夢幻の花たちよ

プロローグ

祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

娑羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらはす

おごれる人も久しからず

唯春の夜の夢のごとし

     (『平家物語』より)


 鼻を突くような匂いと、頬をつんざくような鋭い風が、私を突き刺す。

「誰も見ていない。」

 そう思えば思うほどに、誰かの視線が、私を嘲るように感じられる。

「今日テストどうだった?」「いやー、もう言えないから! そういうそっちはどうなのよ」「まあまあまあ、平均は越えた」「うわ負けた!」

 この学校の誰しもの言葉が、会話が、私の心の居場所を潰す。

 ヒマリは、その手を刺す紙の束を、グシャっと握りしめた。

 坂を下るヒマリの髪が、たなびくたびに頬と首を叩いた。

 ヒマリは、「孤独」だった。

 家に帰っても、どうせ怒られるんだろう。そんな思いで、暗い気持ちを振り払うように走った。


 肌に触れるひんやりとした空気は、外の焼くような日光と纏わりつく大気が嘘だと感じさせるほど、心地よい。

 私の「避難場所」は、いつも図書館だった。

 家族に叱られたって、友達とうまくいかなくたって、思い通りに事が進まなかったって、あの古びたインクの香りと紙の手触り、それにフィクションの物語は、常に私のオアシスとなってくれる。

 あの空間にいるときだけは、辛い現実から目を背けることが許されている。呼吸をするたびに、オアシスが砂漠の渇きを癒すように、インクの香りが私の肺を満たした。

 いつも通り、まだ見ぬ冒険の世界へ踏み出そうとし、見慣れた人影が、「911」と書かれたコーナーにしゃがみこんでいるのを見つけた。

「あれは、アヤセ?」

 思わず上の空で呟く。

 小学校から一緒の友達だって、中学、高校と進めば疎遠になる。アヤセだって、友達だった。

 高校に上がって、「友達」は私の目の前から、忽然と姿を消した。そして、「孤独」になった。

 私は「孤独」が好きなわけじゃない。むしろ、「孤独」が好きなんて言っている人の大半は、「孤独」でないことに気づいていないか、鬱になっているかのどちらかだ。

 真に「孤独」と言える人は友人どころか、家族という存在にさえ、自分という存在を決して明かすことができない。心のうちに「孤独」という部屋を作って、自分以外は誰も出入りできないようにするのだ。

 誰も、戸を叩くことはない。

 そんな元友達の前を通り過ぎる事なんて、できるだろうか? いや、できない。

 まずい、これでは本が読めない。

 顔を合わせるのが気まずい、というどころか、あいつの視界に入ることでさえ、私を認識されるかもしれない。そんな恐怖にも似た焦りが、隅のほうにある、「930」コーナーへと私をつきたてた。


「閉館十分前でーす! まだ残っている方は、お早めにお帰りください」

 もう時間か。貸出手続きは、しなくていいか。家は、私の「オアシス」には到底成り得ない。

 時間は止まってくれない。私の至福の時は終わりを告げてしまったのだ。棚に本を詰めて、一歩一歩、ゆっくりと歩く。

 外の空気は相も変わらず、じめじめとしていた。さっきより、匂いが鼻を突く。

 ゴロゴロゴロと、雷だろうか。これは……降る!

 ジャァ―――

 まさか降るなんて! やっぱり、夏の予報ってあてにならない!

 ヒマリは全速力で疾走した。

 さっきまでは一滴と降っていなかったのに、バケツをひっくり返したような雨だ。

 どこか、屋根、雨宿り、できるところ……!

 熱気などもうすでに感じなかった。生温い水がヒマリの頭を打ち付ける。

 夏だというのに、ヒマリの両手は青白く、小さく震えていた。息切れによる吐息が、かすかな熱を持って、体を必死に温める。

 頭が真っ白になって、何も考えられなくなりそうだ。


 無我夢中になって走り、気が付くと路地にいた。

 雨に、打ち付けられて……ない? 止んだのだろうか。

「くしゅん!」

 くしゃみの音とともに、ホワイトアウトしていた思考が再開した。

 ヒマリはびしょ濡れになっていた。

 服全体が鉛のように重い。髪から垂れた水滴すら、残り僅かな体温を削り取ろうとする。

 思わず、膝が地面に落ちた。

「……わぁ!」

 顔が上を向いたせいで見上げた空は、星が、瞬いていた。

 月は細長く黄金色に輝き、無数の星々が小道を照らしている。空気とネオンに遮られて普段は見えないのに。何も聞こえなくなり、ただひたすら、空を見るということに夢中になっていた。

 ふと、胸が苦しくなった。深呼吸をすると、よりくっきりと感じられて、まるで異世界の景色をみているみたいだ。

 パリパリパリ

「え、なに? これ……?」

 すっかり座り尽くしていたヒマリは、違和感を感じた。

「ひび……」

 空から入った亀裂は、すぐに星空を埋め尽くし、足元に迫った。

 後ろから、トトトト、という軽いリズムの音がした。振り向くと、アヤセが立っていた。

「はぁ、はぁっ! ヒマリ!」

「アヤセ……? どうして」

 激しい呼吸音とともに現れたアヤセの体は、濡れ切っていた。左手の傘は、開きっぱなしになっている。

「アヤセ……? どうして」

 パリパリパリ

「な、なんだよこれ」

 アヤセが後ずさりするも、亀裂は流星が駆け巡るように広がっていく。

 パリパリパリパリ、パリッ

 視界全体が、ひびに支配されている。そして、ひびの隙間から、光が漏れ出した。

「ま、まぶしい!」

「ヒマリ! 足元みろ!」

「え……?」

 地面が、なくなった?

 世界は、透明なガラスが割れていくように、崩れ始めた。

 足の置き場所がどこにもない。ジェットコースターみたいで、気持ち悪い感覚だ。言いようのない浮遊感がヒマリを襲った。

「ヒマリ! 手ぇつかめ!」

 アヤセは傘を投げ捨て、私を追って落下していく。

 あれ、アヤセ、手、伸ばしてるのかな。私に?

 構わないでよ。友達じゃないんでしょ……。

 何も声が出なくて、反応できない。何も、聞こえない。

 視界が、白に包まれていく。


 二人は光に包まれて、やがて、消えた。

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