は必然、生は奇跡。我が身可愛さに死を恐れる者に、殺しの刃を持つ資格は無い」

 

 

 男はナイフを携えた右手を額に当てるように掲げる。

 ユラにはそれが万念をその刃へと込めている様にも見えた。

 

 この男は先の『統括』を名乗る男に実力では劣るのだろう。

 

 だが、『殺し』の意味を知る者は死合いにおいてのみその暗い輝きを発する。

 

 

「…成程、癪だが良い言葉だ」

 

 

 ユラは膨れ上がる殺気に殺意で返答した。

 

 

「賊よ、名を名乗れ」

 

 

 男は喜びの滲む声で言う。

 

 

「———ゼス・ギオン。ほまれなき刃だ」

 

「ユラ・メギスルーク。我がはがねを以てお前を殺す」

 

 

 ———ゼスの立つ槍の鋒から嵐の如く霧が吹き荒れる。

 

 疾走するユラを眺めながら彼は楽しげに言う。

 

 

「———今が夜で良かった。月は死に寛容だ」

 

 

 ゼスを呑み込んだ霧の壁から五つの何かが飛び出す様に放たれる。

 霧の触腕はそれぞれ異なる軌道を描き、ユラへと迫った。

 

 いづれからもゼスの気配はしない———否、読めない。

 

 ユラはその全ての迎撃せんと鋼の牙を生み出し、地中から突き上げる様に切り裂く。

 

 ———しかし、その何れも手応えは文字通り霧そのもの。

 牙を避けるように広がった霧は瞬く間に彼女を囲う。

 

 

「ッ、やはり———」

 

 

 ———厄介だ。

 

 そう悪態を吐こうとする瞬間、霧を突き抜け真上から何かが高速で来襲する。

 

 ユラは咄嗟に腕を交差し、その一撃———脳天を割らんとする蹴撃を受け止めた。

 

 鈍色のレギンスと籠手とがぶつかり合い、耳を劈く悲鳴が霧に木霊する。

 

 

「あらゆる感覚が薄れ行く中で魔術それを維持するのは中々堪えるだろう」

 

 

 弾かれる勢いで飛び上がり、舞う様に降り立ったゼスが不適に嗤った。

 

 同じ状況下にあるはずの彼は、しかしユラの様な消耗を欠片も見せはしない。

 

 

「(———場数…か…)」

 

 

 ———再三言うが、彼は決して強者ではない。

 

 その戦闘法スタイルは己の得意な土俵に引き摺り落とし、弱者を騙る脆い刃で格上を刺す。

 動きは呼吸するが如く、ユラをして逃れることのできない檻と罠を張り巡らせる。

 

 文字通り、途方も無い場数を踏んだ狩人のそれ・・だ。

 

 

「(———なれば、此方はそれを食い破る猛獣であれば良い…!)」

 

 

 ———焦燥の浮かんでいたユラの瞳に獰猛な光が宿る。

 

 地に足を着けたゼスは周囲の霧を集め、宛らローブの如くその身に纏う。

 

 

「ユラ・メギスルークよ。人間を死から遠ざけるのは悪意への理解だ。故に善人は脆く、儚い」

 

 

 ゼスが地を蹴り、ユラへと肉薄する。

 

 まるで眩暈が起きた様に狭まる視界、遠のく音の中、流れる様に繰り出される連撃が彼女を翻弄する。

 

 白い霧が尾を引き、ゼスの彼の骨格を、身躯を包み隠す。

 それは古武術の袴の如く、相手に足運びを、身体の駆動を読ませない。

 

 

「だがこの世には決して逃れられない悪意がある」

 

 

 僅かな反応の遅れがゼスに一撃を許し、変則的なナイフがユラの人中へと吸い込まれる。

 

 鋒が肌を破る寸前、両手を割り込ませることで防ぐ事に成功するも、その刃のは強度の減衰した籠手を両掌ごと穿つ。

 

 そうして縫い止められた手を引き体制の崩れたユラの顔面へと鞭のような蹴りを撃ち込む。

 

 骨肉が軋む音が響くともに彼女は霧の奥へと放り出され、転がった。

 

 

「お前の大好きな主もそれに呑まれるだろう」

 

 

 魔力が僅かしか練られていないながら的確に急所を狙う一撃は相手の意識を刈り取るには十分である。

 

 況してや霧の神秘に包まれる中、己の強度も満足には上げられない。

 

 

「…————ッ!」

 

 

 ———霧を突き破り現れるユラ。

 

 即座に距離を取ろうとするゼスの懐へと地面に迫る程の前傾姿勢で潜り込む。

 

 伏せられていた瞳が下から鋭く睨みつけ、ゼスの秘められた視線と交差する。

 

 次の瞬間、彼の視界を鋼が閃く。

 

 

「ッ、手負の獣か———!」

 

 

 空気を貫く蹴り上げ。

 その爪先には、正に獣の爪の如き薄く光沢を放つ刃が添えられていた。

 

 血染めの獣の殺意が狩人ゼスの首を掠る。

 

 反撃せんと脚へとナイフを突き刺すゼスに構わず、蛇の如く畝る脚をその腕を巻き込んで首に絡み付けた。

 

