幕開け
———《勇者》グラム・アルブレイズの戦死。
その訃報は王国中を震撼させた。
数十年もの間、王国の平穏を築いてきた英雄がたった一日の動乱にてその命を失ったのだ。
あの王都の上空で繰り広げられた激戦に勝利を収め、誰もが歓喜し英雄の帰りを待っていた矢先にやって来たこの知らせに、多くの国民が悲しんだ。
ある者は大粒の涙を流し、
ある者は国の平和が終わりを告げたと嘆き、
ある者は病に臥した。
その勇者を殺した者の正体もまた不明。
目的も、所属も、その勢力の全容も、全てが謎に包まれたままであった。
唯一その存在を目撃した者は言う。
その存在はひたすらに『黒』であった。
深淵よりもなお闇くらく、天を貫く程に強大で、それは勇者の力を持ってして膝を付けることさえ叶わなかった、と。
中には他国が侵攻を開始したのだと言う者も居たが、それだけの存在を抱えながら果たして隠し通すことなど出来ようか。
そして、彼の死が与える影響は王国だけには止まらない。
彼は間違いなく大陸でも比肩する者など数える程も居ない強者。
古の英雄、その筆頭の血を色濃く受け継いだ彼は人類が新たなる厄災に備えている証拠だと言われた程だった。
それを真正面から屠った存在。
そんな者が居るともなれば、一体誰が平常を保てようか。
世界中がその正体を掴まんと躍起になった。
その日を境に、間違いなく世界は動き出したのだ。
アリアを発見したのはデュークであった。
倒れ伏す彼女はまるで死んだように動かず、彼はすぐさま駆け寄り彼女の名を呼んだ。
『アリアッ!』
しかし彼女は何の反応も示さない。
募る焦燥から彼は彼女の背を抱え起こす。
そこにあったのは、目元にくっきりと残る大量の涙を流した跡であった。
驚愕に目を見開く彼は鬼気迫る顔で何があったのかを彼女に問う。
ここで一体何が起きたのか。
アルブレイズ卿は一体どこに行ったのか。
その涙の跡は何なのか。
そうすれば彼女は擦り切れたような声で答えた。
『…死ん、じゃった…』
『………何だと?』
『お父様…殺されちゃった…』
デュークは絶句した。
あの我が国の英雄が?《勇者》が?
馬鹿な。
そんなことはありえない。
そう、声を荒らげて言い返そうとした。
だが彼女のそのあまりに悲痛な顔に、彼は言葉を発することができなかった。
そもそも誰よりも彼を尊敬し、敬愛していた彼女に限って冗談でもそのようなことを言うはずがないのだ。
『………そう、か…』
そう言うことしかできなかった。
そうして彼は彼女を連れ、そのまま王城にまで向かう。
尋常ではない様子で帰還した二人を衛兵達は慌てて城内にまで連れて入った。
デュークはそのまま彼女を彼等へ引き渡すと重い足取りで自身の部屋へと入って行く。
そしてそのままベッドに深く腰掛けた。
「…アリア…」
頭を抱え、彼女の名を溢す。
彼は彼女のあんな姿など未だ嘗て見たことがなかった。
彼とてただ落ち込んでいるだけならば一喝して済ませたことだろう。
だが今回は事が事である。
果たして己に彼女の為に、友人の為にできることなどあるのだろうか。
「…くそ…ッ」
彼は自室で独り額に手をやり、そう悪態を吐く。
『…殿下』
その時、ノックと共に扉の向こうから彼を呼ぶ声がした。
「入れ」
彼が入室を許せば、入って来たのはユラであった。
「…何だ?」
「殿下があまりにも落ち込まれているようでしたので、放って置けず」
「…そうか」
普段の彼ならば、彼女のそのあまりにデリカシーの無い行為に叱責の一つでも飛ばしたのだろう。
