予感

 男の視界には、瞬いた瞬間には既に拳がゼロ距離にあった。

 

 

「———」

 

 

 男は首と上半身を僅かに傾けそれを回避する。

  

 同時に空気をかち割る様な爆音が男の耳元に響く。

 

 

「…無理だとは思っていましたが…成程…!」

 

 

 彼女は握る拳を開き手刀に構えると振りかぶる事なくそのまま男の首目掛け薙ぐ。

 

 男が一歩下がりそれを翻せば、またも大気が鳴き叫ぶ。

 

 巻き上がる風圧が両者の服の端を、髪を激しく揺らす。

 

 

「ふ…!」

 

 

 ユラは薙いだ勢いのままに巻き込む様に踏み込み男へ向け上段回し蹴りを放つ。

 

 男が手の甲で弾けば、彼女は反転し反対から蹴りを叩き込む。

 

 

「おっ———」

 

 

 直撃した男の上半身が傾いた。

 

 ユラは着地すると回転を維持したまま大振りの拳を男の顳顬へと打ち込む。

 

 踏み込む足は地面に埋まり、押し出す足は岩を抉る。 

 

 吸い込まれる様に男の頭部へと打ち出された拳は狙いを正確に捉えユラに確かな手応えを与えた。



「(重く…硬い…)」


 

 しかしその手応え———返ってきた感覚は「不動」。

 

 直撃した一撃は男に明確なダメージを与えなかったのだ。

 

 

「凄いなぁ…今度はこっちから行くよ」

 

「っ!」

 

 

 そう呟いた男は己の頭部に添えられた腕を掴み、振り返りながら頭頂を超えるように引き上げる。

 

 そうして、そのまま大きな弧を描いて上から背後の地面へと叩き付けんと振り下ろす。

 

 凄まじい力で引き寄せられたユラの足はいとも簡単に地を離れ、気がつけば視界に地面が迫っていた。

 

 

「フゥ…!」

 

 

 ユラは瞬間的に全身の筋肉を弛緩させ、手首、肩の関節を外した。

 

 

「ハ…ァ…!」

 

 

 そして宙に浮いたまま身を捻り、手首、肩をそれぞれ180°回転させ、まるで空を弾いたかのような勢いで男の首元へ横薙ぎの蹴りを放った。

 

 同時に手首に加わる圧力が緩んだ一瞬を狙い、地面に手をつきするりと拘束から逃れる。

 

 しかし彼女が着地した瞬間、男の手元が大きくブレる。

 

 ユラは咄嗟に身を翻し屈むようにしてその一撃を回避した。

 

 コマ送りにしたような一撃がユラの耳を掠める。

 

 

「ッ…!」

 

 

 だが翻したその先、視界の端にから飛んでくる膝を捉える。

 

 ユラは魔力を巡らせた掌底にてその蹴り上げを迎え撃つ。

 

 肉体の芯を震わすような衝撃が走る。

 

 

「くッ…!!」

 

 

 脚を地面を砕く程に踏みしめ、襲う衝撃を全て逃す。

 

 同時に足元が大きく陥没する。

 瓦礫が舞い、土埃が吹き荒れる。

 

 揺らぐ舞台のその中心で、ユラは男の膝に添えた手を離さない。

 

 

「フゥゥゥ……ッッ!!」

 

 

 そうして、先の一撃に応えるように更なる衝撃を相手に送り返す。

 

 

「お…っと!」

 

 

 男の蹴り上げが強制的に地面に打ち返される。

 

 ユラは重心がブレたその隙を逃さず追い討ちの蹴りを放つ。

 

 しかし腹に打ち込まれた回し蹴りが捉えたのは羽のような軽い何か。

 

 有り余ったエネルギーが後方へと流されたことを表すように男の背後の土埃が大きく舞い上がる。

 

 

「フ…ッ!」

 

 

 だが未だ体勢を持ち直していない事に変わり無い男にユラは拳の嵐を叩き込む。

 

 同時に男は地面を踏み締め、両手を構える。 

 

 まるで本物の嵐でも生まれるのではないかと思わせる程に暴れ狂う拳の雨を、男は違和感さえ覚えるような滑らかな軌跡で受け流す。

 

 

「フン…!」

 

 

 そうしてユラは最後とばかりに腕を大きく振りかぶり、男の顔面目掛けて放つ。

 

 男はそれを真正面から同じく拳で迎え撃つ。

 

 迫る力と力がぶつかり合う。

 

 

 ———ッ!!

