後編
ベッドの隣に置いてあった椅子に座り込み、由美の顔をじっと見る。
「つっ」
その瞬間、頭がズキッと痛みだした。そして、脳裏に浮かんできたものがあった。
「ごめん。今はそういうこと考えられなくて」
直樹はその女の子の告白を受け入れなかった。それというのも、直樹には好きな女性がいた。年上の綺麗な女の人だった。その人には既に婚約者がいて、直樹が入り込む隙はなく叶わぬ恋だった。それでも、直樹は彼女への気持ちが治まらない以上、誰か他の人と付き合う気にはなれなかった。
「そ、そうだよね。赤村君、私のことなんて全然知らないもんね。ごめんね、変なこと言って」
そう言って、女の子は教室から出ていった。どうやら今のが会津が言っていた用事がある子だったのだろう。直樹は少し嫌な気持ちになったが、気にしていてもしょうがないと、気持ちを切り替えようとした。
少し考えた後、直樹も教室を出ていった。もう戻ることのない、最後の教室を。
脳裏に浮かんできた高校の卒業式の日の光景。何だったのだろうか。直樹は痛む頭を押さえながら考えた。
——断った? いや、俺は確かに……。
「うっ」
頭が更に強く痛み出した。それと同時に、また脳裏に何か浮かんできた。
「ちょっと、赤村。何であんないい子振ったのよー」
外に出ると、第一に直樹を迎えたのは吉村でも後輩たちでもなく、会津だった。
いい子かどうか直樹は知らないことなのだが、直樹はそこを指摘するつもりはなかった。
「俺にもいろいろ——とな」
「あの子、泣いて駆け出して行っちゃったよー」
「そう」
直樹は自分のしたことに心が痛んだが、気持ちに嘘はつけなかった。どうしようもなかったと、自分に言い聞かせた。
「おお、赤村。用事はもういいのか。だったら早く行こうぜ」
事情を知らない吉村がいつもの調子で声をかけてきた。直樹は会津の方を軽く見てから吉村に言い返した。
「悪い。急用が入ったんだ。今日は行けないんだ」
「なんだよ、急用って。……まぁいいけどな」
あまり聞いてはいけないことだと思ったのか、吉村はそれ以上聞かなかった。相手が聞かれると困るようなことは詮索しない。吉村のいいところだった。
「じゃあ、またな。お二人さん」
直樹は二人に手を振ると、その場から立ち去った。
別に途中まで一緒に帰ってもよかったと思うのだが、直樹は下校から二人の邪魔をする気はなかったし、なにより直樹自身が一人で帰りたかった。
「なんだよ、あいつ」
「いい女の子を振ったお馬鹿さん」
「はぁ?」
その時、不意に何か音が聞こえてきた。
「救急車」
会津の言葉通り、救急車のサイレンが大きく響く。近いようだ。
「事故でもあったみたいだな」
「そうね」
二人が何か話していたが、もう離れていた直樹にはその声は聞こえなかった。しかし、救急車のサイレンの音だけは、いやによく聞こえていた。
そうだ。それで事故ったのが、由……美。
そして、由美はそれからずっと目を覚まさずに眠り続けている。
直樹はあの日の真実を思い出しかけていた。しかし、直樹は依然として理解できないことがあった。
この六年間である。由美がずっと眠っているという記憶の一方で、直樹は確かに由美と付き合ってきた記憶もあるのだ。
二人きりの部屋で過ごした。デートもした。旅行もした。とてもたくさんの話をして、お互いに高め合って、安らぎ合って。この記憶は、嘘じゃない、はずだ。
「由美……」
直樹はベッドに横たわる由美の手を握り締めて、語りかけた。
「あれは、お前の亡霊だったのか? それとも、俺があの時の責任を感じて起こしてきた妄想だったのか?」
由美は目を閉じたまま、答えることはなかった。
そうだ。指輪……。
直樹はポケットに入ってあった指輪の箱を取り出した。開けると、そこにはデザインが同じサイズ違いの指輪が二つ入っている。
『え? 直樹、婚約指輪と結婚指輪の違いを知らないの?』
『一緒じゃないのか?』
『はは。まぁ、今まで知る機会がなかったんなら仕方ないか。婚約指輪は、結婚の約束の証として、主に男性が女性に贈るものね。プロポーズのときに渡されるやつ。結婚指輪は、結婚の印として、二人でつけるものだよ』
『じゃあ、俺が由美にプロポーズをするとしたら、婚約指輪を買っておけばいいってことか』
『しれくれるの? プロポーズ』
『例えばの話だよ』
『もう。でも、うーん。私は婚約指輪はいらないかな。お揃いの結婚指輪があれば。そうだ。もしいつかプロポーズしてくれるときがあったらさ、結婚指輪を用意してほしいな。基本二人で選ぶものだけど、直樹が選んだものならそれがいいな。あ、今の内に指のサイズ教えておくね』
笑って楽しそうに話す由美の姿。
この記憶が、嘘であってたまるものか。
直樹は由美の指輪を箱から取って、由美の左手の薬指に優しくはめてあげた。サイズはぴったりだった。
ぴったりのはずなのに。
ならば、どうして由美はここで眠っているのか。混在する二つの記憶が、直樹を悩み苦しませる。
ふと、直樹は先ほど指輪の箱を取り出す際にポケットに手を入れた時、何か別のものが指に触れたことを思い出した。もう一度、ポケットの中に手をやると、それはあった。
取り出してみると、飾り気のない小瓶だった。中には、薬のような錠剤が入っている。
『この薬を飲めば、彼女と一緒になれますよ』
誰かがそんなことを言っていた気がする。誰だかは思い出せない。しかし、直樹にはそれが真実のように思えた。
『水は要りません。口の中で溶けますから、それを飲めばよいのです』
記憶にある言葉に従い、直樹は小瓶から錠剤を取り出すと、口に含んだ。苦いような甘いような味が口の中に広がっていく。
その時、直樹の目にあるものが映った。棚の上に置いてある果物が詰めてある籠だった。誰かの見舞い品だろうか。いつ目を覚ましてもいいようにと。
直樹は立ち上がって、籠の中の林檎を取り出した。
そして、由美の顔の横に林檎を置いて由美に微笑みかけると、直樹は再び椅子に座った。
「林檎。好きだったもんな……」
直樹は意識が朦朧としてきていた。薬のせいだろうか。
かろうじて保っている意識の中で、直樹は自分の左手の薬指にも、自身の結婚指輪をはめた。
そして、由美の手に自分の手を重ねると、そのまま由美の上にゆっくりと倒れ込んだ。
「もう、あれが夢であろうと何だろうといい。これで、ずっと一緒だ」
意識が薄れ消えていこうとする前に、直樹はもう一度由美の顔を見つめた。
その瞳には涙が浮かんでおり、顔はどこか微笑んでいるように見えた。
二人の重なった手。それぞれの薬指にはまっている指輪が、銀色の美しい輝きを放っていた。
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