 細身の女性から生まれるとは思えない膂力と瞬発力に骨が悲鳴を上げる。

 

 

「ォオ———ッ!!」

 

 

 ゼスは地面へと叩きつけるように身を捻る。

 

 そうして拘束を解かれた瞬間、霧に潜ませるナイフを死角から眉間目掛け放つ。

 

 体勢が崩れ、防御への移行が儘ならないユラへと全霊の殺意が込められた凶刃が迫る———

 

 

「———マジかよ…」

 

 

 ———ナイフが砕ける。

 

 面を上げたユラの額には、眉間のみを守る様に集中した鈍色が見えた。

 

 

「…イカれて———」

 

 

 ———乾いた苦笑を溢すゼスの胸を、たった一本の細い槍が貫く。

 

 血を吐き出すゼス。

 彼が膝を着くと同時、彼等を、そして一帯を覆っていた霧が晴れる。

 

 

「…油断…ではないな。どの道、負けていた…」

 

 

 本来の力が肉体へと帰ってくる感覚を覚えながら、ユラは立ち上がり、そう自嘲する彼を見下ろす。

 

 

「…お前は…恐ろしい狩人だった」

 

「それは…ありがたい、お言葉…だな」

 

 

 吐血の他に、血が流れ出ることはなかった。

 

 全身に傷を刻み腕を切り落とし、短時間とはいえ激しい戦闘を交わした男は、その様相以上に消耗していた。

 

 彼は糸が切れた人形の様に項垂れたまま、ポツポツと置き土産代わりの遺言を贈る。 

 

 

「ユラ…メギスルーク。…あの王子に…朝日は…拝めん、ぞ」

 

「———」

 

「言った、だろう…———月は、死に寛容だ」

 

 

 動揺に瞳が揺れた彼女を前に、ゼスは満足そうな顔で瞼を閉じる。

 

 

「———賢者と愚者の言葉…好きな、方を…信じると…良い」

 

 

 彼の言葉が続いたのはそれきりであった。

 

 殆ど悲鳴の止んだ王都の石畳の上、一人の人間の記憶に刃を刻んだ男は息を引き取る。

 

 ユラは何処か怖気を滲ませながら夜空を見上げ、彼の言う月を見遣る。

 

 

「———ッ!!」

 

 

 ———視界にノイズが走る。

 

 思わず額を抑え、見えたものを掻き消すように瞳を押さえつける。

 

 

「———何だ…ソレは…」

 

 

 ———その瞬間、ユラは狂う視界に確かに見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———黒い鎧に蹂躙される、己の主人の未来すがたを。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「———結局、私はメアリス様の言葉を信じ切ることができませんでした」

 

 

 魔物を嗾けたであろう悪党の言葉と、主を含めた大勢を救わんとした英雄の言葉を天秤に掛け、彼女は最後に愚者の言葉を選んだのだ。

 

 曝け出した恥に、己の心の弱さに、ユラは彼を前に悲壮に暮れる。

 

 そんな彼女に、淹れ直したコーヒーを含みながらデュークは語る。

 

 

「先程も言ったが…お前達が来なければ俺も、アリアも死んでいただろう。ともすれば、賢者殿さえも…」

 

 

 選ばれなかった暗い道を振り返るのは野暮だと、そんな心情の察せられるボヤくような声で労う。

 

 

「お前の選択は俺たちを救ったのだ———よくやった、ユラ」

 

 

 己が肯定したお前を、お前自身が卑下することは断じて赦さないという意思の込められた翡翠がユラを射抜く。

 

 ユラはその慈悲に、即座に跪く。

 

 

「…至極恐悦にございます」

 

「うむ、それで良い。俺が言えた義理はないが、俺以外の言葉に惑わされるなど従者としてあるまじき事だ。お前はお前を信じろ。これは命令だ」

 

「———御意」

 

 

 恭しげに首を垂れるユラを目下に、話は終わりとばかりに視線を外す。

 

 

「それにしても…俺を見た、か。よもや魔法にでも目覚めたか?」

 

「それならば重畳。しかし…」

 

「分かっている、冗談だ。あるとすれば精神に作用する魔術といったところだが———」

 

 

 思い当たる節が無いわけではないが、そもそも魔術で干渉されたことにユラが気が付かないのも不自然だ。

 

 或いは相応の手練なのか。

 或いはこちらの想像を超えた何かなのか。

 

 ギーリークや勇者を殺害した男のことを思えば、後者が否定できないことが恐ろしい。

 

 

「霧の神秘にやられたか?」

 

「…否定はできません。あれは、二度も相手にはしたくないところです」

 

「だろうな。俺なら霧に囚われた時点で詰みだ」

 

 

 場の条件が揃った上での劣勢であったとはいえ、一戦闘員でさえ彼女を追い詰める。

 

 それは相手が想像以上の層の厚さを誇っていることを意味していた。

 

 

「(あの男は言っていた…世界の革変、と)」

 

 

 英雄を殺せる存在。

 それらを筆頭し、新たなる脅威。

 

 ———狙いは、決して王国だけではない。

 

 

「『開闢の門』…何としてでも早急な対応が必要だな」

 

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