第36話 夢の最後まで⑦

 一人で生きていけるけど、寂しいものは寂しい。夢の中でしか会えなくて、毎朝起きては大切な人がいない現実に絶望する。


 それを繰り返していると、心も麻痺してくる。それが当たり前になる。


 それでも、心はいつでも彼女を求めていた。たった一人の、大切な人を。


 でも、僕にはいつのまにか、もう一人大切な人ができてしまっていた。


 その人は今、目の前にいる。


「……毎朝起きると……足に枷をつけられたように体が重くなります……」


 ゆっくりと、ヒカゲは呟くように話し始めた。


「明日こそは……そう思って明日が来ると、昨日より重い枷が私についていました。行きたい……行かなきゃ……そう思ってるのに……体が動かない……制服を着て、なんとか足を引きずって部屋の扉に手をかけると、今度はどうしようもない吐き気に襲われます……」


 ヒカゲはパタンと、力なくその場にへたり込んだ。


「司さんに出会って……お母さんの笑顔を見て……本当に学校に行きたいと思うようになりました。でも……体が言うことを聞かないんです……」

「ヒカゲ……」

「私は弱い……変わりたいのに変われない……毎日が苦しい、苦しい。胸が張り裂けそうになる……。どうして……私は学校に行きたいのに……」

「……」

「どうして……夢の私は強いのに……現実の私はこうも弱い。苦しいのは嫌だ……逃げたい……みんなに合わせる顔がない……こんな現実……もう嫌だ……」


 だから、私は理想の私でいられる世界を選んだんです。


 ヒカゲは弱弱しい声で最後にそう言った。


 心と体の矛盾。学校に行きたいと思うヒカゲの心と、それを拒絶するヒカゲの体。


 相反する現象に、ヒカゲの心が耐えられなくなって夢の世界に逃げ道を作った。


 最初から、ヒカゲの現実逃避はヒカゲ自身だったんだ。学校に行けないことじゃない。僕は、大きなところでヒカゲの気持ちを理解しきれていなかった。


「どうして……僕に言ってくれなかったんだ……」

「言えるわけないですよ……」

「なんで?」

「司さんに……失望されたくなかったからです。あんなにしてもらったのに……口だけで行動に移せない私のことが……だから、司さんからも逃げたんです……」

「僕は失望なんかしない」

「そう……ですね。たぶん、私もそう思ってました。でも……私は弱いから、それを理由にして全部逃げ出したかったんです。辛い現実から全部……」

「それでも……逃げ続けちゃダメなんだ」

「はい……だから、負けちゃいました」


 ヒカゲは弱弱しく儚げに笑った。


 人は嫌なことから逃げたくなる。だってそうだろ。辛いことからは目を逸らした方が楽になれるんだから。


 でも、逃げた事実はいつも自分の心に楔として打ち込まれ、時間が経つごとにより深く突き刺さる。やがて、向き合うことを諦める。


 ヒカゲはまさにその類だ。心が前向きになったところで、突き刺さった楔が大きすぎて身動きがとれなくなった。そして、そんな自分に絶望して現実から目を逸らした。


 僕はこの世界を壊せない。この世界に留まる選択をヒカゲがしたのであれば、その逆の選択もまた、ヒカゲ自身がしなくてはならない。


 僕にできるのは、言葉を尽くしてヒカゲを説得するだけ。


「ヒカゲは、どうしたい?」

「私は……」

「現実の弱い自分が嫌だとか、そんなの今はどうでもいい。本当は、どうしたいんだ?」

「私は……司さんと……学校に行きたいです……」


 ふり絞るような声でヒカゲは言った。


「よかった。その言葉を、僕は聞きたかったんだ」


 僕はしゃがんで、ヒカゲと目線の高さを合わせた。


 今にも零れ落ちそうな涙を溜めた、縋るようなヒカゲの瞳が揺れる。


「今まで一人で辛かったよな。これからは僕も一緒だ」


 そっと、僕はヒカゲの頭に手を置いた。


「一人でどうにもできないなら、これからは二人でなんとかしよう」


 一人で現実に立ち向かえないなら、一人でやらなきゃいいだけだ。


「一人でできないことでも、二人ならできる。それによく言うだろ。人の字は、人と人が支え合ってできているんだって。一人で立てないなら、僕がヒカゲを支えるよ」

