獣狩り
メアリスがギーリークと対峙した頃、デュークとアリアは斧槍一本で稲妻を抑え込んだ黒獣を見据えていた。
黒獣はスリットの奥から荒い唸り声と共に気霜のような蒸気を洩らすと立ち上がり、突き立てた斧槍を引き抜く。
稲妻の雨を一身に浴びたその鎧は僅かなあれど良くてかすり傷ばかり。
幾許かマシと言えるのもアリアが叩き込んだ一撃によるものと、斧槍に付いたデュークの放った稲妻の槍によるものくらいであった。
黒獣は片手を着き身を低く、得物をその肩に担ぐ。
恐らくは、それがこの獣の「構え」なのだろう。
この獣には武が無くとも獲物を狩る「型」はある。
少なくとも真正面から対峙する二人にはそう見えた。
頬を伝う冷や汗を鬱陶しく思いながらアリアは《栄光の剣》を引くようにして顔の側に構える。
「(さっきの一撃…手応えはあった…)」
漆黒の鎧、その腰辺りに付いた傷。
それは先程アリアが振るった一閃によって付いた傷であった。
それさえかなりの魔力と気力を奮って見舞った一撃のつもりであったが、どうやらこの獣によっては大したダメージにもならなかったらしい。
だが———
「(あの男より硬くない…そして、再生はしない)」
———それは即ち、殺せる可能性も十分にあると言うことである。
一瞬、されど彼女にとって永く感じた瞬きの間に瞼の裏に浮かんだ情景は、感情のままにあの男へと突貫し、そして塵でも払うようにあしらわれたあの時の己。
突き立てた剣の切先は皮一枚すら破ることはなく、むしろ返ってきた衝撃にその手を弾かれそうになった、あの山さえ頼りなく思える程の不動。
あれに比べれば、きっとこの世の凡ゆるものは小枝のように脆く、軽く、軟い。
アリアは自身で抉り返した光景に歯を食いしばり、柄を握る手に力を込める。
「(大丈夫…)」
アリアは憎しみを抑え目の前の敵へと澄んだ殺気を飛ばす。
背後に感じるのは己に向かう信頼と眩い程に頼もしい黄金の輝き。
「デューク…」
「…ああ、賢者殿にはギーリークも任せてしまっている。そして術者が死ねば召喚物も消える。ならば俺達が奴を食い止める…あるいは討滅するべきだろう」
デュークは彼女の隣に並ぶと同じように戦いに臨むべく魔術師としての構えを取る。
白銀の鎧と黄金の王衣は共に美しく、高め合うが如く淡く光る。
獣は「構え」よりさらに低く、僅かに後ろへと重心を傾ける。
———攻めの兆し。
《
「黒き獣を討つ…説教を受けて余りあるいい土産話が出来そうだ…!」
「来るよ…!」
そうして二人が獣の一撃を迎え撃つべく前に置く脚へと身を傾けた瞬間、黒獣の足元が爆ぜる。
咆哮を放ち、一直線に二人の正面へと飛び込んだ黒獣は担いだ斧槍を両者の頭上より振り下ろす。
二人は左右に散るように回避し、両傍から挟むようにして黒獣へと向かった。
「ハァッ!」
アリアは大きく身体を倒し、急な弧を描いて背後へ回り込むと再び関節部を狙った突きを放つ。
地を駆ける流星の如き突きは正確な軌道を描き鎧へと吸い込まれて行く。
しかしその切先が届く寸前、アリアの眼前へと黒い壁が出現する。
「くっ…!」
大きく反り返り拳を翻す。
アリアの視界の下から上へと重厚な鉄塊が突風と共に通過した。
彼女はそのまま身を反転させ、前進する力のままに刃に圧縮した魔力を真っ直ぐに叩き込む。
『ッッ!!』
———黒獣の咆哮が、アリアの腹部に内臓がねじ切れるような衝撃が加わる。
「ァ゛…ッ!?」
蹴り弾かれるアリア。
口から溢れ出た濃い血が宙を舞う。
そうして弾丸も斯くやとばかりの彼女を分厚い大気の壁が受け止める。
次の瞬間にはその全身を陽光の如き温もりが包み込み、肺臓の損傷までもを癒した。
アリアが気分の悪い余韻を感じつつ顔を上げれば、そこには敵を警戒しつつ此方へと手を翳すデュークの姿があった。
「…デューク…使えたの…?」
「色々あってな…即死は無理だが、欠損くらいならどうにかなる」