 

 

 生まれる衝撃波に周囲の地面が捲れ上がる。

 

 しかしその衝突が競り合うことはなかった。

 

 

「っ」

 

 

 押し負けたのは———男。

 

 拳を弾かれた男は僅かに目を見開く。

 

 ユラはそれに構わず、振り抜くと同時に引き絞った左手を握りしめる。

 

 そうして———

 

 

「はぁッッ!!」

 

 

 ———思い切り男の顔面に叩き込んだ。

 

 轟音と共に男は背後は大きくのけ反る。

 

 天を仰ぎ、数歩後ろへと下がった。

 

 

「…」

 

 

 会心とも言える一撃を放ったユラは、しかし無表情ながら僅かに眉を顰めていた。

 

 

「…びっくりしたよ。今のどうやったの?」

 

 

 顔を起こし、ユラへと向き直る男はまるでダメージを受けた様子がなかった。

 

 接触した瞬間、ユラが感じ取ったのは己の拳への痛み・・・・・・・であった。

 今の一撃は男へダメージを与えるどころか、そのまま衝撃が彼女の拳へと弾き返されたのだ。

 

 ユラは全身凶器、どころか最早全身兵器と言っても生温い目の前の怪物への警戒心を更に一段階引き上げる。

 

 

「もしかして魔術かな?」

 

 

 だが、男が彼女の殴打を迎え撃たんと放ったカウンターを容易く弾いたのもまた事実である。

 

 男は己を押し切った技を彼女に尋ねる。

 

 それに対し、ユラは再度構えを取った。

 

 

「所詮は小手先ですが…まあ、そんなところです」

 

 

 彼女はその身に魔力を激らせ答える。

 

 巡る魔力に無駄は無く、余す事なく全身へと行き渡る。

 

 

「そんなに若いのに…よくやるねぇ」

 

 

 そう呟きながら、男はそこで初めて・・・魔力を拳へと纏わせた。

 

 まるで今しがた鞘から刀身を解き放ったように。

 

 

「いいかいデューク君、魔力っていうのは個人によって違う」

 

 

 水流のように滑らかな動きで彼の腕を伝う透き通った無色透明の魔力・・・・・・・

 

 しかしそれは空間を歪ませる程に濃密で、結界の外にいるデュークの肌を痺れさせる程の圧を放っている。

 

 

「でもそれは魔力の量や質だけの話じゃなくて、波長や流れるリズム、通るべき道や量に対する密度、速度、それら全てが十人十色なんだ」

 

 

 男の全身を駆け巡る魔力は濁流の如く激しく、しかし何処か優雅で美しい。

 まるで蛇に似た生物が一つの舞を舞っているかのようにさえ感じる程に。

 

 

「そしてそれらは正確な数値に表せない、酷く曖昧で漠然としたもの…だから感覚で覚えるしかない」

 

 

 腰を深く落とし男の隙を虎視眈々と狙うユラと、あくまでも自然体で悠々と魔力を踊らせる男。

 

 

「体を巡る魔力には重さも、硬さも、熱も、鋭さも、何も無い。そんな物を目で見るよりも正確に、精密に操作しなくちゃならない」

 

「ッ!」

 

 

 男が一歩、前へ踏み出すと同時、ユラが男の懐へと踏み込む。

 

 そうして、あの一撃を放つ。

 

 