「でも……体が動かないんですよ……現実の私はダメなんです……いたっ……」


 話の途中で、僕はヒカゲにデコピンをお見舞いした。


「痛みなんて感じてないだろ。嘘をつくな」

「心が痛みました……戦いは終わったのに酷いです。死体蹴りです」


 叩かれた額をおさえながら、ヒカゲは抗議の視線を向ける。


「ヒカゲが僕の話を聞いてないからだろ」

「そ、そんなことは……」


 ムッとして見せれば、ヒカゲは困惑の表情を浮かべる。


「僕を頼れよ」

「え……」

「部屋から出られないなら、僕が部屋から連れ出してやる。重い枷がついてるなら、僕がそれをぶっ壊してやる。僕が、ヒカゲを明るい時間の学校に連れて行ってやる」


 自主性を重んじて、直接的な行動は控えていた。


 学校に来るのは、ヒカゲ自身の意思で決めることだって。僕は勝手に線を引いていた。


 でも、学校に行きたいのに行けないなら、もうそんなことを言っている場合じゃない。一人で悩んでどうにもならないなら、友達が直接手を差し伸べるんだ。


「だから、こんな世界より僕を選んでくれよ。僕は、もっと現実でヒカゲと楽しいことをいっぱいしたいんだ」

「司さん……」


 できることはした。僕の心からの想いもぶつけた。


 あとは、ヒカゲが選択をするだけ。夢か、現実か。


「そうですね……私も司さんと楽しいことがいっぱいしたいです」


 おもむろに、ヒカゲが立ち上がる。


「知らない場所にも行きたいですし、学校でおしゃべりだってしたいです」


 そう言って、ヒカゲは僕に手を差し出した。


「だから……私を部屋から連れ出してくれませんか? きっと一人じゃ無理だから……」

「……任せろ。友達が困っていたら、死ぬ気で助けるのが友達だ」


 僕は、ヒカゲの手を取って立ち上がった。


 瞬間、大きな地響きが発生し、大地を揺らす。


「きゃっ」


 バランスを崩したヒカゲをそっと抱き留める。


「あ、ありがとうございます……これは?」


 世界の端からひび割れて、剥がれ落ちるように崩壊を始める。


「司さん……魔法でも使ったんですか?」

「まさか。もう、僕に魔法を使う理由はないよ」

「じゃあこれは?」

「わからない。でも、世界が終ろうとしているのかもしれないな」

「世界が終わる?」

「ワンダーランドは現実逃避が生み出した世界。ヒカゲが本当の意味で現実と向き合うことを決めたから、現実逃避の世界が崩壊しているのかもしれない」


 正直なところ、正確な理由はわからない。ただ、考えても仕方ない。


 世界はどんどん崩壊を続けている。剥がれ落ちた世界の奥には、何もない漆黒の空間が広がっている。まさに虚無と言った感じだ。


「ど、どうしましょう! 早く帰らないと!」

「ヒカゲは大丈夫だろ」

「ど、どうしてですか?」

「世界が終わる前に、ヒカゲの意識は現実に戻るはずだ。これはヒカゲの夢だからな」


 覚めない夢から覚める時が来た。これは言ってしまえばそれだけのことだ。


 問題は……僕か。


「でしたら、司さんはどうなるんですか?」

「どうなるんだろうなぁ……」

「なんで落ち着いているんですか! そ、そうだ! 私が司さんを現実に追い返せば!」


 僕の体の中を何かが通り抜けた。


「っ……効かない……なんで!」

「そりゃ、簡単に目が覚めないようにしたからな」

「だから! どうしてそんなに落ち着いていられるんですか!」

「ヒカゲがちゃんと現実に帰る意思を示してくれたから。それが嬉しいんだ」


 早く帰らないと。その言葉がヒカゲの口から出てきただけで満足だ。僕はやりきった。


 もうヒカゲは大丈夫。あとのことはまぁ……なるようにしかならないだろ。


「私のことより自分のことを心配してください!」


 世界の端から崩壊は進んでいく。


 地面は相変わらず眩暈がしそうなくらい揺れていて、僕たちはお互いを支え合うように抱きしめる。


「あ……れ……」


 まず、ヒカゲに異変が起こった。


 まるで力が抜けたように、僕にかかる体重が重くなる。


「なんですか……これは……?」