色々、とは間違いなくあの狂人が関係しているのだろうが、露骨に表情を歪める彼にアリアはそれ以上深入りしようとは思えなかった。
彼女はデュークへと感謝の意を伝えると彼同様、此方へと地を鳴らしゆったりと迫る存在を見遣る。
即死を免れたのは単にメアリスの魔術による強化の賜物か。通常であればあのまま胴が泣き別れしていたところだろう。
「優先は…攻めよりも守り、回避だ。死んだら元も子もないからな」
「了解…!」
それだけ交すとアリアは前後に脚を開き剣を霞に構え、デュークは後方へと退く。
同時に眼前へと迫る黒獣が片手に持つ斧槍を後方下段に下げ、人間からすれば中距離とも言える距離にて掬い上げるように斬り込む。
「何ソレ…!?」
地面に亀裂を生む斬撃は、魔術にも似た鋭い衝撃波を放つ。
風の魔術とはまた違う荒技にアリアは目を剥き、咄嗟に横合いに回避した。
しかし黒獣はそれを予見していたのか、あるいは勘か、狙い澄ましたかのように彼女の行先に向けて突きを放つ。
———《
———《
凍り付くような感覚と共にデュークの声が響く。
すると目の前の槍が僅かに下へとブれ、同時に新たな足場となる岩の柱が出現する。
アリアは身を捻り岩へと着地し、槍を越えるようにして飛び込み、黒獣へと一撃を浴びせた。
「ヤアァ!!」
鎧に刻まれた綻びを狙った一振りが白銀に弾け、黒獣の巨体をよろめかせる。
「———ハァッ…!!」
畳み掛けるようにデュークがアリアを追い越し、正面から鎧の頭部へ加重と加速を併せた蹴りを撃ち込んだ。
体躯に見合わない質量の一撃に黒獣は身を後方へと押される。
だが杭を打つように脚を一歩地面に打ち込むとその身はぴたりと止まり、ぐるりと半円を描くように上半身ごと斧槍を横薙ぐ。
相手のフィジカルから間違いなく反撃が来ると予言していたアリアは、己を正確に狙うソレを脱力するように倒れ込むことで避ける。
「なん———!?」
しかしその瞬間黒獣が弾くように腕を振るえば、斧槍が柄の中心を起点に高速で回転する。
アリアの視界に通過したはずの刃が音を切り裂き現れた。
横合いに転げるように翻せば、回転する斧槍が地面を抉る。
宙に飛ぶデュークをも巻き込もうとしたのか、離れた位置へと回避し着地した彼と視線を交わした。
だがソレも束の間、即座に斧槍を手にした黒獣が斬撃の波を両者へと見舞う。
「あっ…ぶない!」
「宙にも飛ばせるのか!」
そうして姿勢を崩した両者———ではなくアリアへ向け、黒獣は突進する。
再び降り注ぐ死の雨を、アリアはデュークの魔術による援護を以て冷や汗を切り裂かれながら、刹那との勝負の中翻し続ける。
人数の有利。
手数の有利。
賢者による強力な身体強化。
しかしそれらを以てしても確実に余裕を失い始めるアリア。
そしてそれをただ後方から援護することしかできないデュークに焦りが募る。
「(何故アリアばかりを狙う…?)」
そんな中、デュークはそんな違和感を感じていた。
賢者と戦線を分たれ二人となった瞬間、黒獣はどの攻撃においても狙っているのは彼女のみ。
近距離戦闘が主であるからかと思えば両者が距離を置こうとこうして彼女を狙う。
一体そこになんの意味があるのか。
彼はそれを探ろうと思考を加速させると、一つの可能性に思い当たる。
「(まさか…ギーリークの意思が反映されているのか?)」
ギーリークは最初彼女よりも己に強い興味を向けていたが、彼女と邂逅した瞬間には一体何を見たのか、標的を変えるように彼女へと強いアプローチを掛けていた。
召喚獣とは術者の心理的な動向に沿うものだ。
ならば、この黒獣の行動にも納得が行く。
だがこの戦いは二人が揃い、そして分散することによって相手の意識を撹乱するからこそ成り立っている防衛戦だ。
基本相手は常に攻め、そして己達は常に守る。
そうでなければ戦いではなくただの蹂躙へと変わってしまうのだ。