しかし今の彼にそれ程の気力は無かった。
「悪いが、今は一人に———」
「アリア様の事で悩んでおられるのですか?」
「…そうだ」
彼は力の無い返事をする。
「なぁ、ユラ…オレは何が出来たのだろうな…」
そうしてユラへ、そんな意味のない問いをしてしまう。
あの場に居なかったユラに、一体どのような返しができるというのか。
そう、彼が無理な質問をしてしまったと取り消そうとした。
しかし彼女は口を開く。
「大変恐れながら…殿下に出来ることは、きっと無かったのだと思います」
「…」
「何故ならば、これはアリア様自身の問題だからです。私はあの場には居ませんでしたが、きっと彼女のことですから戦う勇者様の下へ向かおうとしたのでしょう」
「そして、殿下はそれを制止なされたのでしょう」
「…ああ」
「ならば、それ以上出来ることは無かったのだと…私はそう思います」
「…そうなの、だろうか」
珍しくも慰めの言葉をかける彼女にデュークは小さく感謝しつつ、もっと出来ることはあったのではないかと———そんなありもしない今を望んでしまうのであった。
アルブレイズ家の屋敷は戦闘範囲外であった為か無事その姿を維持していた。
王都全体が大きく揺らいだ関係上、いくつか置いてあった絵画や壺などの嗜好品は床に転がり、美しく整えられていた庭園は荒らされたような雑然とした景色にはなっていたものの、特に生活に支障はなかった。
そんな屋敷に衛兵と共に馬車に乗って帰ってきたアリアの視界に入って来たのは、正門の前で直立するジークの姿であった。
本来であればこのような非常事態であるならば直ぐにでも彼女の下へと駆けつけるべきなのだろう。
しかし事態は決して収束したわけではない。
今の不安定な王都では何が起こるかわからない以上、戦う力のある彼がアリアの帰るべき場所を死守せよ、と王城からの使いがやって来たばかりだったのだ。
「…お帰りなさいませ、アリア様。ご無事で何よりでございます」
「…うん、ただいまジーク」
既に数時間もの間正門の前で彼女の帰りを待っていたジークは、しかし乍ら平然とした様子で只々アリアの帰りを喜ぶのみであった。
アリアはその事に温もりを感じるも、愛想笑いを浮かべることしかできなかった。
「…旦那様の事、大変心苦しく思います…」
「…うん」
「…まずは身を清め、ゆっくりとお身体を休ませましょう」
「…そうだね」
そう言葉を交わし、ジークは彼女を大浴場へと案内した。
そうして数人の使用人に体を洗ってもらった彼女は、誰に会うわけでもなく自室へと篭ってしまった。
アリアは全身の力を奪われたようにベッドに身を放り投げる。
ただ無気力に、ぼうっと虚空を眺める。
「———」
すると何も無いはずの天蓋に、まるでスクリーンのようにあの時の景色が浮かんでくる。
勝負の決した二人の影。
膝を付く父と、彼を見下ろす黒い男。
その男に胸を貫かれる父。
そして彼が己の腕の中で消えていく光景。
———何も出来なかった、自分。
「ッ」
目を閉じても瞼の裏に同じ物が映り込む。
静かな部屋の中で、父の最期の言葉が聞こえてくるような気がした。
———君が…本当に…本当にやりたいことを、成し遂げれば、それで…良いんだ。
自分は一体、何をしたいんだろうか。
ノイズのように男の声が混じる。
———英雄としての遺言か、人間としての遺言か…どちらに応えるかはお前の自由だ。
父は一体、自分に何を望んでいるのだろうか。
———今のお前は一体何に成ろうとしている?