 立っていられなくなったのか、地面に倒れそうなヒカゲを僕が支える。


「なにって、現実のヒカゲが目を覚ますんだろ?」

「そんな……ダメです! だってまだ司さんが……! ここで倒れるわけには……!」


 僕の手を払いのけて、ヒカゲがふらつきながら立ち上がる。


「無理するな。早く現実に帰って僕を安心させてくれ」

「ダメ……司さんが帰るまで……私が意識を失うわけにはいかないん……です……!」


 何度も頭を振って、ヒカゲは自分の意識をなんとか保とうとしている。


「ま、僕はいつ帰れるかわからないから、しばらくは世界の終わりを一人で堪能するよ」


 崩壊する世界を肴に、勝利の余韻に浸るのも悪くない。


「この世界がなくなったら……司さんがどうなるかわからないじゃないですか!」

「きっと死にはしないよ。ここはそういう世界だろ?」

「でも……」

「そんな泣きそうな顔するなよ。先に帰るなら笑顔で僕を見送ってくれ」

「い、嫌です! 司さんのいない世界に帰ったって意味ないです! それなら私はまだこの世界を選びます!」


 必死に叫んでも、世界の崩壊は止まらない。


「なんで……どうして止まらないんですか……!」

「よかった。これでどうやったって現実に帰れるな」

「いや、嫌です……嫌です……ここでお別れは嫌です……」


 ヒカゲがその場に倒れこむ。自分の意思ではどうにもならないレベルまで意識が離れ始めているんだ。


 僕は倒れこんだヒカゲにそっと寄り添う。


「今生の別れみたいに言うなよ。ヒカゲの方が、ちょっと先に現実へ帰るだけだろ?」

「こんな状況で……帰って来られる保証……ないじゃないですか……」


 泣きそうな顔でヒカゲが言った。


「なら、目覚めのキスでもしてくれれば起きるんじゃないか?」


 僕はおどけて返事をした。


「え?」

「眠れる人をキスで起こすのは定番だし」

「本当に起きますか?」

「それはやってみないとわからないな。ちなみに僕はヒカゲの横で寝てるから」

「私……ファーストキスです……」

「それは素敵な情報だな」


 本気でやるつもりなんだろうか。僕としてはヒカゲを笑わせるための冗談だったけど。


 ヒカゲの目が僕に訴えかける。本当に帰ってくるんだよね? と。


「僕だってここで終わるつもりはない。ちゃんとヒカゲを迎えに行って、一緒に学校へ行くんだから。約束は守らないとだろ?」

「本当に……本当に約束ですよ……」

「信用ないなぁ。じゃあ、指切りしようか」


 僕たちは指切りをした。現実で会う約束をして。


 その最中、ヒカゲの体がほのかに輝き始めて、だんだんと透き通っていく。


「嘘ついたら……絶対に許さないですよ……」

「おやすみ、ヒカゲ。向こうで会おう」


 やがて、ヒカゲは光の粒子になって霧散した。


「さて、どうするか……」


 残された僕は、崩壊する世界を眺めながら一息ついた。


 創造主がいなくなり、世界の終わりはより一層加速していく。


 地面が、壁が、天井が、まるで紙がめくれるように剥がれ落ちていく。


 何もない真っ暗な空間がそこまで迫っていた。


「ま、なるようにしかならないか」


 なんだか、僕の意識も遠くなっていく。


 現実に帰るのか、はたまた。


「はは……見たかよ……このくそったれな世界をぶっ壊してやったぞ」


 誰もいない空間に呟く、世界への勝利宣言。


 その代償はいったいなにやら。世界が終わった時、僕はどうなるのか。


「この終末を体験できるのは、僕だけの特権だな」


 目の前の世界が黒に染まる。視界が霞んでいく。


 世界がそうなっているのか、僕の意識が失われているのか、もうわからなかった。


「もう……やっぱり無茶するんだから……お守り渡して正解だったよ」


 消えゆく意識の中で聞こえたのは、居るはずのない、最愛の幼馴染の声だった。


「色々と……耳が痛かったよタカ君。まぁ、焚きつけたのは私だけどさ」


 耳元でそっと囁く声が聞こえる。


「お疲れ様。帰ろっか」

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