今のこの状況は両者にとって、謂わば獣に腱を切られようとしているようなもの。
其処に時間など———ありはしない。
「(———それは…不味い…!)」
しかし故にこそその状況が、焦りが———
———アリアを失うかもしれないという事実が、デュークの判断を鈍らせた。
「———オレを見ろ獣ォ!!」
彼は風の翼を生やし、相手の視線が外れる隙を狙い背後へと瞬時に回り込む。
そしてその手の内に、出来る限りに圧縮した魔力から稲妻の槍を生み出した。
彼が選んだのは大胆に立ち回ることで相手に己を強く警戒させること。
単純ながら、確かにこの戦いにおいては要とも言える目的である。
だが———
「《四節詠唱———》」
———獣は知っている。
———獲物は最初から二匹いるということを。
「《———
そうして彼が槍を鎧の亀裂へと撃ち込もうとしたとき、黒い鎧の奥に鈍く光る瞳と目が合った。
先程まで確かにアリアの方へと向けられていた眼は、今それが嘘のようにデュークを捉えている。
「(———何だ…)」
それは視界に紛れ込んだ邪魔虫を見る者ではなく、確実に此方を刈り取るべく見定める狩人の眼。
あるいはのこのことやってきた知恵足らずの阿呆を見るような嘲笑の眼。
詰まるところそれは———
「(———誘い…だと…?)」
「(———術者の意思ではなく…コイツの罠…?)」
それを理解する頃、気が付けば彼は己が宙へと打ち上げられていた。
左脇腹から右の首元までもがごっそりと抉られ、まるで自分の身体では無いかのような喪失感を覚えた。
繋がっているのは背中の肉と骨程度。
投げ捨てられた人形のように宙を舞う彼の胴からは潰れたような内臓が見え隠れする。
「(ぁ…斬られた…のか…?)」
不思議と痛みは感じず、体の状態に反して酷く冷静な思考で聖魔術を行使しようと試みる。
そうして彼の体が聞くに耐えない音と共に地面へと投げ出された。
「(…上手く、練れ…ない)」
《
だが魔力は思うように巡らず満足に術式を行使することができなかった。
「(傷が…大き過ぎる、のか…)」
今の彼に出来るのは、精々流れ出る血を止める程度のことだけであった。
『———』
その傍で黒獣は斧槍を肩に担ぎ、何処か獲物を仕留めた喜びを交えたような唸り声を上げながら一歩、まだ一歩と死に体の彼へと近づいて行く。
「…待———てぇぇぇッッ!!」
その背後から眩く輝く剣を構えたアリアが鬼気迫る相貌で駆け、迫る。
冷静さを失ったようなその様子の中にも先程の研ぎ澄まされた剣気は残留している。
黒獣は肩越しにその存在を見遣ると———
「———ガ、ァッ…!」
———容易く蹴り飛ばしてしまった。
彼同様宙へと蹴り上げられた彼女はそのまま地面へと叩き付けられ力無く転がる。
獣はその姿を見ることもなくデュークの下まで辿り着くと、無惨な姿となった彼を無造作に拾い上げた。
「ぁ…め、ろ…ッ」
アリアは痙攣する身体を捩り見上げる。
其処には彼がオモチャのように掲げられ、鑑賞するように眺められている悪趣味な光景があった。
デュークはまだ意識があるのか、その身体に懸命に魔力を流し肉体を修復し続けていた。
そうして黒獣は飽きでもしたのか、徐おもむろに彼の腕を掴むと———無理矢理引き千切る。
「ァ゛ぁ…グ、ゥ…ア゛…ッ!」
中途半端な修復のせいか、正常な痛覚が彼へと凄惨な苦痛を与える。
だが肺の損傷によって満足に声を上げることも出来なかった。
黒獣は鎧の隙間から、正に化け物というに相応しい悍ましい口腔を展開し、千切った腕から絞り出した血を流し込む。
「ヤめ、ろ…!」
アリアはそれを———親友が弄ばれているのをただ地に這いつくばって見ていた。
その光景はまるで———
「…ぁ」
理解したく無いという拒絶、己の手の内から零れ落ちる熱、二度と会えない、去り行く者の儚い言葉。
彼は自分のために強くなろうと動いたのに、のこのことやって来た己は何も出来ない。
