第8話

 文化祭の準備が本格的に始まった。教室に足を踏み入れた瞬間、いつもとは違う空気が漂っていることに気づく。普段は整然と並んでいる机が、今は壁際に寄せられ、広々とした空間が生まれていた。その中央には、大きな模造紙が広げられ、数人のクラスメイトがその周りに集まっている。


 俺は少し躊躇しながらも、その輪の中に加わった。昨日までとは違う、何とも言えない緊張感が体中を駆け巡る。


「おはよう、佐藤くん」


 声の主は山田だった。クラス委員らしく、すでに準備は万全のようだ。


「よっ」


 俺は気恥ずかしさを隠すように、軽く手を挙げて応えた。


「ほら、みんな。佐藤くんが来たよ。装飾のアイデアを聞いてみよう」


 山田の声に、周りにいた生徒たちが一斉にこちらを向いた。その視線の重さに、思わず背筋が伸びる。


「あ、ああ……」


 俺は咳払いをして、緊張した面持ちで説明を始めた。季節感を大切にしたデザイン、みんなで協力して作れるような仕掛け、そして来場者を楽しませるための工夫。昨日までノートに書き殴っていたアイデアが、今、言葉となって口から溢れ出す。


 話し終えると、一瞬の沈黙が訪れた。その間、俺の心臓は激しく鼓動を打ち続けていた。


「すごいね、佐藤くん!」


 沈黙を破ったのは、意外にも石川だった。彼の言葉に、他の生徒たちも次々と賛同の声を上げる。その反応に、俺は少し戸惑いながらも、内心ほっとしていた。


 そんな中、教室の入り口から新たな人影が現れた。沙英雪乃だ。彼女は颯爽と教室に入ってくると、すぐに全体の様子を見渡した。


「おはよう、みんな。準備は順調?」


 雪乃の声が響く。それを合図に、クラスメイトたちの動きが一段と活発になる。


「雪乃、こっちに来て! 佐藤くんのアイデアがすごいんだよ」


 石川が雪乃を呼び寄せる。彼女は少し驚いたような表情を浮かべながらも、俺たちの輪に加わった。最初は雪乃による恣意的な策略を感じていたのだが、どうやらみんな体が慣れてきたのか? 自然と俺のことを褒めるようになってきた。なんだろう。むず痒い。


「へえ、どんなアイデア?」


 雪乃の目が俺に向けられる。その瞳に映る自分の姿が、妙に小さく感じられた。


「あ、いや、大したことじゃ……」


 俺が言葉を濁そうとすると、山田が横から口を挟んだ。


「いやいや、すごいんだよ。ほら、佐藤くん。もう一度説明してあげて」


 促されるまま、俺は再び説明を始める。今度は自信を持って話せた気がする。雪乃は黙って聞いていたが、うんうんと頷いている。


「みんなで作れる仕掛けがあるのは良いアイデアだね」


 雪乃の言葉に、俺は思わずほっとした表情を浮かべる。が、すぐに我に返り、平静を装った。褒められて調子に乗るのは俺のキャラではないのだ。そして、無理やり心を落ち着かせようとすると、脳が余計なことを考え始める。クラスメイトを相手にするときは、こんなにも明るく花のような笑顔を見せるんだよな。雪乃。──でも、俺にしか見せないあの険しい顔も、また良い。


「じゃあ、さっそく作業に取り掛かりましょう」


 雪乃の号令一下、クラスメイトたちが動き出す。俺も含め、みんながそれぞれの持ち場に散っていく。壁の装飾を担当する者、天井から吊るす飾りを作る者、入り口のアーチを組み立てる者。教室は瞬く間に活気に満ちた。


 俺は主に全体の監督と細かな調整を任されていた。あちこち歩き回りながら、みんなの作業を確認する。その中で、たまに雪乃と目が合う。彼女は忙しそうに動き回っているが、どこか楽しそうな表情を浮かべている。


「佐藤くん、こっちはどう?」


 声をかけてきたのは、演劇部の田中だった。彼女が担当している壁面装飾を見る。


「うん、いいね。でも、ここの部分をもう少し……」


 俺は少し考えながら、アドバイスを送る。田中は真剣な表情で聞いている。


 そんなやり取りを繰り返しているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。気がつけば、放課後の鐘が鳴っている。


「みんな、お疲れ様! 今日はここまでにしましょう」


 雪乃の声が響く。クラスメイトたちから安堵のため息が漏れる。


「明日も頑張ろうね」


 雪乃の言葉に、みんなが元気よく返事をする。俺も小さく頷いた。


 一緒に教室を出ると、二人で帰っていることを不審に思われるかなと考えて、のらりくらりと小さな片付けごとをやっていたら、気づけば雪乃と二人になっていた。同じことを考えていたのかもしれない。これまでだって、同じ方向に同じような時間に帰っていたことは何度もあったのに、あの登校のことがあるから余計に意識してします。


 帰り支度をしていると、ふと天井の装飾が目に入った。今にも落ちそうになっている。これはまずい、と思ったときには、装飾の一部はもう床に落ちてくるところだった。幸い、重たいものではなかったのだが、せっかく作ったものが台無しになってしまった。