「それがほんの少しでもズレれば…完璧からは程遠く、それはそれは大きく外れてしまう」

 

 

 再び両者の拳がぶつかり合う。

 

 男は散歩でもするように軽い、しかし確かな重さを孕んだ一歩と共に、ユラの蹴り砕かんばかりに踏み抜く一歩と共に打ち込む一撃が爆発的な波動を生む。 

 

 しかしやはりというか、鬩ぎ合いが起こることはなく両者の拳は反発するように弾かれ合う。

 

 

「…やっぱり重いね。それに速い」

 

「恐縮です…!」

 

 

 そうして始まるのは怒涛の乱打による、その応酬。

 

 側から見ればただの殴り合い。

 しかしその一撃一撃に秘められた砲撃の如き破壊力と、相手を潰さんと的確に急所を狙う精密性は殴り合いというにはあまりに物騒であった。

 

 人中を狙う突きを甲で逸らし、お返しとばかりに顎へ叩き込む掌底を撃ち落とす。

 

 鳩尾へ放つ打撃を弾き、喉を貫かんと撃つ貫手を殺す。

 

 一手に十二分な殺意を込めるユラを、緩やかな時間の中を生きているかのように正確に捉え捌く男。

 

 たとえ大陸中から武人を募り、一斉に戦わせたとしてもこれ程洗練された試合はそうそう見れないだろう。

 

 次第に加速する殴打の嵐は衝撃波を生み、周囲の土埃を巻き上げる。

 

 そうしてとうとう二人の姿さえ結界の中で隠れてしまう。

 

 ただひたすらに大気を割くような轟音と、ぶつかり合うような打撃音だけが響き渡る。

 

 まるで終局へと導かれるようにその音は加速し、張り詰めてゆく。

 

 そうして次の瞬間、一際大きな波動が発せられ舞台を段幕のように覆っていた土埃が一瞬にして晴れる。

 

 そこには先ほどと変わらず拳を交えたまま向かい合う二人の姿があった。

 

 

「…」

 

「…」

 

 

 お互いの顔面へと拳を向けたまま沈黙する二人。

 

 痛い程の静寂が円庭を包み込む。

 

 

「…降参、でございます」

 

 

 そんな中、その沈黙を破ったのはユラであった。

 彼女は男へ己の敗北を認める。

 

 

「…今回は俺の勝ちだね。まあ、こんなところじゃお互い本気なんて出せやしないし…次やるならもっと広いところでやろう」

 

「出来ればそのような日が来ないことを切に願います」

 

 

 まるで次の機会もあるかのように言う男に、ユラは何処か気疲れしたように返す。

 

 お互いの勝敗を理解した両者は、構えを解き再度向かい合う。

 

 

「…貴殿が何者なのかはこの際問いません」

 

 

 そう一言置いた彼女は、しかし次の瞬間には凍えるような声で告げる。

 

 

「しかし、もし殿下へ手を出すと言うのであれば…その時は全霊を以て貴殿を潰す」

 

 

 視線と声だけで人を殺せそうな程に威圧する彼女に、男は相も変わらず呑気な様子で答える。

 

 

「分かってるよ。俺はただ、彼にアドバイスしに来ただけだって」

 

 

 男は先程まで殺し合いにも近い戦闘を繰り広げた者とは思えない程に穏やかな雰囲気を醸し出す。

 

 そのチグハグさに、やはりユラは恐怖にも近い不気味さを感じ取る。

 

 

「…それならば、良いのですが」

 

 

 だがそんな未知に満ち溢れた目の前の存在について、ほんの一試合拳を交えた彼女は一つだけ、たった一つだけ分かったことがあった。

 

 

「じゃ、次はデューク君かな?」

 

「…はい、ありがとうございました。一度、殿下へ確認を取って参ります」

 

 

 それは———

 

 

 

「うん、よろしく〜」

 

 

 

 ———きっと己の死期が早まったのだという、そんな確信めいた予感であった。

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