———また失う
———また奪われる
———あんな奴に
———あんなヤツ等に
———自分が弱いせいで
「(———助け、なくちゃ…お父様みたいに)」
使命感のままにボロボロの肉体を動かすアリア。
「(大丈夫…デュークはまだ…生きてる)」
剣を杖に、まるで糸に吊されるようにフラフラと立ち上がり白銀の魔力を練り上げる。
彼女は浅い息を整え、肺の痛みを耐えながら深く息を吸い———
「《———剣に誓いを———》」
血に刻まれた言葉を———
「《———我に栄光を———》」
———勝利の唄を紡ぐ。
「《———顕現せよ———
だが、それは最後まで奏でられることはなかった。
アリアは殴られることとも、斬られることとも、魔術に灼かれることとも違う強烈な衝撃が肉体を駆け抜けるのを感じ取り、澱んだ黒々しい血を吐く。
そうしてそのまま地に倒れ込んでしまった。
「(何、で…)」
アリアは何が起きたのかも理解できず、己の吐いた血に服を濡らす。
「デュー…ク…」
もう首を持ち上げることも出来ない中、彼女は視線を上へと遣る。
そこには滑稽に踊っていた己をおもしろそうに観ていた黒獣が、彼を大きく開いた口内へと放り込もうとする姿があった。
「ヤ…だ…ぁ…」
アリアはそんな光景を見て尚動くことの出来ない、親友一人助けることの出来ない己に絶望する。
「ヤだ…よ…」
そうしてその頬に零れ落ちた涙が流れる。
意味がないと理解しながらも、希望を求めるようにその手を伸ばす。
「———」
———だが、それと同時に獣はその手を離し、奈落の如き穴へと落としてしまった。
———瞬間、流れる紫紺が横から飛び込みデュークを攫う。
『ッ』
油断していた黒獣はその異変に唸り、その影を視線で追う。
しかしその反対側から紅蓮の熱線が開かれたままの口内を撃ち抜き、爆熱が肉を焼いた。
苦痛からか警戒からか、あるいはその両方からか、咆哮と共に黒獣は弾かれるように飛び退きアリアとその乱入者から距離を取る。
「な、に…」
まるで状況を理解出来ないアリアはボヤけた視界を彷徨わせ、混乱した思考を巡らせる。
そんな彼女の側へと一つの影が歩み寄り、彼女へと何かの液体をぶち撒けた。
「ぅ、あ…」
そうして何事かと思いながら抵抗できぬまま浸されていると、徐々に痛みが引き、身体に力が戻り始めるのを感じ取る。
「———私を助ける前に貴女が死んじゃったら意味ないでしょ?」
その現象を不思議に思いつつ、聞き覚えのある声の主を見上げた。
「カローナ…さん?」
「ヤッホー…なんて、言ってる場合じゃないけど。まあ、生きててよかった」
片腕を、片脚を失い、もうそこから動くことはできないだろうと思われた彼女が五体満足に目の前に待っていることに眼を白黒させるアリア。
しかしあることを思い出しハッとすると忙しなくその首を動かす。
「デュークは!?デュークは何処に———」
「———殿下はここに居られます。アリア様」
声のする方へと振り返れば、そこにはデュークを両手に抱えた一人の女性が居た。
「———ユラさん…」
「参上が遅れてしまい大変申し訳ございません」
「…ユラ、もう下ろしてくれ」
「大丈夫ですか?立てますか?」
「お前が治してくれたんだろう…」
デュークとユラの戦場ここにはそぐわない日常的な会話を横目に、アリアは放心していた。
「二人とも、どうして———」
『———ッッ』
そんなやり取りの最中、斧槍を地面に突き立てる大地の震えと低い怒りの声が響き渡る。
「…とりあえず、説明は後でいいかな?出来るかわかんないけど」
「…そうだね、絶対に聞かせてもらうから」
「ユラ、アリアの援護を頼む」
「畏まりました」
四人が見据える先、黒獣が斧槍を大きく振り上げる。
『———ッッッ!!!』
そうして、再戦の合図を轟かせた。
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