「どうしよう」


 雪乃が落ちた装飾を手に取りながら言う。このままでは明日のリハーサルができない。


「修復しないと」


 俺の言葉に、雪乃が頷く。


「そうね。でも、もう遅いし……」


 雪乃は時計を見て、少し困ったような表情を浮かべる。


「俺が残って直すよ」


 思わず口から出た言葉に、自分でも驚く。が、言葉を撤回するのも変な気がして、そのまま黙っていた。


「ほんと? じゃあ、手伝ってもらえると、嬉しいかな」


 雪乃の返事に、俺は動揺する。雪乃は最初から残るつもりだったのだ。二人きりで学校に残ることになるなんて、今となってはなぜか稀なことではなくなったのだけど──そういえば、俺を服飾係にしたのが雪乃の作戦だったのかをまだ聞けていなかった──、これだけ遅い時間に残るのは初めてだな。


 静寂の教室に二人。集中しているから、というのもあるが、やはり二人きりになると口数は少ない。互いに黙々と装飾を修復していく。「これ、どう?」とか「ここはこうしたほうがいいかも」といった会話が交わされるが、それ以外はほとんど無言だ。


 作業に集中していると、ふと雪乃の手が目に入る。細くて綺麗な指が、器用に飾りを組み立てている。思わずじっと見てしまう。


「どうかした?」


 気づかれてしまったらしい。俺は慌てて視線をそらす。


「い、いや。なんでもない」


 気まずい空気が流れる。俺は頭を振って、再び作業に集中しようとする。


 そんな中、ふいに雪乃の腕が俺の腕に触れた。一瞬のことだったが、その感触が妙に鮮明に残る。


「あ、ごめん」


 雪乃が小さく謝る。俺は「いいよ」と言おうとしたが、声が出ない。代わりに、ぎこちなく頷いただけだった。


 作業を再開する。が、さっきまでの集中力が途切れてしまった。雪乃の存在が、やけに気になってしまう。彼女の吐息、髪の揺れ、指先の動き。どれもが鮮明に感じられて、落ち着かない。あんなふうに部屋に押しかけてくるからだ。


 一人暮らしの男の部屋に、パジャマ姿で、あんな無防備でやってくるなんて、いくら俺だって女を意識する。というか、このところは変な欲望が首をもたげて仕方がない。俺は、雪乃と二人で居ることに、心地よさを感じてしまっている。


 そんなこんなで戸惑いはしつつも、修復作業も終わりに近づいてきた。


「あとは、これを上に取り付けるだけね」


 雪乃の言葉に、俺は「ああ」と緊張気味に返事をする。天井近くまで手を伸ばす雪乃。その姿を見ていると、妙にドキドキしてくる。


「ちょっと、届かないかも」


 雪乃が言う。俺は咄嗟に彼女の腰に手を添えて支えようとした。が、その瞬間、


「あっ」


 雪乃が身をよじったせいで、バランスを崩す。俺は慌てて彼女を抱きかかえるような形になった。


 一瞬の出来事だった。が、その一瞬が妙に長く感じられる。雪乃の体温、香り、そして驚いた表情。全てが鮮明に脳裏に焼き付く。


 しかし、雪乃を堪能していたその記憶も、次の瞬間には吹き飛ぶことになった。俺が抱きかかえていた雪乃は、まるで髪の毛が逆立つかのような驚きの表情を顔に滲ませて、それから、プログラムの悪いロボットみたいにぎこちなく俺から離れたのだった。


 彼女はまだ目を見開いたままこちらを見ている。俺に抱かれた腕の部分をさすって、凍えるように震えていた。そんなに嫌だったのか。


「ご、ごめん……!」


 とっさの謝罪は、単に雪乃に触れてしまったことに対してのものではなかった。嫌われたくないと思ってしまっていた。心の底から。大した交流もしていないはずの俺は、あんな沈黙だらけのコミュニケーションを取るうちに、勝手に雪乃と仲良くなったつもりになって、そして、少なくとも今の関係が終わってしまわないことを、望むようになっていた。


「あっ……いや、その。こちらこそ、ごめんなさい。というより、ありがとう」

「……へ? 何が?」

「何がって。受け止めてくれたこと」

「あ、ああ」


 あれ、おかしい。俺に触れられて身の毛もよだつほど気持ち悪かったんじゃないのか。


「いや、その……」

「ん?」


 我に返った雪乃は、髪をかき上げながら「こういう、感覚なんだなーと……」とか。言っていた。俺には何を言っているのかわからなかった。


 気まずい沈黙が流れる。俺は何か言おうとするが、適切な言葉が見つからない。


「あの……」


 結局、俺が口を開いたのと同時に、雪乃も何か言いかけた。二人とも言葉を途切れさせ、お互いの顔を見る。


「うん……」


 雪乃が小さく呟く。その表情が、妙に柔らかく見えた気がする。


「じゃあ、帰ろっか」


 全ての作業を終え、教室を出る頃には、すっかり日が暮れていた。

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