自分は一体、何に成りたいんだろうか。
何もかもが分からない。
自分のことも、父の真意も、己のなすべきことも、何もかも。
考えれば考えるだけ、脳が掻き回されるようにぐちゃぐちゃになってしまう。
「…分かんないよ…分かんない…」
目元に手の甲を置き、視界を塞ぐ。
何も考えたくないのに思考は巡る。
もういっそこのまま、何もかもを投げ出してしまおうか。
そんな考えさえもが思考の端っこに顔を出す。
「ボクは…何のために…」
———生きてるの。
そう呟く。
彼女が思い起こすのは、ある人物に出会う前の、本当にただ英雄を目指しているだけの、父のスペアになろうとしていたような自分だった。
みんなが期待しているから自分は英雄に成らなくてはならない、父の代わりに成らなくてはならない。
そうではなくては自分という存在に価値は無い。
本気でそう思っていたあの頃。
今思えば何と滑稽で周りの見えていない子供なんだろうか、と思わず自虐してしまう。
そんな自分が変わったのは、とある人の言葉がきっかけだった。
『君にとって人を救うことは、ただの手段なのかい?』
自分はその言葉に声を荒げて否定した。
それと同時に自分の思い違いに気がつく事ができた。
思えば父も称賛されるために人を救うのではなく、人々を救ったから称賛され、《勇者》と呼ばれるようになったのだ。
きっと自分は、本当は皆の期待に答えようだなんて思っていなかったのかもしれない。
ただ自分が英雄になるために、よく思われようとしていただけなのかも知れない。
そう自覚する事ができたからこそ、自分はやっと心から彼らの為に戦いたいと思えた。
必死に否定したその瞬間の自分こそ、あるべき姿なんだと思えた。
そうして自分は本気で剣を振るう事ができるようになった、今日まで、振るってきた。
その結果が、
自分の今までの人生には意味があったのか。
こんな自分に皆はまだ期待なんてしてくれるのか。
それともこれが、これこそが———
「———試練、ってやつなのかな」
———どうなの、お兄さん。
誰に向けたわけでも無いその問いは、空しくも虚空へと消えて———
「———『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』…悩むことは良いけれど、悩みに呑まれちゃいけないよ」
———窓を吹き抜ける風と共に、そんな声が聞こえて来た。
その聞き覚えのある声にアリアは目を見開く。
「……え?」
そうして声の主へとその揺れる瞳を向けた。
「……お兄、さん…?」
「やっ、久しぶりっ」
そこに居たのは、己の運命を変えた人物であった。
彼の葬儀は国を挙げて行われることとなった。
国を挙げて、というのは文字通り全ての国民が参加する、という意味である。
葬儀の執り行われる正確な時間帯を各都市、村に伝令し、その時間に於いては各々が追悼を捧げるという形で行うよう、王室からの勅令があったのである。
そんな半ば横暴とも捉えられる伝令に、しかし反発する者は一人としていなかった。
当然相手が国の君主である、ということは大きいだろう。
だがそれ以上に彼の死を弔いたいという気持ちが勝ったのだ。
王都の民はその全てが教会の広場に集まった。
人々は広場から溢れかえっている。
しかしそれだけの人が集まりながらその場を支配していたのは喧騒ではなく静寂だった。
『———』
聖歌隊が鎮魂歌を歌い、海のように広場を埋め尽くす民が追悼を捧げる。
最前列では王族が並び、彼ら同様静かに英雄を弔う。
そうして一人一人が、遺体の入っていない棺桶に向かって手を組み、祈りを捧げていった。
一人、また1人と涙を流しながらその場を去ってゆく。
そうしてその最後に英雄と向かい合ったのは、国王———ではなく、娘であるアリアであった。
アリアはゆっくりと片膝をつき両手を胸の前で組む。
その小さな背は、誰も見てられない程に痛々しいものであった。
しかしアリアはそんな周囲とは切り離されたように穏やかな、しかし激情の籠る目でありもしない遺体へと目を遣る。
そうして、彼の想いに答えるように告げる。
『俺は、君のお父さんの想いに応えるべきだと思うよ。英雄じゃなくてね』
———でも…
『そうだね、君は今の自分が幸せになる事が想像できないんだね』
『けどそれは、きっとその未来を霞ませる何かがあるからだよ』
———未来を、霞ませる…
『なら、——————君自身の幸せを邪魔しているものは、一体何なんだろうね?』
「ごめん、お父様…ボク———
———アイツを殺さないと、幸せになんかなれないよ…ッ」
少女は父の最期の願いに応えるべく、英雄となる道を選んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます